第4話「動物園に行こう!」
夏休みに入った梁間3兄妹。
兄の雪彦は宿題もそこそこに片付けて夏を満喫......といきたかったところだが、生憎何一つとして予定がない。妹たちが夏を計画的に過ごそうとしているだけに、自分の無気力さ無趣味さを痛感するのだった。
そんな雪彦の前に、ある人物が突然現れて...?
1
昨日の予報通り、その日は朝から暑かった。
午後はさらに気温が上がるから熱中症対策を怠るな、とも言っていた。
タオルケットを身体に包んで寝たはずだが、よほど俺に嫌われたのだろう、ベッドから離れて申し訳なさそうに床で横たわっている。シャツにびっちゃりと染み込んだ寝汗が、起き抜けの不快感を際立たせた。
時計を見ると、短針がちょうど7時を回っている。一度寝たらなかなか起きないことで有名な男であるこの俺が、たった5時間ほどの睡眠で目を覚ましてしまったというのか。...そもそもどこで有名なのだろう。
とにもかくにも、この暑さでは心地よい二度寝は望めなさそうだ。よっこらせと身を起こし、湿ったTシャツを脱いで着替える。
少し考えて、ベッドからシーツを取り外し、丸めて小脇に抱えた。
寝不足が欠伸を押し出すと、顎が外れるのではないかと思うほど大きく口が開いた。
右手にシャツ、左にシーツを抱えて部屋を出る。向かうは1階、浴室横の洗濯機。
妹たちは、もう起きているだろうか。
夏休みが始まり、すでに3日が経った。
長期休暇を最大限に満喫するべく、俺は夏休み序盤のこの数日を利用し、各授業で課された宿題はほぼ全て完了させている。夏休み中はもう二度と勉強しません、と夏の大三角形に固く誓ったのは昨晩のことであった。
しかし、夏休みを満喫するとは言ったものの、これといって何か特別な予定があるわけではない。
週に1~2回は化学部の活動があることと、その化学部の合宿が来月の頭にあることを除けばあら不思議、カレンダーがこんなにも白いではありませんか。衣料用洗剤よろしく、主婦も喜ぶ驚きの白さである。
ほぼ同時に夏季休暇が始まった妹たちはというと、兄を差し置き、予定がびっしりと詰まっているという。
剣道の全国大会を控えた霞は、来月に行われる地方の強化選手が集まる大きな合宿にも呼ばれているらしい。
日々の部活や高校受験のための勉強もあるだろうに、まったくご苦労なことである。
小学生のみぞれはというと、夏祭りだのプールだのお泊まり会だのと、それはもう楽しいビッグイベントが連日催されるようで、サマーなバケーションをマックスにエンジョイしていらっしゃる。
ちなみに、彼女は夏休みの宿題を、絵日記や自由研究を含め、全て休みが始まる前日に終えてしまっている。
いや日記は書いちゃダメだろ...それどんな未来日記。
ともかく、家族の中で俺だけが暇を持て余す1ヶ月になりそうだ。
炎天下の甲子園で必死に白球を追う同年代の球児たちを、アイス片手にテレビ越しで見ている自分の姿が容易に想像できてしまう。なんならクーラーもつけて涼しくしよう。アイスはチョコミント味に決めた。
......何かやりたいことでもあれば、少しは充実した休みになるのかもしれない。
自分の洗濯物を適当に放り込み、粉洗剤と柔軟剤を中に撒き散らして洗濯機の蓋を閉める。風の通りが悪い2階の自室とは異なり、1階にはどこからか涼しい風が吹き込んでいるようだ。最近吊るし始めた窓際の風鈴が、チリンチリン、と涼しげな音を立てて揺れている。少なくとも、2階にいるよりは幾分か過ごしやすそうな気がした。
涼を求めて、薄明かりが差し込む廊下をスリッパで鳴らしながら歩いていく。ふと、風に乗って漂ってくる香りが鼻についた。
どうやら、風はリビング、香りはキッチンから流れてきているようだ。
ぶらぶら遊ばせていた左手で痒い背中を掻きながら、余った右手でリビングのドアを開ける。
まだ完全には開ききらないを目を食卓に向けると、早起きな妹たちが朝食を取っているところであった。
「あら兄さん、おはよう。こんな時間に自分で起きてくるなんて珍しいじゃない」
皿の上と口を往復し8ビートを刻んでいたスプーンを持つ手を止め、こちらに気づいた霞が声をかけてくる。
赤い色のジャージに身を包み、長い髪を後ろで束ねている様子を見るに、どうやら朝の自主練習を終えた後らしい。
「...はよ。この暑さでおちおち寝てられなくてな...不覚の極みだ」
基本的に、前の晩にあらかじめ炊いておいた白米と冷蔵庫の残り物で各々が勝手に朝食をとるのが、我が家のスタイルである。
だから、妹たちが朝から温いチャーハンをかき込んでいるのは少し新鮮だった。食卓に向けていた細い視線を、霞の隣でゆっくりと食を進めるもう一人の妹に移す。
はて...こんな朝早くに起きられるような甲斐性がうちの末妹にあっただろうか......
頭が働かない。
シャツが寝起きの肌に擦れてむず痒く、背中を掻いていた手を腰のあたりにやる。
眩しそうに目を細めた顔を妹たちに向けて立ち尽くす兄に、霞が再び声をかける。
「みぞれ、今日からラジオ体操だったみたい。6時頃、友達がみぞれを起こしに来てくれてさ」
「...ああ、ラジオ体操か。なるほど」
妹たちの食事風景を黙って見ていると台所の方から、雪彦もつっ立ってないで座ったら、と投げかけられた。
それもそうかと思い、手近な椅子を引き、テーブルを挟んで霞の前の席に腰を下ろす。
リビングの方から吹き込んでくる涼しい風が、寝起きの体には心地よかった。
頭がまだ睡眠を欲しているのが自分でもよく分かる。腕を組んで耐えてみたが欲に抗えず、ついには机の上に腕をたたんで枕代わりにし、頭を伏して視界を閉ざしていた。
不意に、顔の近くに熱を感じた。
「ちょっと雪彦、食べるとこで寝ないでよ。ほら、あなたの分のチャーハン」
首を右に回して顔を右に向けると、カレー皿に盛られたチャーハンが湯気を立ち上らせている。
「冷めないうちに食べちゃいなさいよ」
「ん。悪い」
目の前にあったスプーンを手に取り、重い頭を持ち上げて、チャーハンの入った皿を手元に引き寄せる。
「...いただきます」
スプーンでチャーハンをすくい口に運びながら、ここでふと、気づく。
........あれ?
妹二人は目の前にいるし.........これ作ったの、一体誰だ?
スプーンに乗ったチャーハンをジッと睨む。先ほどまで頭の上をふわふわと漂っていた意識が、途端に脳の奥底に引き戻された。
「ああ、そうだ。悪いけど、冷蔵庫に入ってた焼豚、勝手に使わせてもらったから」
声のする方、つまり台所の方を慌てて見た。見て、愕然とした。
「なんでお前がうちにいるんだよ...」
視線の先では、橙色のエプロンをした束石竜子が、慣れた手つきで鼻歌交じりにフライパンを洗っていた。
「それがね、朝の散歩してたら、ラジオ体操帰りの霞ちゃんとみぞれちゃんに会ってさ」
霞のやつ、中学生になってからもまだラジオ体操なんて通ってんのか...
「二人とも朝ごはんまだだったから、じゃあ私が作ってあげるよ、って感じで......」
霞とみぞれはやや重い朝食を済ませ、食卓の席から既に離れていた。
みぞれはリビングのソファをだらんと横になって占領し、何度も欠伸をしながら、朝の情報番組を垂れ流すテレビを無言で眺めている。その奥のガラス越しに、庭で竹刀を振っている霞の姿がチラチラと見える。
「それにしても珍しいじゃない。雪彦が一人で朝起きられるなんて」
「暑くて寝てられなかったんだよ。そのせいで、こうして幼馴染のつまらん話し相手をさせられてる」
俺も食事を終えていたので、麦茶が半分ほど残ったグラスを両手で弄びながら、斜め向かいに座った竜子の朝食に付き合っていた。
「あら、代わりに朝ごはん作ってあげたのに、その言い草はないんじゃない?」
「それは...まあ、礼を言っとく...」
俺が口ごもるのを見て、竜子は満足そうにスプーンを口に運ぶ。
「それよりさ、雪彦は夏休み入ってからどうなの?なんかあった?」
「別に。何もないな。今までも、今日も、これからも」
はあーっと長いため息をついたかと思うと、呆れたように竜子はかぶりを振った。
「悲しい。悲しいわ雪彦。せっかくの夏休みよ、サマーヴァケーションよ!なんかないの!」
「部活以外なんもない」
「仕方ないよ竜姉ぇ、だって雪兄ぃは雪兄ぃなんだからぁ」
リビングでみぞれがカラカラと笑っている。何その理由。俺まで悲しくなってきた。俺が寂しい人間であることは既知の事実なので特に否定しない。
「竜子、お前はどうなんだ。夏休み、何か予定はあるのか」
思わず、年頃の娘をもつ厳格な父親然とした尋ね方になってしまった。
「私はいろいろあるわよ。部活もあるし。今日だって御影と出かける予定だったのよ。まあ、向こうの家の都合でその約束も流れちゃったけどね」
そう言うと竜子は顔の横でスプーンをくるっと回して見せた。
「それはまた残念なことで」
あの千鳥さんのことだ、例の喫茶店の手伝いでもしてるんだろう。
やはり世の中の高校生というのは、遊びやら部活やらバイトやら、随分と充実した夏休みを送っているらしい。充実した夏休み、なんてのは都市伝説じゃなかった。
ぬるくなった麦茶に口をつける。
「雪彦、そんなに暇なんだったらさ...」
少し俯いて呟いた竜子の言葉の続きを、グラスを傾けたまま視線で促した。
「今日さ、動物園に行かない!?みんなで!」
と、高らかに宣言して突然立ち上がったので、少し驚いてしまった。
多分俺は、ぽかんと間の抜けた顔をしていただろう。
さんせー、とみぞれの明るい声がリビングに響き、窓にかけた風鈴が再びチリン、と揺れた。
2
台泉高校前の駅まで歩いていき、さらに地下鉄で20分。俺たち4人は、終点、七木山動物園駅に到着した。
中学時代から登下校を始めとした普段のあらゆる移動の足を自転車に頼っていたので、こうして電車に揺られたのは随分と久しぶりな気がする。
短い付き合いであった切符に別れを告げ、一行の殿を務めるようにして改札を出た。元気よく上がっていく竜子と霞を見上げながら、地上へと続く長い階段をみぞれと共に息を切らして登っていく。
ようやく登りきったと思ったのも束の間、最高にヒートアップしたお天道様が外で待ち構えていた。
「いやー、思ったより早くついたわねー...っと」
「七木山なんて久しぶりに来ましたよ」
先に外に出た二人は天に向かって腕を上げ、背伸びをしていた。
彼女らの足元に広がる歩道は日差しに晒されて、キラキラと白く輝いて見える。
その背後に見える道路は緩やかな下り坂になっているようだ。道路の果てに、横に長い陽炎がゆらゆらと揺れていた。
ジリジリジリ、と聞こえる蝉の鳴き声が、道路の黒いアスファルトを焼く音のようにも思えた。
「あっちぃ......」
「あっつぅ......」
僕らはいつも以心伝心というわけではないが、少なくとも今は妹と気が合うようだ。
この日陰から出たら、死ぬ。
俺もみぞれも分かっていたから、頑なに出口から動こうとはしなかった。
「みぞれ、ここまで来たんだから諦めなさい。ほら行くわよ」
「やーめーろー!あたしはまだ死にたくなーい!溶けるー!溶けてしまうー!」
「溶けないわよ。さっさと出なさい」
霞に手首をギュッと掴まれ、みぞれが引きずられるようにして日陰から連れ出された。
必死に抵抗しているようだが、霞に力で敵う道理もなく、彼女の歩幅の分だけ影から遠ざかって行く。
額に浮かんでくる汗をそのままに、俺は呆然と立ち尽くしたままその様子を日陰から眺めていた。
「雪彦、あなたもほら、出てこないと置いていくわよ」
日差しを背後に手招きする竜子が、一瞬、眩しかった。
「それとも、力づくで無理矢理引きずってでもしないと出てこれない?」
竜子の言葉が耳に届いたのか、少し遠くでみぞれを掴んだままの霞が、こちらを睨んでいる。
「...分かったよ」
とうとう観念して日向に出て行く決心をし、重い足で一歩を踏み出す。
妹に連れ出してもらうなんて、兄として、いささか格好が悪すぎるだろう。
「ひゃー...結構混んでるわねー」
竜子の言葉通り、七木山動物園の西門入口には、子供連れの家族の姿が数多く見られた。
台泉市内の公立学校がほぼ同時に夏期休暇に入ったのはつい先週のことである。
平日とはいえ、この混みようも無理からぬ話であった。
「いやあ、こういう時は自分が小学生で良かったと思うね。やっぱり子供って得だわ」
「みぞれ、あんたって子は...少しはその損得勘定控えなさいよ」
「それじゃあチケット買ってこよっか。霞ちゃんとみぞれちゃんはタダで入れるから、私と雪彦の分だね」
妹たちの会話を余所に、動物園を目の前にした竜子のテンションがいつになく高い。その目は飛行石のように輝いている。この様子なら、彼女が勝手に仕切ってくれるだろう。今日の俺は保護者を御役御免、空でも見上げて天空の城でも探していようか......親方!空から女の子が!......降ってこないなあ......
「いくわよ雪彦!じゃんけん...ポン!!」
「うおっ」
ボーッとそんなことを考えていたら、いつの間にか目の前に立っていた幼馴染から不意打ちを受けた。
「はい、私の勝ちね。それじゃあ、高校生2人分のチケット、よろしく〜」
開いた手の平を顔の横で振りながらどことなく悪い笑みを浮かべる竜子を、俺はじーっと睨んだ。
「お前...俺が咄嗟にグー出す癖を知っててふっかけただろ」
「さあ?なんのことかしら?」
そっぽを向いて下手な口笛をする様子を見るに、あくまでもシラを切るつもりらしい。
それ以上の追及を諦めて、自分の出した握りこぶしを解き、その手を腰の財布に回す。
いってらっしゃーい、と背中に投げかけられ、俺は不満を隠すことなくチケット窓口の列に向かった。
ゲートを抜けて入場すると、園内が広いせいだろうか、入口で感じたほど混んではいないように思えた。
「うわ、懐かしいわね。私が小学生だった時となんにも変わってないわ」
あたりを見渡しながら、霞が感慨深そうに言う。
「俺も小学生以来だ。来ようと思えば簡単に来れるんだが、なかなか行こうとは思わないもんな」
地元にある観光名所というのは、身近すぎるが故にありがたみが薄れがちな気がする。
「あたしは去年来たわ......ってかあっつい...暑すぎる...太陽つよい......」
「だーから帽子被っとけって言っただろうが。ほら、我慢してこれ使っとけ」
だらんと両腕を落として呻き声をあげるみぞれの頭に、俺は自分の帽子を被せてやった。
「ん...ありがと。雪兄ぃはいいの?」
帽子を深く被り直し、振り返って俺の方を見ながら申し訳なさそうに言う。
「俺はいいよ。具合悪かったらすぐ言えよ」
せっかくの楽しい夏休みを、熱中症で棒に振るのはもったいないからな。
視線を少し移すと、いつの間に準備していたのか、竜子は首から一眼レフカメラを提げ手に持った紙を熱心に眺めている。どうやら、この動物園のパンフレットらしい。これまたいつの間に。
「よしっ」
と力強く放つと、体とパンフレットをこちらに向けて、丁寧な説明が始まった。
「今私たちがいるのがここ。西門ね」
パンフレットには、七木山動物園の簡単な地図が描かれている。この動物園は東西に長い敷地になっているようだ。竜子は地図の左端、『西門出入口』の部分を指差し、そのまま指を右下の方へ移動させながら続ける。
「この『アフリカ園』のところをぐるーっと回ったら、次に北の『爬虫類館』を見て、西エリアをコンプリート」
指が8の字をなぞるように地図の左半分を一筆書きし、今度は右側に移動し始める。
「そしたら中央の食堂で一旦休憩して、午後は広い東エリアをゆっくりと回る。...こんな感じでどうかしら?」
一通りの説明を終え、パンフレットの上からひょこっと満足そうな顔が覗く。
「計画的でいいと思います」
霞が胸の前で手を合わせながら賛成した。
「意義なーし!」
みぞれは右手を竜子の方へ伸ばし、グッと親指を立てた。
「任せるわ」
そっぽを向いて欠伸を噛みながら、俺は賛成するふりをして責任のノールックパスを決めて見せた。
「よーし、それじゃあ行くわよーっ!最初は『アフリカ園』のカバに向かいまーす!」
優秀なガイド様もいることだし、今日は何も考えずにただ後ろをついて行けば良さそうだ。
自然にレディーファーストを実践できちゃうあたり、ほんと俺って紳士。
強い日差しの中で既に熱を帯びつつある髪を掻いて、少し遅れて3人の後をゆっくりと追った。
獣の臭い、というやつだろうか。この独特な臭いを嗅ぐと、自分が動物園に来ているという実感が強く感じられる。...あまりいい臭いではないが。
視線の先で、3頭で連れだったアフリカゾウが、特徴的な大きな耳と長い鼻をブルンブルンと震わせている。やはり実物は大きい。
俺の前に立つ霞とみぞれは、手すりに体を預けて前のめりになってゾウに好奇心の目を向けていた。その隣では竜子が辺りを動き回ってカシャカシャとカメラのシャッターを何度も切っている。
なぜかその姿が様になっており、一端のカメラマンのようだ。
「あぁ〜...あのどこか物憂げな目がたまらないわぁ......」
構えたカメラを顔から離すと、その表情は緩みきっていた。
そうなのか......そうなのか?
まあ確かに...そんな感じの目に見えなくもない。きっと俺の感性が乏しいのだろう。
「はあ...動物園に来るって分かってたら、無理して自由研究やらなくてよかったのになあ...」
みぞれががくりと肩を落として溜息をつく。
意識をこちらに戻した霞が尋ねた。
「そういえばみぞれ、自由研究も終わらせたんだっけ?なに研究したのよ」
「道路標識の研究」
「お前それ、俺が小学5年生だった時の自由研究じゃないか。またパクったな」
フフン、と兄を鼻で笑い、みぞれは得意げに髪を払った。
「あたしが本気で研究したら大学のレポートになっちゃうでしょ。小学生のレベルに合わせるには仕方ないのよ」
遠くでゾウの中の1頭が鼻を振って鳴いていた。
「いいじゃない、大学レベルの研究を提出してみても。立派なものだと何がいけないの?」
竜子の考えはもっともだ。正論とも言える。
しかし。
「そんなことしたら、世間にあたしが天才小学生だってバレちゃうの!」
その危機感の持ちようは、さながら、見た目は子供、頭脳は大人を売りにしているどこぞの名探偵みたいである。
黒の組織にバレたら大変だよね。
みぞれは周囲を気にする素振りを見せた後。小声で言った。
「万が一、世間に知れ渡るようなことがあれば、望まない進学をさせられたりワケの分からない研究所に連れて行かれたりするに決まってるわ!そんなのイヤだよ!あたしはテキトーにラクして生きていきたいんだから」
そう、この向上心の無さこそ、我が妹を「梁間みぞれ」たらしめているのだ。
もの覚えの良さ、学習能力、応用能力...
肉親という贔屓目無しに見ても、学術的分野においてみぞれは"天才的才能"を有していると思う。マクローリン展開を理解している小学5年生を俺は他に知らない。
折角持ち合わせているこの才能を生かす選択肢を持とうとしないのが、これまたタチが悪い。
今の世の中に、お前の才能を羨む人間がどれだけいると思うんだ。
「まったく...宝の持ち腐れってこのことよね...」
霞の手刀がコツン、とみぞれの帽子の上に落ちてきた。右手を放った霞は、どこか諦めたような表情をしている。
「とにかく...あたしは"普通"がいいの!『ちょっと勉強ができる女の子』ってだけで十分なの」
よいしょよいしょと霞の腕を持ち上げて持ち主に返すと、みぞれはピースサインを左目にあててニヤリと笑った。
一連の主張を聞いていた竜子がクスッと笑う。
「ほんと、あなた達兄妹といると飽きないわ。できる妹がいて、お兄ちゃんも大変ね」
霞とみぞれ。
二人とも、本当にできる妹だと心から思う。
剣道で優れた結果を出し続ける霞に、学問で天才的な能力を持つみぞれ。
自慢の妹たちだ。その気持ちに嘘はない。
しかし、妹たちを誇らしく思えば思うほど、それと同時に自分の心が液体窒素でも流し込んだかのように冷え切っていくのが分かるのだ。こんな風に思うようになったのはいつからだろうか。小学校?中学の時?...もう覚えてないな。
この感情は、嫉妬とは少し、違うと思う。
それでも、こんな感情を抱いてしまう自分が、嫌いだ。
「ああ、まったくだよ...ほんとにもう......」
この気持ちを悟られないように、無理して口角を上げ、いつの間にか足元を見ていた視線をアフリカゾウに戻した。
先ほどまで集まっていた3頭が広い塀の中で散り散りになっている。
しかしながら、とりわけ体の大きい1頭だけが、小さい歩幅で足踏みをするように、同じ場所にとどまり続けていた。
.........ほんとにもう、笑えない。
3
キリンやフラミンゴ、シマウマといった動物たちが住まう『アフリカ園』をぐるーっと一回りし、その後の『爬虫類館』で妹たちの悲鳴を聞いていたら、時計の時刻は正午をとうに過ぎていた。
俺たちは当初の予定どおり、動物園のほぼ中心に位置する休憩所に向かって歩いた。俺ももう高校生、何かと多感な年頃なので、「休憩所」という言葉に少なからずエロスを感じる。Oh...
西エリアと東エリアの間は1本の緩やかな坂道で行き来できるようで、園内を南北に生い茂る雑木林の中にその道は走っている。
両側に大きな雑木林を抱える並木道をよたよた歩く。木々がアーケードの屋根のように頭上で葉を重ね合い、木漏れ日がまるで街灯のように木陰になった足元を照らしている。
動物園という特性上仕方のないことだが、屋内にいた『爬虫類館」を除き、日向でひたすら太陽に焼かれ続けた。
太 陽がどんどん高くなっていき、ただでさえ少ない日陰がどんどん侵食されていったためだ。それだけに、この木陰はありがたかった。
雑木林の中を吹き抜ける涼しい風が、汗でベタついた肌を撫で、シャツと髪に波を立てていく。
思わず、ふぅぅ、と長いため息が出た。
「わーい!すーずしー」
慣れない太陽にやられ、俺と同様、動物園を練り歩くアンデッドと化していたみぞれが息を吹き返した。
すしざんまいの広告を彷彿とさせるポーズで、みぞれは風を感じている。なんのフレンズやねん。
きゅー...ぐるるるる...
気がつけば、腹の虫が鳴いていた。思い返すと、起床即昼食の生活に慣れていた俺にとって今朝の食事はいささか早かった。
そんな俺の様子を知ってか知らずか、前を歩く竜子が振り返った。
「ほら、あれが休憩所よ。ちょっとした軽食も出してるから、あそこで昼食にしましょう」
彼女が目で示した先、短い階段の上に白っぽい建物が見える。階段の横には「もりの食堂」と書かれた立て看板。
砂漠でオアシスに辿り着いた行商人の気持ちが、なんとなく分かった気がした。
その名の通り、「もりの食堂」は木々に囲まれた静かな場所に建っていた。
壁や柱は太い丸太を使用しており、いつか見た「北の国から」の丸太小屋を思い出した。
上に長い直方体のような建物を中心に、およそ1階部分に相当する高さをもった白く長い屋根が翼のように左右に伸びており、屋根の下は丸テーブルが並ぶテラス席になっている。
遠目には白亜の大きな建物に見えたのだが、どうやらこの特徴的な屋根がそう見せていたようだ。
涼しい風が吹いているからだろうか、外部空間になっているテラス席の方が、扉越しに見える店内よりも混み合っている。
静かに食事ができる空席がどこかにないかと視線を左右に彷徨わせていると、メニュー看板の前で何やら腕組みをしていた3人が、こちらに向き直ってそれぞれ口を開いた。
「そうね.....私は焼きそばとカレーにするわ」
「あたし、たこ焼き食べたーい」
「それじゃあ私はホットドッグで。席は確保しておくから!よろしく!」
ガトリングのようにテンポよく注文を告げた3人は、俺が返事をする間も無く右側のテラス席へとスタスタと向かっていった。ちょ、待てよ。
店の入口前に一人取り残される形で立ち尽くしていたが、これもまた長男の役目と自分に言い聞かせ、開け放たれた扉に向かう。指折りながら妹たちの注文を心の中で復唱しながら歩いた。
さて、俺は何を注文しようか...
まあ、その場で適当に決めてしまおう。
店内の1階部分にはカウンターの他に、上へと続く階段が設けられており、外から見えた2階部分もまた休憩スペースになっているようだった。園内を上から見渡す景色が広がっていることが予想できる。
梁間雪彦となんとかは高いところが好き、というわけではないが、綺麗な景色があるのなら興味をそそられる。しかしながら、生憎俺の足が階段の上り下りを拒否している。
とにかく今は役目を果たそう。
注文カウンターにて支払いを済ませ、渡された整理札を持って手近な壁にもたれていると、思ったより早く、札に刻まれた番号が呼ばれた。
「お待たせしました。気をつけてお持ちください」
白鳥を模した帽子の下に笑顔を浮かべながら、女性店員は料理が乗った盆を二枚、カウンターに置く形で俺に差し出した。
園内がこれだけ混んでいるのだ、この休憩所も人でごった返しただろう。それでもなお、疲れを見せることなく笑顔すら振りまいてみせる店員たちに、心の中で脱帽した。
店員に軽く礼を告げ、盆を持ってテラス席へ向かう。
「ゆーきーひーこー!こっちこっち!」
外に出るや否や、視界の端で竜子が立ち上がって手をブンブン振っているのが目に入った。
声も身振りも大きく、周りの客が一瞬、竜子たちの方をちらと見る。同席している霞は肩を竦めて小さくなっており、少し恥ずかしそうだ。
「雪兄ぃ、はやくはやく!おーなーかーすーいーたー」
みぞれは両腕でテーブルを叩き、これまた行儀の悪いことに足をバタつかせている。やめなさい、みっともない。そんな子に育てた覚えはありませんよ!
「待たせたな。おあがりよ」
みぞれの足を軽く踏んでおとなしくさせ、それから両手に持っていた盆を丸テーブルの中央に並べて置いた。
「いただきまーす!」
「いただきます」
霞とみぞれが盆に手を伸ばすのを見届けて、俺も空いた席に腰を下ろす。
「悪いわね。私の分まで」
ホットドッグの包み紙を丁寧に剥ぎながら、竜子は言った。
「別に構わないさ。朝飯の礼だと思ってくれれば、それでいい」
フライドポテトを一つつまんで、口に放る。濃ゆい塩の味が舌に伝わった。
「それに、うちの妹たちがこうして世話になってるしな」
「あら、私はあなたを世話してるつもりだったわ。これで夏休みの思い出ができたじゃない。よかったわね」
「そりゃどうも」
水筒から注がれた麦茶が入った紙コップを受け取り、ゆっくりと喉に流し込む。正面に座る霞は、皿2枚分の料理を平らげてもなお満たされないといった様子。まだ半分ほどフライドポテトが残った箱を回してやった。
「まあ、たまにはこういうのも、悪くないな」
思わず、口に出た。
「雪兄ぃ、今なんか言った?」
口の周りににソースをつけたみぞれがこちらを見る。なんと間の抜けた姿だろうか。お兄ちゃん恥ずかしいよ。
「お前の食べる姿勢が悪いって言ったんだよ。ちゃんと座って食べなさい。あと、ちゃんと口拭いとけ」
4
後ろ髪を引かれる思いで休憩所を発った俺たちは、林道を抜け動物園の東エリアへと足を踏み入れた。
パンフレットによると、ニホンザルやレッサーパンダといった小型の哺乳類から、イヌワシやフクロウなどの鳥類、さらにはライオンをはじめとした猛獣まで、多くの動物たちが展示されているようだ。
マップを見る限り、東エリアは西エリアよりも広大で、エリア内の道も複雑に入り乱れている。
普段なら俺がマップを睨んで効率の良い順路を考える場面だが、今日は動物園を知り尽くしたガイドがいる。
「東エリアは南から左回りに見て回るわよ。最初はラマとラクダね」
「はーい」
みぞれが右手を挙げてイクラちゃんばりに元気よく返事をした。ちゃーん。
ようやく園内を一通り見て回り、出口に向かう帰り道で事件は起こった。
雲ひとつない青空に照る太陽が西に傾きつつあるものの、それでも身を焼くような暑さはまだ健在だ。
例の林道を抜けて西エリアに出たところで、檻の中で輝くクジャクをぼんやり眺めながら西門に向かって歩いていた。
意外にも、最初に気づいたのは俺だった。
「ちょっと待ってくれ。...あの子、迷子じゃないか?」
前を歩く3人に声をかけ、こちらに振り向いた視線を顎で打ち返し、さらに向きを変えてやった。
檻の手前で、5歳くらいの男の子がキョロキョロとあたりを見渡している。
檻の中で派手な色彩の翼を広げているクジャクになど目もくれず、道ゆく人の顔を一人一人確認している。必死に誰かを探しているようだった。
「家族とはぐれちゃった、ってところかしら。ちょっと心配ね。声かけてみるわ」
「悪い。頼むよ」
4人していきなり近づいてしまうと威圧してしまいかねないので、俺と霞は会話が聞き取れる程度に少し離れて、竜子とみぞれがゆっくりと近づく。
「こんにちわ。お母さんとはぐれちゃったのかな?」
膝を折り、男の子と同じ目線の高さで笑みを浮かべて語りかける。
なるほど、小さい子にはああやって接するのか。
「ううん、ちがうよ。みっちゃんを待ってるんだ」
舌足らずながらも口を動かして懸命に話す様子が、子供特有の幼さを感じさせる。
帽子の下から覗く汚れのない目が、まっすぐに竜子の目を見据えていた。なんて綺麗な目だ...眩しい...俺にも、あんな目をした時代があったのだろうか。だがその目には、多少の不安が宿っているようにも見えた。
「みっちゃん?みっちゃんと動物園に来たんだね」
「そうだよ。お母さんのかわりにみっちゃんが連れてきてくれたんだ」
みっちゃん、ねえ......あだ名では性別の判断がつけられない。ちなみにかばんちゃんは女の子だと最後まで信じてる。
おそらく"みっちゃん"は母親以外の保護者なのだろう。
この口ぶりから察するに、その"みっちゃん"とやらと共に二人で来たらしい。
「ねえ、さっき待ってるって言ってたけど、"みっちゃん"はどこに行ったの?」
「みっちゃんはおトイレに行ったんだ。そのときにね、みっちゃんに言われたの。『すぐに行くから、さっきのとりさんのところで涼しくして待っててね』って」
......『さっきのとりさんのところで涼しくして待っててね』か...
彼の言う、『とりさんのところ』が何を指すのかは知らないが、どうしてトイレ前で待たせなかったのだろう。子供をわざわざ一人で歩かせるような理由があったのだろうか。
「そっかあ。ええと...あ、そうだ。お名前言ってなかったね。私の名前は竜子っていうの。お兄ちゃんのお名前、教えてくれないかな?」
こっくりと首を大きく縦に振り、その子はハキハキした口調で名乗った。
「ゆうき。はるかわゆうきっていうんだ」
ハルカワユウキ...この歳では、名前の漢字を尋ねるのはいささか酷というものだろう。
「ゆうき君だね。それじゃあ、お姉ちゃんたちと一緒にみっちゃん探そっか!」
「うん」
竜子が右手を伸ばすと、小さな左手がその手を握り返した。
「とにかく場所を変えよう。ここじゃ日に当たりすぎる。どこか日陰に移動しよう」
太陽は傾きつつあるが、今日の日差しは弱まるところを知らない。ずっとこの場所で待っていたのなら、ユウキ君の体調も心配だ。
「ひっ」
突然声を出した俺に驚いたのか、ユウキ君は竜子の影に隠れてしまった。あはは、日陰ってそういう意味じゃないよ。
スカートの裾をぎゅっと掴み、怯えた目でこちらを見ている。
俺...嫌われたなあ......
竜子が聞き出したユウキ君の話を要約すると、つまりこういうことらしい。
この少年、ハルカワユウキ少年は、彼が呼ぶところの”みっちゃん”なる保護者と二人で七木山動物園に来ていた。午前中は”みっちゃん”と一緒に映画館でアニメの映画を見てきたというから、動物園に到着したのはおそらく昼頃だろう。上映時刻と映画館から動物園までの移動時間を考慮すると、そう判断できる。
”みっちゃん”と共に動物園を回ったところで、”みっちゃん”はお手洗いの間にユウキ君から目を離してしまった。場所は東エリアのトイレ前。その際、”みっちゃん”はユウキ君に言い残した。
『さっきのとりさんのところで涼しくして待っててね』、と。
その言いつけを素直に守り、最後に見た鳥類、イヌワシが展示されている檻の前まで歩いていき、その場で待っていた。イヌワシは”みっちゃん”と別れた東エリアにいる。
しかしいくら待っても”みっちゃん”は現れない。そこでユウキ少年は『さっきのとりさんのところ』が指す場所がここではなかったと悟り、広い園内を一人で歩き回り、鳥類という鳥類の檻の前で片っ端から待っていたという。子供ながらその行動力には恐れ入る。
そしてたどり着いた、西エリアのクジャクの前で待っていたところを俺たちが発見した。...らしい。
近くの木陰でゆるーい事情聴取を行ったが、真相にはたどり着けなかった。
ユウキ少年の持ち物に何か手がかりがないかと期待したが、保護者の連絡先を示すようなものは皆無だった。
首から下げていた子供用水筒の他に、未開封のペットボトルと凍らせたパック飲料がリュックサックに入っていた。
他には映画館で買ってもらったらしいおもちゃや、熱で溶けた飴、小さい袋に入ったスナック菓子。リュックサックの中身は、全てみっちゃんが入れてくれたものだそうだ。
本来なら動物園のスタッフに事情を話して彼の保護者を捜索してもらいたいところだが、生憎周りにスタッフらしき人が周囲に見当たらない。太陽光をたっぷり吸収したのだろう、なんとなく掻いた頭がえらく熱かった。
竜子やみぞれはユウキ少年とすっかり打ち解けたようで、少年が今朝見たという映画の話に大げさな相槌を交えながら耳を傾けている。
「兄さん、どうするの?」
隣で俯いていた霞が顔を上げた。
マップを睨んで『とりさんのところ』がどの場所を指すのか、必死に推理していたようだ。
ユウキ少年が”みっちゃん”と離れたトイレは東エリアの北西部にある。昼間に通った東西エリアを結ぶ一本道、あの並木道を東エリアに出るとすぐ左手に見える位置だ。
そして彼はイヌワシ、フクロウ、ペンギンといった具合に鳥類の檻を転々とし、東エリアを時計回りに一周するような形で移動したのちに並木道を抜け、西エリアへと向かった。
「昼に寄ったあの休憩所に行こう。あそこならここから近いし、店員もいる。動物園の管理事務所なり他のスタッフなりと連絡を取ってくれるだろう。...竜子、頼む」
俺の言葉でまた怖がらせてしまうのは気が引けるので、竜子に通訳を依頼する。
俺ってそんなに怖いか...?
「よし!ユウキ君、アイスクリーム食べに行こっか!そこで待ってたらみっちゃんもすぐ来るよ!」
「ほんと......?」
「ほんとだよ!お姉ちゃんたち嘘つかないよ!」
「...わかった...」
ユウキ少年はあまり気乗りしない様子。
待ち合わせ場所かもしれない鳥類の近くを離れることが不安だ、といったところか。
竜子の手を強く握り、立ち上がった。
竜子とユウキ少年、みぞれが横になって楽しそうに進む後ろを尾けるようにして、俺と霞は歩いていた。どんな集団になっても、俺は最後尾になってしまうらしい。どんな時も殿を務めてしまう俺って武将すぎない?
昼間と同じ林道を3人と2人で歩いてゆく。影の向きと長さこそ変化しているものの、道は相変わらず木陰で、肌を撫でる風もまた冷涼だった。
「どれくらい経っているのか分からないが、”みっちゃん”がまともな保護者なら、今も必死に園内を探し回ってるだろうな」
「何?”みっちゃん”に同情でもしてるの?」
「してない、って言えば嘘になる。自分が目を離した隙にあんな小さい子が一人でどっか行ってしまったんだ。今頃気が気でないだろうなと思っただけだ」
「そう思うならさっさと教えてよ。兄さん、何か気づいてることあるんでしょ」
「あるにはあるんだが......まだ確証がない。まあ、着いてから話す」
確証もなく話すのはあまり好きではない。偉そうに説明し、間違えてたときの恥ずかしさといったらないだろう。
それにおそらく、すぐ”みっちゃん”と再会できるだろうよ。
5
歩くこと約10分。例の休憩所、”もりの食堂”に到着した。
子供の歩幅に合わせて歩くというのは思った以上に大変だったが、同時に懐かしい気持ちにもなった。
竜子とユウキ少年が歩く後ろ姿に、昔日の自分の姿を重ねて見る。
霞やみぞれが小さい頃は、ああして手を引いて歩いたものだ。
いつの間にか、妹たちの歩幅が俺の歩幅に追いついてきているのだと、今日1日歩いてみて改めて実感した。...今はそんな感傷に浸っている場合ではなかった。
「じゃあ私たちは席で待ってるから、店員さんへの事情説明よろしく。あとアイスも」
「了解。ユウキ君のことは頼む。霞、悪いが一緒に来てくれ。俺の腕2本じゃあ人数分のアイスを持てない」
「わかったわ」
「雪兄ぃ、あたしはチョコレートのアイスね」
「誰も聞いてねえよ」
テラス席の方へと向かう3人の背を見送り、俺と霞が店の入口前に残った。
俺たちが昼に来たときとは打って変わり、休憩所を利用する客もまばらになっていた。
「霞、この建物を見てどう思う。何か気づくことはあるか?」
「うーん...そういえば、テラス席にかかってる屋根が妙に長いかな、とは思った」
「少し不自然だよな。屋根といい二階建ての店部分といい、何か意図のようなものを感じた」
「意図って?」
「ああ、そんな大層なものじゃないんだ。中に入れば、おそらく分かるだろう」
さて、答え合わせだ。
俺に続くようにして、霞もまた開け放たれた扉をくぐる。
注文カウンターに近づくと、入店してきた俺たちに気づいた店員が作業の手を止め、カウンターに向き直った。
昼にも見た、同じ女性店員だった。
二度目の入店を知ってか知らずか、「いらっしゃいませー」と笑顔を振りまく。
「あっ...!なるほど」
その店員を見て、霞も何かを悟ったようだ。
「あの、お仕事中にすみません。少しお伺いしたいことがあるんですが、いいですか」
「はい、なんでしょうか」
店員がかぶる帽子にちらりと視線を向けたあと、単刀直入に俺は切り出した。
「こちらのお店に、迷子を探している方が来ませんでしたか?」
「あ!来ました来ました!2~30分くらい前かなぁ、男の子を探してるっていうお姉さんがいましたよ!」
......ビンゴだ。ついでに”みっちゃん”はどうやら女性らしい。
ゴシップが好きなのか、嬉しさ楽しさ驚きが混じったような顔で、その店員は興奮気味に続ける。
「少し目を離したらいなくなっちゃったって、その子泣きそうな顔してましたよ。ここで待っているように言ってたみたいですけど。なにか分かったらお願いします、って電話番号だけ書き残してすぐどこかに行っちゃいました」
「俺たち、迷子の男の子をこの近くで保護したんです。迷子の子を確認してもらいたいんですが、その方と連絡を取ってもらうことはできますか?」
「いいですよ。任せてください!」
店員さんがいい人で助かった。
「ありがとうございます。...ああ、それから...ソフトクリーム4人分もお願いします」
「『とりさんのところ』って、ここだったのね」
店を出たところで霞が呟く。
俺の両手がそうであるように、彼女の両手もまたソフトクリームでふさがっている。
「最初にこの建物を見たときは俺も気づかなかった。だが店員の姿を見て、この建物の形に納得した」
俺たちは振り返って建物を見上げた。二階建ての白い外壁。そこから左右に伸びた長い屋根。
「この休憩所って、白鳥をモチーフにした形になっていたのね」
「ああ。パッと正面から見ただけじゃあとてもわからないけどな」
テラス席があることを考慮しても妙に長い屋根だと思った。
しかし、最初に店内に入ったとき、店員が被っていた白鳥の帽子を見て初めて理解した。
「この休憩所の建物が白鳥の形をしていることは分かったわ。でもなぜ、ここが『とりさんのところ』だって気づいたの?」
「ああ、それか。それは”みっちゃん”が、あの子のことをすごく大事にしてたからだ。今日は暑いからな」
「......もう少し分かるように説明してくれる?」
こちらに向けられた訝しげな視線を咳払いで遮り、不精ながらも俺は話を続けた。
「そうだな...まずは今日の天気だ。今日は猛暑になるだろう、って天気予報でも言ってたな。現に、昼頃には俺の活動限界を超える気温まで上がった」
「兄さんの限界は知ったこっちゃないけど、まあそうね」
「何も対策せずにこんな日に外で突っ立ってたら熱中症は避けられないだろう。だから”みっちゃん”は、ユウキ君にしっかりと熱中症対策をさせていた」
「あのリュックサックの中身ね。水筒の他にも結構な量の水分が入ってたっけ」
被っていたあの帽子も、おそらく言われて身につけたものだろう。
「ユウキ君の体調に相当気をつけていたと見て間違いない。だからこそ、”みっちゃん”の発言が不思議だったんだ。今日の園内の様子を思い出してもみろ、日差しが強い上に日陰になるようなところはほとんどなかったはずだ」
空を見上げると、頭上にあった太陽はきっちり西に傾いていた。眩しくて、思わず目を細める。
「仮に『とりさんのところ』がどっかの鳥類の前だったとして、あんな小さい子を一人でそんなところまで歩かせて、さらにそこで待たせるなんて普通しないだろう。どうしても待たせるならトイレの前で待たせればいい。でもそうしなかった」
「たしかにそうね。なんでかしら?」
「待たせるのに適した場所が近くにあったからだ。トイレから近い、日陰で涼しい、なおかつ人目につきやすい。小さい子が一人で待っていても比較的安全な場所だ...うおっ」
「...気をつけて歩いてよ」
ソフトクリームの状態に気を使いながら、テラス席の方へ歩いていく。両手に意識が向いて足元がおぼつかない俺とは対照的に、体幹の差だろうか、同じハンデを背負っている霞は《かすみ》は普通に歩いている。
「小さい子に『休憩所』だの『もりの食堂』だの、具体的な名称を言っても分からないだろう。だから建物の外観的特徴、白鳥をモチーフにしていることを踏まえて『さっきのとりさんのところ』って表現したんだろう。『さっき』って言うくらいだ、直前に利用したはずだ。昼食をとったのも多分ここだったんじゃないか」
似合わず、長い話をしてしまったせいで口の中がカラッカラになった。慣れないことはするもんじゃない。こんなことになるなら自分の分のソフトクリームも買っておけばよかったと内心後悔しつつも、竜子に2人分のソフトクリームを手渡す。
「ありがとう、雪彦。...ほらユウキ君、お兄さんがアイス買ってくれたんだって!食べよう!」
「うん...」
竜子の手からソフトクリームを受け取るも、その表情はやや曇っている。
「大丈夫だよユウキ君!すぐに”みっちゃん”が迎えに来てくれるから!」
ユウキ少年の不安を察して、横に座ったみぞれが元気づける。
声のテンションが高いのは、ユウキ少年を安心させるためなのか、はたまた目当てのチョコレート味のソフトクリームを口に含んでいるからなのか。...前者であると願いたい。
その時だった。
「ゆー君!」
必死な、とても必死な声だった。
髪を乱した若い女性が、店へと続く階段の下に立っていた。それほど高低差があるわけではないが、俺たちがテラスの上から見下ろすような形になる。
「みっちゃーん!」
その声を聞いたユウキ少年は、ソフトクリームはしっかりと握りしめたまま、声の主の元へと一直線に走り出す。
「もう...本当に心配したんだから...。大丈夫?具合悪くない?」
「だいじょーぶ!」
”みっちゃん”と呼ばれたその女性は、膝を地面につけ、ユウキ少年を体全体で覆うようにして抱きしめている。良かった、良かったと繰り返し呟いては彼の頭を撫でていた。感動の再会の場面を目の当たりにして、霞が目に涙を浮かべている。
「なんでお前が泣くんだよ...」
「私こういうのに弱くて...」
震えた声でそう言うと、取り出したハンカチを両目に当て鼻をすする。
みぞれはうんうん頷きながら、そんな姉の背中を涙目でポンポン叩いている。お前もかい...
竜子はというと、その横顔は少し寂しそうに笑っていた。
あれだけ懐かれていたのだ、無理もないだろう。
まあその、なんだ...
「...お疲れさん」
こういう時、頭でも撫でてやれれば少しは格好がつくのかもと思いながら、ねぎらいの言葉をなんとか絞り出した。
不意に飛んで来た言葉に少し驚いた、といった表情で、竜子はこちらを振り返る。
「...別に?なんでもないわよ?」
その強がり、見え透いてるぞ。
「何も言ってねえよ」
「あら、そう」
そう言うとすぐに、見慣れたいつもの微笑を、彼女は口元に浮かべた。
6
ユウキ少年と手を繋いだまま、その女性は足早にこちらの方へ近づいてきた。
「この度はご迷惑をおかけしまして...」
ん?...あれ?
後ろでまとめあげられた髪。どこか演技かかった動き。”みっちゃん”いうあだ名。この声。
どーっかで聞いたことがあるような...?
一行の中で最初に気づいたのは、やはり竜子だった。
「あれ...御影!?御影じゃない!!」
友人に会った喜びよりも驚きの方が勝ったようで、素っ頓狂な声をあげる。
脊髄反射のごとくその声に反応し、その女性は下げかけた頭を素早く元に戻すと、口元を手で隠して驚いた。
「ひゃっ!えっ...たっつ!?なんでたっつもここにいるのよ!...うっわ梁間君もいるし!」
混乱している、というのはきっとこういう状態のことをいうんだろうなあ。
ユウキ少年と俺たちを順番にぐるぐる見て頭を抱えている同級生、千鳥御影の姿を見てそう思った。
「とりあえず...座りませんか?」
恐る恐る手を挙げて提案した霞に従って、俺たちは三度、テラス席に腰を下ろした。
「いやあ、ほんっっっっっ...とにビックリしたわあ...たまげたなあ...」
ストローに息を吹き込んで飲み物を泡立たせながら、千鳥さんは一本取られたといった感じで目をつむっている。
「ビックリしたのはこっちよ。あんた家の都合で出かけられなかったんじゃないの?お店の方は大丈夫なの?」
こっちもこっちでようやく落ち着いたようで、竜子は頬杖をついてたずねた。
隣の席で足をぶらんぶらんさせているユウキ少年を指差して、千鳥さんは答える。
「これ、家の都合。店の手伝いは今日はお休み。今、うちの親戚が台泉に集まっててさ。今日一日この子の面倒を見てやってくれって頼まれたのよ。ほらゆー君、足バタバタしない」
千鳥さんの右手で足を押さえられて、ユウキ少年は足をばたつかせるのをやめてちょこんと座りなおす。
その様子を見てみぞれが自分の姿勢を正しているのを俺は見逃さなかった。
「たっつは梁間君とデートですかい?お熱いわねえ...ヒューヒュー」
「なっ...そんなんじゃないわよ!」
千鳥さんのいつもの冗談だと思って俺は聞き流したのだが、竜子は顔を真っ赤にして反論した。
そんなにムキにならなくたっていいじゃない......
俺といるのはそんなに恥ずかしいですか...そうですか...。
からかわれたお返しにとばかりに、多分口にしてはいけないであろうあの名前を、竜子は遂に発した。
「......みっちゃん」
あーあ、言っちゃった。
間違いなく千鳥さんが恥ずかしがるだろうと思って、今まで触れないようにしてたのに。案の定、みっちゃんは耳まで赤くしている。いつもの人を嘲るような表情は何処へやら、似合わない大声で懇願する。
「ちょっと!その名前で呼ばないでよ!」
その様子はあまりに面白く、俺も含めた4人の僅かな悪戯心を刺激してしまった。
俺たち4人は自然と目配せをし、一瞬の沈黙の後、ニヤニヤしながら次々と口にする。
「まあまあみっちゃん、そんなに怒らないでよ」
「そうですよみっちゃん、ユウキ君がビックリしちゃいますよ」
「そうよみっちゃん、一旦落ち着こう」
「そうだみっちゃん、今度また店に邪魔するよ」
「もーぉっ!!その名前で呼ばないでぇぇ!!!」
(2017年12月9日 一部改変しました)
みなさま、お久しぶりでございます。紀山康紀です。
色々綴りたいことがありますが、まずは感謝のご挨拶から。
この度もお話を読んでいただき、本当にありがとうございます。
最後まで読んでくれたあなた、明日はきっといい日になるでしょう。
...さて、ここからが本編です。言い訳を始めようか。
前回投稿から半年が経ってしまい、「ああ、やはりエタったか」と思われていたかもしれません。
(読んでくれていてかつ僕のことを覚えている方がいらっしゃれば、の話ですが...)
この半年間、色々、本当に色々ありました。
国立病院でめっちゃ手術されたり、2回も住所が変わったり、けもフレが流行ったり、ドラクエが発売されたり、ソフトバンクが楽天の首位独走を許してしまったり......もう大変でした。
まあなんだかんだあって、投稿期間が大幅に遅れてしまいました。ツイッターでも投稿するする詐欺を2〜3回はたらいていたと思います。
僕の話を待ってくださっていた方がもしいらっしゃったのなら、期待を裏切ってしまったかもしれません。
申し訳ありませんでした...靴舐めるんで許してください。
以前にも記しましたが、連載を途中で投げるようなことは絶対にしません。
どれだけ期間が空いてしまっても、必ず投稿は続けますので、お時間がありましたら目を通していただけると嬉しいです。さらに欲を言わせてもらえば、どんな感想でもコメントでも、いただけると嬉しいものです。
コメントもらった日には赤飯炊いて喜びます。なんなら鯛も付けようか。
連載期間が空いたのもあって、ちょうど話の中と現実の時間がリンクしました。夏休みですね。
ロッテの”爽”が美味しい季節です。僕はイチゴ味ばっか食べてます。
今回は兄妹サイドの夏休みを描きましたが、次回は学校サイドの夏休みの一幕です。
日名川部長が計画していました、アレです。合宿です。化学部の夏合宿です。
投稿時期はまだ未定ですが...なる早で出します!
どうぞお楽しみに!