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梁間さんの『お兄さん』  作者: 紀山 康紀
1年生・後半
17/17

第15話「梁間さんのお兄さん(後編)」

30kmをただ歩くには長過ぎる。

成り行きで何故か同行することになった奥海おくみの要望で、梁間はりまは自身が小学生だった頃に妹との間に起こったある事件について語って聞かせた。しかし梁間は、話の中で肝心な部分を省いた。

昔話の中の”空白”を推理してやろうと、梁間の安い挑戦に乗る奥海。


そして最後に、梁間は自分の身に起こったある「残酷な経験」について吐露するのだった......。


これは、「梁間はりま雪彦ゆきひこ」が「梁間さんのお兄さん」となるに至ったお話である。



●時刻10:20 現在16.9km地点 第三チェックポイント


 3つ目のチェックポイントは、どこぞの公園であった。

 

 給水所から戻った奥海おくみさんから水の入った紙コップを受け取り、一気に口の中へと流し込んだ。

 キンキンに冷えてやがる......!あ......ありがてぇっ......!うまっ、うますぎる!!

 歩くこと三千里、いやそんなには歩いていないだろうが、とにかく走り歩き疲れた身体中のあらゆる細胞という細胞に水分が満ちていくのが実感できる。これが......潤うということなのか......!


 喉を勢いよく鳴らして紙コップの中身を数秒足らずで空にした俺を横目に、奥海おくみさんも自身の紙コップに口をつける。


   「ここの水、なんだか冷やしすぎじゃない?一気に飲んだらお腹壊しそう」

 そう言われて、空になった紙コップを見る。

   「一気に飲んじまったものは仕方がない。もう1杯もらってくる。毒を食らわば皿まで、だ」

   「それ、使い方間違ってない?」


 奥海おくみさんはいま口をつけている水で十分だというので、給水所で水のおかわりを1杯だけ受け取って戻る。

 喉が乾いているのはもちろんだが、慣れない長話をしたために口の中も乾いているような気がした。


   「......で、何か感想は?紅顔の美少年、梁間はりま雪彦ゆきひこ少年の昔話の」

 緩やかに傾けていた紙コップを口から離し、奥海おくみさんは静かに言う。

   「うん。感想を一言で言うなら......」

 間をたっぷりと取り、コップの中に目線を落としたまま、こう続けた。


   「.............つまらなかった」


 あまりにも非情な感想に、俺はガクッとコケそうになった。

   「だから先に言っただろうよ、つまらない話だぞって」

   「そうね。面白いだろうという期待は全くしていなかったから、別につまらない話だったことに不満は無いわ。ただ、さっきまでの話の中で、わざとぼやかしていたことがあるわよね?」


 やはり、気付いたか。

 多分この時、俺の口角は意地悪い形に吊り上がっていただろう。


   「......と、言うと?」


   「勝つことに執着していた小学生時代の梁間はりま君が、町の小さい道場でお山の大将を気取っていたということは分かった」

   「その通りなんだが、表現に悪意があるな」

   「で、自分より下に見ていた妹さんが努力で実力を獲得し、貴方に並び立つほどになった。自分が一番で最強だという馬鹿げた妄想に取り憑かれていた梁間はりま雪彦ゆきひこ君は、それが気に入らなかった」

   「その通りなんだが、やっぱり表現に悪意があるな」

   「それである日、妹さんと直接対戦することになった。私は剣道には詳しくないけれど、試合はどうやら互角だったみたいね」

   「そうだ」

 奥海おくみさんの目が鋭くなった。

   「私が分からないのは最後。どうして梁間はりま君は、()()たのに(・・・)剣道を辞めようと思ったのよ?」


 ......やっぱり、誤魔化しきれなかったか。


   「負けていたんだったら、話は簡単よね。格下に見ていた妹に負けて、安いプライドをズタズタのボロボロのコナゴナにされて、不貞ふてくされて剣道から離れる......というような」

   「......表現は気になるけど、そうだな」


   「だけどそうじゃない。梁間はりま君は妹さんに勝利した。その薄ら寒いプライドも守り通したはず。なのに何故、梁間はりま君が剣道を辞める形になったのか。さっきの昔話では、その説明を省いていたわね」


 冷たい目が、この水よりもよっぽど冷えた鋭い目が、俺を睨む。この眼光の鋭さ、おそらく野生のイノシシも逃げ出すであろうほどの威圧感を秘めている......ように見えた。


 流石は奥海おくみさん、御名答である。

 

   「へっ、悪いな。奥海おくみさんの言う通り、俺は話の最後を少しだけ省いた」

   「一応聞くけど、剣道に飽きたからとか妹に圧勝できなかったからとか、そんなつまらない理由じゃないわよね?」

   「まあ、そうだな。いろいろ理由はあるが、クリティカルな部分はさっきの昔話の中にあるぞ」

   「往生際が悪いわね。ここまで聞いたんだから、最後まで白状なさい」

   「へえ、あの奥海おくみさんも他人に興味を持つもんなんだな。意外だよ」

 と軽口を叩いたら、つま先で靴を小突かれた。

   「誤魔化したって無駄よ。さっさと話しなさい」

 さっさと白状してしまってもよいのだが、我々が目指す天竺はまだまだ遥か西である。その道のりの半分も来ていない。せっかくの話のタネだ、もう少し引き延ばしてもバチは当たらないだろう。

 そう考え、俺は顎で先の道を促した。

   「歩きながら、要求を聞こうじゃないか」

   「はあ。本来、聞くのは私の方なのだけれどね」

 紙コップの中身を一気に干し、握りつぶしたそれを溜息と共にゴミ袋の中へ放り投げると、奥海おくみさんは出口へ歩き始める。ここまで結構な距離を進んできたというのに、その足取りはしっかりしている。

 俺もその後を追った。



●時刻10:40 現在19.1km地点


 先行して走る奥海おくみさんを追いかけるようにして俺は走っていた。


 台泉だいせん市でも有数の高級住宅街の中を、疲労と苦悶の表情を浮かべ始めた台高だいこう生の集団が駆け抜けていく。

 新興の高級住宅街だけあって赤いレンガ調で綺麗に整備された歩道は広く、生徒たちが2人並んで歩いていても歩道の中で走り追い越せるだけの余裕がある。

 道に面して並ぶ住宅は当然一戸建てばかりで、どれもこれもとにかく庭が広い。外国の映像でしか見たことが無いような明るい緑の芝生が眩しい庭もあれば、日向ひなたに真新しいウッドデッキと白い丸テーブルをこさえている家もある。きっと週末には知人友人を呼んでバーベキューに興じているに違いない。

 ......などと、指をくわえてお宅見物を楽しんでいる場合ではない。


 先程のチェックポイントに至るまで長話をしながら歩き通してしまったので、随分とペースを遅らせてしまった。この平坦で直線が続く道は走りやすい。ならば今は走っておくほうが賢明だ。

 ゴールの春江はるえ温泉に近づくほど登り下りとカーブが連続する地獄のような道が増えていくのを、今年の夏に俺はバスの中で経験している。あの峠を走って越えなければならないような事態は絶対に回避せねばならぬ。


 それを知ってか知らずか、先程の公園を出るや否や、奥海おくみさんは急に駆けだした。ついに愛想をつかれ置いて行かれるのかと思ったが、たまに振り返る視線を見る限りそうではないらしい。

 あんなに俺の話の続きを聞きたがっていたのに、どういう心変わりだろう。女心と秋の空とはよく聞く言い回しだが、せめて秋の空の方はこのまま変わらず快晴を保っていてほしい。

 と、思っていたら、俺の前を走っていた奥海おくみさんのペースがだんだんと緩やかになり、並走するような形になった。

   「よかった、置いて行かれるのかと思った」

   「私の記憶だと、住宅街を抜けたらまた林道。話をするならおもむきのある方がいいじゃない?」

   「なんだ、気にはなっていたのか」

   「それに......たまには、真似をしてみたくなるものよ」

 そう言って奥海おくみさんはいたずらっぽくクスっと笑った。

   「マネ?誰の」

   「......どこぞの探偵さんの、よ。さっきの昔話、どうして貴方が剣道を辞めるに至ったのか、私も推理でもして真相を暴いてやろうと思ってね」

 文化祭の最終日。確かに俺は、奥海おくみさんの前で探偵の真似事をした。だが。

   「言っておくが俺は探偵なんかじゃないぞ」

 変に買いかぶられているのなら、それは誤解だ。俺にそんな推理能力などない。

 それに......と俺がさらに反論を続けようと口を開くより先に、奥海おくみさんがきっぱりと言い切った。

   「とにかく、ちょっと一人で考えさせて頂戴ちょうだい。だから、しばらく走りながら考えることにするわ。追いかけてくるのならどうぞご自由に」

 そう言い残し、並走していた奥海おくみさんは速度を上げて俺の前へ出る。改めて走り方を見ると、腕はしっかり振られ細い脚が作り出すストライドは大きく、勝手に抱いていたインドアな印象とは裏腹に運動神経は結構いい方なのかもしれない。......いや、単に負けず嫌いなだけか?


 負けず嫌いといえば、昔の俺もそうだった。万事、常に自分が一番になることにこだわっていた。

 だが、今は違う。


 スピードを上げ、何組もの集団を横から追い越し前方の遥か向こうへと小さく遠ざかっていく奥海おくみさんを、ただ見送った。俺はペースを上げることも緩めることもせず、たまに追い抜き追い越されながら、ただただ漫然と一本道を走り続けた。

 

●時刻11:50 現在25.0km地点


 住宅街から続く一本道を道なりに進むと国道に合流し、この国道もまた一本道でひたすら直線が伸びるばかりだった。進むに従って左奥に見える山が大きくなっていくのが恨めしい。俺たちはこれから、あの山を越えなければならない。

 国道からの分かれ道、山に向かうため台高生だいこうせいはどんどん左折していく。ちなみに猪突猛進の精神でこの道を直進し続けると、奥羽山脈を横断することになる。果ては日本海を望みながら前のめりに倒れることだろう。

 俺もまた前に倣って左にかじを切ろうかというところで、台高生だいこうせいの群れを手旗で導く強歩大会実行委員が視界に入ってきた。これはまた、またまた見知った顔だった。向こうもすぐ俺に気づくと、人を小ばかにしたような笑いをニヤニヤと浮かべ始めた。


   「さあエブリィワァン、今日も元気にレッツランニング、ェァーンド、ウォーキング!!イェーイ!!」

   「......軒山のきやま、こっちは疲れてんだよ。ムカつくから一発ブン殴っていいか?」

   「ノ~!暴力はダメダメよぉ!」

 今朝会った時と同じ、実行委員であることを示す白い帽子に黄色い手旗を持った軒山のきやま壮一そういちがそこに立っていた。級友にして同じ化学部員。

 今朝と違っているのは、こいつも額に汗を浮かべ、首元に白いタオルを巻き付けていることだ。足元には水筒と水の入ったペットボトル。


   「日向で案内係ってのも中々の地獄だろうな。ここに来てどれくらい経つ?」

   「......2時間くらいかな。梁間はりま、ここでこうしているのもね、結構ツラいもんだよ」

   「そうか。それに懲りたら来年は40キロを真面目に踏破するこったな」

   「そっちはどうよ?疲れた?」

   「......これが疲れてないように見えるか?足は痛いわ汗でヌルつくわ腹は減るわで、楽しいことなんざひとっつもない」

   「そうなの?梁間はりまはいっつも疲れた顔してるから、あんまり伝わってこないなあ」

 これが化学実験室での会話だったら丸めた部誌で頭をひっぱたいてやるところだが、疲れているのでこいつに構ってやる体力すら惜しい。時計を見ればもうすぐ12時。


   「あ、そういえば」

 と思い出したように切り出したのは軒山のきやまだ。

   「20分くらい前に、奥海おくみさんがここを通ったよ。普段のクールビューティーな感じもいいけれど、髪をまとめ上げて走る姿も画になるもんだ」

 20分か。途中でダラダラ歩いたとはいえ、結構先行されたようだ。


   「で、一応ダメ元で声かけてみたんだよ!『ヘイ彼女、僕とお茶しなーい!?』って」

   「無視されたんだな、可哀想に」

   「いつもならそうなんだけど、今回はなんと一言だけ返ってきたんだ!!」

 軽く咳払いをし、奥海おくみさんの物真似だろうか、無理矢理作った女声で続ける。

   「『梁間はりま君が来たら伝えておいて。次のチェックポイントで待ってる、って』」

   「お前、その声二度とするなよ。吐き気がする。......というか結局それ、お前無視されてないか?」

   「ということで、奥海おくみさんからの伝言でしたとさ。おいおい梁間はりま、こいつはひょっとすると、ひょっとするんじゃないのか??」


 下衆なニヤケ顔を浮かべる軒山のきやまに、できうる限りの冷ややかな視線を送った。

   「ひょっとすると、なんだ」

   「イヤだなあ、分かってるくせに。女子が男子を呼び出す理由なんて、限られてるだろうよ!?」

   「お前の頭の中がピンク色のお花畑なのはよーく分かったよ。言っとくが、そういうんじゃないからな。ちょいとクイズを出してただけだ」

   「へえ、クイズかい。随分と仲がよろしいようで羨ましいよ!」

 別に仲が良いわけではない。意地になって否定するのも馬鹿らしい。


   「とりあえず俺は行くぞ。そういやこの腕時計、まだ借りてていいか?」

 左手を持ち上げ、自分では選ばない赤色の腕時計を軒山のきやまに見せると

   「いやいいよ。ゴールで返してもらえることを祈ってるよ」

 と返ってきた。

 早く行けと言わんばかりに野良犬でも追い払うかのような仕草をされたので、俺はその場を後にして行軍こうぐんの列に戻った。

 山が近づいてくる。この坂を上れば、そろそろチェックポイントだっただろうか。


 あまり待たせても悪いので、不本意ながらも坂を駆け上がった。


●時刻12:05 現在25.5km地点 第六チェックポイント


 何よりも膝が重い。


 やはり坂道ダッシュなどするものではない、と膝が大声で主張している。

 これまた高級住宅街へと通ずる坂道はまだまだ上へと続いているが、春江はるえ温泉へと向かう道はその途中で右折する。

 その右折する角にあるコンビニエンスストアの広い駐車場が、今回のチェックポイントだった。平日の昼間だけあって乗用車やトラックが何台も停められているが、それでもなお余りある広さだ。

 その一角に設けられた仮設テントでチェックポイント通過の印と紙コップ一杯分の水を受け取り、駐車場の壁や店舗の建物でできた日陰の中で思い思いの姿で倒れこむ台高生だいこうせいの群れの中から、目的の人物を探し出す。


 存外、早く見つかった。


 細い脚を抱え込むようにして座り、日陰の中にすっぽりとおさまっている。

 腕と足を広げて仰向けになり腹を出して「空が青いぜぇ」と叫ぶ男子生徒や、手を後ろにつき足を伸ばして虚空を見つめる無表情な女子生徒たちの間を縫うようにして進み、俺は奥海おくみさんに声をかけた。


   「奥海おくみさん、待たせたな」

 声に気づくと、奥海おくみさんの顔が上がった。どれくらいこの日陰にいたのかは分からないが、全身から吹き出る汗が止まらない俺とは対照的に奥海おくみさんの汗はすっかり引いているようだった。いつも教室で見るような、涼しげな表情に戻っている。

   「あら、遅かったわね。レディを待たせるなんて紳士失格ね」

 そう言って立ち上がり、周りに配慮しながらジャージの尻についた汚れを軽く払う。

   「じゃあ行きましょうか」

   「えっ、俺いまここに着いたばかりなんですけど」

   「大丈夫よ。ここからはもう走るつもりはないから、ゆっくり歩いて行くわ」

   「俺の膝が大丈夫じゃないんですけど......」

 暗に休ませてほしいとほのめかしたのだが、無視された。

 慌てて水を口の中に流し込み、日向の中をズンズン進む奥海おくみさんを追った。


●時刻12:12 現在25.8km地点


 道行く台高生だいこうせいの中に、駆けていく者は誰一人としていない。もう走るための体力が残っていないからだ。そもそもここまで来てまだ走るような元気がある奴はとっくの昔にゴールして、今頃はゴールの旅館で温泉を楽しむなり和室でトランプに興じるなり昼寝するなりして優雅に過ごしていることだろう。

 走り方が悪かったのか、右足のかかとが鈍い痛みを発するようになってきた。踏み出すたびに痛むので、自然と足を少し引きずるような歩き方になる。さながら負傷兵のようだ。


 大きな球体を抱えた真っ白な建造物、台泉だいせん市天文台が右手に見えてきた。目玉はプラネタリウムらしいが、最後に見たのはいつだったろう。プラネタリウムと言えば、台高祭だいこうさいの時もプラネタリウムがどうのこうのという一幕があったような気がする。あれはなんだったかな、もう覚えてない。


 などと物思いにふけっていると、それまでなんとなく保っていた沈黙が不意に破られた。

 最初に口を開いたのは奥海おくみさんだった。


   「あの話、私なりに考えてみたわ」

 あの話とは言わずもがな、俺が暇つぶしに語った昔話、聞くも哀れな自分語りのことである。

 俺は黙って、先を促す。

   「走りながらいろいろ考えて、最後に軒山のきやま君を見た時にピンとひらめいたわ」

 あんな奴を見ていてひらめくことなどあったのか。聞かせてもらおうじゃないか。

   「貴方、軒山のきやま君から赤い腕時計を借りているでしょう。彼を見てそのことを思い出して、そういえばと思い当たることがあった」

   「これだな。軒山のきやまの奴に『お前の腕時計が奥海おくみさんを助けたぞ』って言えば飛んで喜ぶだろうな」

   「それはやめて」

 利き手の反対、左手首に通した赤い腕時計を見る。ここまである程度のペースで焦らずに来られたのは、なんだかんだでこいつが時間を教えてくれていたからだ。


 少し間をおいて、奥海おくみさんは静かに言った。言い放った。


   「......妹さんに、()()()()のね」


 一瞬、強い風が吹いたように感じた。

 秋の気温は正午に至ってもなおそこまで高くなることはなく、心臓を破るような坂道を上ってきた際ににじみ出た汗はもう乾いている。

 道はやがてうねうねとしたカーブと坂が続く林道に差し掛かる。

 

   「まあ、奥海おくみさんなら気づくだろうと思ってたよ」

   「あの長くてつまらない話の中でも、梁間はりま君はちゃんとヒントを出してくれていたものね」

   「つまらなくて悪かった、なんて謝罪は今更しないぞ」

   「梁間はりま君が剣道を辞めるに至った妹さんとの野良試合、当時の貴方と妹さんの実力はほとんど互角だったと言ってたわね」

   「ああ、確かにそう言った。俺も、妹のかすみも、本気で竹刀を振るってたのは間違いない」

   「そして僅差で、辛くも妹さんに勝利した。でもその直後、幸か不幸か知らないけれど、貴方はその場で気付いてしまった」

   「......回りくどい言い回しだ。実に探偵らしい」

   「あら、台高祭だいこうさいの時の梁間はりま君もこんな感じだったわよ?」

   「そうだったかな」


 そう言われて思い出すのは、台高祭だいこうさいの日のことではない。

 今も脳裏に焼き付いて離れない、あの一瞬の光景。

 

   「梁間はりま君が本気だったほどには、妹さんは本気じゃなかった。だって、竹刀・・()()()()反対・・()()()んでしょう」

   「......お見事。さすが奥海おくみさんだ」

 賛辞の意を込め、膝に当てていた手を持ち上げて力のない拍手を送った。


   「試合が始まる前の妹さんの構えが自分の鏡写しみたいだったって言ってたけれど、それが本当ならいくらなんでもおかしい。梁間はりま君も妹さんも同じ右利・・()なんだから、点対称になるはずよね」

   「本当ならその場で気づいて当たり前のことだったんだろうが、試合前のやり取りで頭に血が上っていた当時の俺はそんなことには目もくれていなかった。面の中のかすみをずっと睨んでたよ」

   「そして試合が終わった後で、妹さんがその面を利き手で外した時に初めて気づいたみたいね。利き手で竹刀の柄頭つかがしらを握っていたということは、左手でつば側を握っていたことになる。

 妹さんが初めて竹刀を振った時と同じように、本来の利き手の握りとは反対に左利・・()()()をしていた。......梁間はりま君は正しい握りをちゃんと教えていたみたいだから、これはつまり、わざと左利きの持ち方をしていた......で合ってるかしら」


   「大正解。こんな簡単にバレてしまうとは、ちょっとヒントを出しすぎたか」

   「一応聞いておくけど、妹さんが実は両利きだった、ということではないのよね?」

 俺は黙って首を振る。

   「あいつは正真正銘、右利きだよ」

   「それじゃあやっぱり、わざと反対に握ったのは......」

 奥海おくみさんが言いかけたが、その先は俺が継いだ。


   「そう。妹はおそらく、自分の実力が兄貴のそれをとうに上回っていることを自覚していた。利き手で正面から本気でやったら、兄を簡単に負かしてしまうことになる。かといって手を抜いた動きをすれば、兄にそれが伝わってしまう。いずれにせよ、兄のプライドを傷つけることになる。

 そこで妹......かすみの奴は、竹刀しないを左で握ることを思いついた。左で振れば本気を出しても圧倒することはないだろうし、これが露見しなければ手を抜いていることが兄に伝わらないと考えたんだろう。

 ......まったく、優しい妹だよ。ほんと」


 脳裏に焼き付いて離れないのは、あの光景。あの表情。

 利き手で面を外して、薄い笑みを浮かべる妹。

 手を抜かれたという怒りや屈辱の感情は、不思議とほとんどなかった。

 圧倒的な才能の持ち主とその技を目の当たりにして、無力感と劣等感が混じったような、不思議な敗北感に支配されるばかりだった。

 

   「我ながら惨めだったよ。惨め。とにかく惨めだった。

 妹に気を遣われ手を抜かれて勝ったということよりも、いつの間にかそこまで成長していた妹の実力に気づかず、小さいお山で一等賞を誇っていたことが。

 見せびらかすように誇っていたやっすいプライドは、あれで粉々に砕かれちまった」


 歩きながら、天を仰いだ。

 雲一つない透き通るような秋の青空が、天高くどこまでも広がっている。


   「剣道を辞めたのは、剣道ではもう一番になれないことを悟ったからだ。そもそも剣道をやっていたのも勝てるからであって、剣道自体に好きも嫌いもなかった。剣道が好きで努力を続けられるかすみには、今後も絶対に勝てないだろうなと思い至った。だから辞めた。

 ......要するに、タチの悪い負けず嫌いだったんだよな、雪彦ゆきひこ少年は」


   「......余計な世話を承知で聞くけど、そのあと、妹さんとはちゃんと話したの?」


   「話した......かどうかは、微妙だな。ただ俺が剣道を辞めるって言った時、あいつは泣いた」


 あの日、道場からの帰り道。

 俺は久しぶりに、かすみと肩を並べて歩いた。背中にはそれぞれの竹刀袋。

 季節が夏だったから日没にはまだ早くて、2人並んだ影がアスファルトの上に長く長く伸びていたのを覚えている。

 勝負の一件が尾を引いてなんとなく気まずかったから、黙って歩いてた。


 そんな中で俺は一言、「剣道はもう辞める」とかすみに伝えた。


 するとかすみは急に動きを止め、ただでさえ大きい目をさらに見開いたかと思うと、俺の服の裾を強く掴んで何度も揺さぶった。その動きがあまりにも激しくて、俺も立ち止まらざるを得なかった。

 今にも泣き出しそうな顔で「なんで」「どうして」というようなことを何度も何度も繰り返していたはずだ。何も言わずにいると、今度は顔をクシャクシャにして謝り始めた。

    「お兄ちゃん、ごめん。ごめんなさい。わたしがちゃんとやらなかったから怒ってるんでしょ!だからごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい......」

    「......なんでお前が謝るんだよ。勝ったのは俺だろう」

    「だって......だって......」

 と、ついには泣き出してしまった。大粒の涙がボロボロ落ちて、服にもついて、それはもうグッシャグシャだった。

    「なんでお兄ちゃん剣道やめちゃうのぉ......!!」

 嗚咽おえつ交じりになんとか絞り出した言葉がそれだった。

 わが妹ながらなんと情けない姿だろう。こんな奴に俺は負けていたのかと思うと、少し可笑しかった。

 だから、泣きじゃくるかすみの頭の上に、俺の手は自然に伸びていった。

    「なんでも何もねえよ。ただ、剣道に飽きただけだ」

    「あきた......?」

    「かすみも倒したし、もうあの道場でやることが無くなっちまった。だから辞める。それだけのことだ」

    「やめなくてもいいじゃない!わたしにもっと教えてよ!!」

 泣き止まないかすみの頭を、優しく撫でてやった。

    「お前のことは知らねえよ。道場には師範もいるし、中学生になれば先生やコーチだっているだろう。ちゃんと教えてくれる人から教えてもらえよ」

    「......じゃあ、わたしも剣道辞める......」

 

 その言葉を聞いた時、俺は初めて怒りを覚えた。つい手が出た。

 頭を撫でていた手で、かすみの脳天に手刀を振り落とした。

    「痛いっ!!」

    「ばか、ふざけんな!!」

 声を荒げて、ほとんど叫ぶように、怒鳴るように言った。

    「お前は剣道好きだろ!人に流されて自分の好きなものまで曲げるんじゃねぇよ!......いいか、お前には才能がある!一つのことにあんなに一生懸命頑張れる奴ってのはそんなにはいないんだよ!それはお前が剣道が好きで、剣道を頑張れる才能があるってことだ!それを簡単に捨てるなんて、絶対に許さねえからな!!」


 急に叩かれて大声で怒られて、かすみの奴はきょとんとしていた。

 そしていつの間にか泣き止んでいた。

 言いたいことを言いたいように言って調子づいた俺は、かすみの眉間に人差し指を当て、なおもまくしたてた。

    「俺はお前に勝った。つまり、俺はお前より強いってことだ。俺は剣道を辞めるけど、もしお前が剣道で最強になれば、俺はそれより強い最強になる。だから、お前はこれから誰にも負けるんじゃねえぞ!!」

 なんと酷い理論だろうと、今は思う。

 完全に勝ち逃げ、しかも相手の手加減込みでの勝利。

 しかし、かすみはやはり純粋だった。両目の涙を自分の手で力強くぬぐって言った。

  

    「......わかった。わたし、もっと強くなるよ」

    「そうだ。......それでいい」


 ......これでいい。

 優しく、強い妹が、俺なんかのために変に傷つく必要などどこにも無い。


 小さな歩幅で、かすみは胸を張って歩きだす。

    「お兄ちゃん......兄ちゃん......いや、兄さん!!」

 数歩先でこちらを振り返るかすみの顔は、涙の跡がはっきりと残っているものの、どこか自信に満ちていた。

 澄んだ、しかし何かみなぎっているような力強さを秘めた、大きな目。

    「兄さん!わたし、......強くなる!!兄さんに負けないくらい、強くなるから!!」

 

 夕日に照らし出された妹のあの顔もまた、俺は生涯忘れないだろう。

    「......ま、頑張れよ」

 

 こうして俺は、剣道を辞めた。


    「......俺が剣道を辞めると言い出したことに、あいつはあいつなりに責任を感じていただろう。......だけどまあ、色々あって吹っ切れたんだ、お互いに。奥海おくみさんが心配するような遺恨いこんは、今じゃあ何も残っちゃいないさ」

 ......多分、だけど。

    「そう。それは、よかったわね」


 痛みが増していくかかとと膝に気を遣いながら、緩やかな坂道を下っていく。ここまでは意外なタフネスさを発揮していた奥海おくみさんもまた、右足を引きずるようにしてゆっくりと歩いている。

 先程、「春江温泉まで2.5km」の標識を目にしたので、目指すゴールまであと少し。だが、前後を行く台高生だいこうせい達の中に駆け出していく者は一人としておらず、みな苦悶くもんの表情を浮かべるばかり。ここまで来て正常な歩き方を保てる奴の方が少ないらしく、さながらゾンビの行進のようにも見える。


   「でもまあ、俺がクリティカルにダメージを受けたのは、実はそのことじゃないんだ」

 自分語りは好きじゃない。でも、中途半端にしたくはなかった。

 奥海おくみさんに聞いて欲しいわけじゃない。だが、俺は最後まで言わずにはいられなかった。


 遥か向こうまで続く青空に聞かせるように、俺はほとんど独り言のように切り出した。


   「剣道を辞めた俺は、いろんなことにチャレンジした。......自分が一番になれる”何か”を、必死に、そりゃあもう必死になって探した。誰かに誇れる、これだけは自分が勝ってるんだっていう”何か”が、欲しかった。

 学校の勉強を頑張った。徒競走のタイムを縮めようとした。国名を暗記した。けん玉を練習した。ギターを始めた。そういや、絵も描いてたな......もっとあったはずだが、もう思い出せない」


 気を遣ってくれているのか、奥海おくみさんは言葉を挟まなかった。


   「中学生になってからも”自分探し”の旅は続いたよ。仮入部期間も含めて、いろんな部活に混ざった。野球にサッカー、バスケ、バレー、陸上......柔道もやった。美術部や吹奏楽部にも籍を置いたこともあった。

 だが、どれひとつとして長続きしなかった。......気づいたんだよ。

 どのスポーツでもどの分野でも、俺なんかより上手い奴が必ずいて、そういう奴は俺なんかが努力しても到底追いつけるはずもない才能みたいなものを持っていて、それでいて努力を続けられる。どこで何をやっても、自分の上位互換とも言える存在が必ずいる。俺が、俺自身がそれをやる意味を見つけられなかった。

 ひいては、自分が生きてる意味ってなんだろう、ってところまで卑屈になったよ」


   「......卑屈なのは、今も変わらないじゃない」


   「......そうかもしれん」


 俺は苦笑した。


   「で、中学2年の......秋か冬くらいだったかな。俺とかすみは学年が一つ違いだから、あいつも俺と同じ中学に通っていた。その頃には、秋の新人戦で1年生ながらも他を一切寄せ付けない圧倒的な実力で個人優勝を果たしたかすみの名は、校内でも広く知られていた。......校内集会の度に表彰で名前を呼ばれていたからな。

 当然、俺の同級生たちや教師陣は、俺とかすみが兄妹だと気付く。......まあ、『梁間はりま』なんて苗字はそうそういないだろうからな。......俺とかすみが兄妹だと知った奴らは、俺をこう呼び始めたんだ」


 興味と好奇心に満ちた、奴らの目。しかしその目に映っていたのは、俺じゃなかった。


   「......『梁間はりまさんのお兄さん』......ってな。......結構、ショックだったよ」


   「.........残酷ね」

 

 舌打ちし、吐き捨てるようにして奥海おくみさんは言った。

 俺の心情を、汲み取ってくれたんだろう。


   「級友たちはからかい混じりに俺を『お兄さん』『兄貴のほう』と呼び、教師どもは自然に『梁間はりまあに』『梁間はりまさん......のお兄さん』と呼ぶ。

 本人たちに悪気がないのは分かっていたが、その呼び方で呼ばれ続けた奴が何をどう思うか、考えてくれてはいなかったらしい。......そう、あくまで主役は梁間はりまかすみ。そして俺は、その兄。付属物だ。

 ......あいつらがそう呼ぶ言葉のどこにも、『梁間はりま雪彦ゆきひこ』は存在しない。俺はあくまで『梁間はりまかすみのお兄さん』......悔いや怒りすら感じないほど、空虚な気持ちになった。何かになろうと、半端に足掻あがいてた自分が急に馬鹿らしくなったよ」

 

 皮肉じみた笑いが、腹のうちから込み上げてくる。


   「さっきチラッと話したが、俺にはもうひとり妹がいる。......そいつはそいつで、生まれながらにして凄まじい記憶力と学習能力を備えた、紛れもない『天才』なんだよ。あいつは将来、きっと人類史にも残るような凄いことを成し遂げられる才能がある。......言っとくが、ただの身内褒めじゃない。

 ......だから、俺は決めたんだ。才能ある妹2人に尽くす存在になろう、って。

 『梁間はりま雪彦ゆきひこ』として足掻いて何も成し遂げられず中途半端に終わるくらいなら、『梁間はりまさんのお兄さん』として生きる方が世のため人のため妹のためになるだろうってことに、気付いたからな。

 何もない凡人にはこれ以上ない選択肢だと、思わないか?」


 そう、俺はあくまで梁間はりま姉妹の『お兄さん』。付属物。

 個性など無用の存在。才能ある者たちのために尽くす黒子くろこ


 俺の問い、というよりかは反語に対して、奥海おくみさんは何も言わない。

 ただ、いつもの無表情で「つまらない話」とだけボソッと口にし、それを最後に沈黙した。


 いつの間にか坂道は平坦な道にかわっていて、横には大きな川が流れている。

 その上流の方に視線をやれば、川に沿って高い建物や和風建築が並んでいるのが見えてきた。


 あれが春江はるえ温泉郷。

 ゴールはもう、目と鼻の先だ。



●時刻13:02 現在30.8km地点


 近くに観光名所の大滝があることもあって、川から聞こえる水音が耳に心地いい。


 有数の温泉街とあって大小様々な旅館やホテル、土産屋があちらこちらに立ち並ぶ。立ち込める湯煙、硫黄の匂い。

 テレビのCMや新聞の広告欄でよく名前を見かける大型旅館の前を、歩きながら通り過ぎる。立派な玄関前の車回しには立派な樹が立派に植えられており、玄関前につけられた黒塗りの高級車からちょうど人が降りるところだった。きっと上流階級に違いない。

 その客がスタッフに迎えられながら自動ドアの先に消えていくのを見送り、日帰り入浴くらいならまだしも宿泊となると自分には縁がなさそうな旅館だなあ、などと小市民的なことを思う。


 我々のゴールとして設定されている旅館は、まだ少し先にある。

 タクシーやバス、旅館の送迎車が道路を激しく行き交うので、歩道をはみ出すと大変危険だ。ゴールが目の前とあってラストスパートをかけようと最後の力を振り絞り、ここぞとばかりに駆け出していく男子生徒がちらほらいるが、歩道が狭く道路には出られないとあって自分の前の集団を追い越せずヤキモキしている。

 集団を形成しているのは後ろ姿からも分かるほど疲れ切った女子生徒たちで、文字通り肩を落とし腕を左右にぶらつかせ、さながら生ける屍といったところか。道を空ける元気もないらしい。


 そんな中にあって俺と奥海おくみさんは、変わらず無言でゆっくりと歩き続けている。

 歩道が狭いので横に並ぶ奥海おくみさんとの距離が自然と近くなってしまっているのが気になるところだが、当の彼女はそんなことはあまり気にしていないようである。ただ、いつもの氷のような無表情の中にも汗と疲れの色がはっきりと濃く表れている。


 俺はどうだろう。鏡がないので自分のことは分からない。

 ただ、ここまでなんとか歩いてきたという実感は痛覚からの信号という形ではっきり感じている。

 

 要するに、足が痛くて痛くてたまらない。足がスティックのようだとはまさにこのこと。

 「こんな行事になんの意味があるのか」とか、「やはり適した交通機関を利用して目的地を目指すべきだ」とか、もはやそういう考えはどこにもない。考える余裕がない。


 ただただ、早くゴールして楽になりたかった。 


 明治の古い雰囲気を残した薬局や香ばしい香りがするパン屋の前を通過し、全国的におはぎで有名だという地元スーパーの前で横断歩道を渡ると、いよいよ、いよいよ見えてきた!!ゴールの旅館だ!!


 長く辛かったこれまでの道を思い返すと自然と涙が出る、というほどには真面目に取り組んではいなかったが、とにもかくにもこれでようやく終わる。


 ゴールは旅館の駐車場。旅館の玄関へと真っ直ぐ続く道を少し折れると、これまた真っ直ぐな並木道。

 車がすれ違うには余裕があるほどの幅を持つ並木道の先には、例の白い屋根の仮設テントが設けられ、各地に散らばっていた強歩大会実行委員や教師たちが集結している。

 そしてその手前で、これまた実行委員が2人が左右に別れて立っていおり、2人の手には1本の白いテープ。

 ピンと張るでもなくたるみきっているわけでもない、中途半端なゴールテープが待ち構えていた。


 前を行く生徒たちが次々とそのテープに腹を当ててゴールインしていく。その度に実行委員の2人はテープをまたダランと張り直す。


   「思ってたより、随分と安いゴールだな」

 そう呟くと、奥海おくみさんも同調する。

   「そうね。もう少し祝福してもらえるものかと思っていたけど、そうでもないみたい」

 ゴールする側は感涙極まるゴールインかもしれないが、実行委員たちにしてみれば何百と見る同じ光景の一つに過ぎない。彼らの仕事が感情のない流れ作業に見えることも仕方がないだろう。


   「ところで......せっかくここまで一緒に来たんだし......」

 それまで真っ直ぐ前だけを見ていた奥海おくみさんの顔がこちらを向いた。

 もしや、「最後くらい一緒にゴールしましょう♡」とでも言うつもりか!?


   「最後くらい、ひと勝負しましょう」

   「......え?」

   「ルールは簡単。このストレートを走り抜けて先にゴールテープを切った方が勝ち。いいわね」

   「え?競争?......俺めちゃくちゃ足痛いんですk」

   「よーい、ドン!」


 勝手に勝負を仕掛け、自己都合極まりない勝手なスタートで風のように走り出した奥海おくみさんの後を慌てて追う。

 並木道、直線は100メートルほどだろうか。数メートル先に奥海おくみさんの背中。

   「汚ねぇ!!」

 俺の抗議は向かい風と共に後ろに流れていく。

 駆ける度に足の付け根が痛む。アスファルトを踏む度に足首が痛む。膝が悲鳴を上げる。

 いつものようには走れない。


 そもそも俺が走る必要はどこにあるのか?

 奥海おくみさんが勝手に仕掛けてきた勝負だ。しかも不意打ち。

 「知らん」と言って、足を引きずりながらゆっくりゴールすればいいんじゃないか?

 この突飛で不公平な勝負に、俺が応じる理由なんてどこにもない。

 構いやしない、歩けばいいだろう。



 頭ではそう考えていても、身体は何故か走るのをやめない。目の前の敵に追いつこうと必死だ。

 あと30メートル。痛む下半身に鞭を打ち、最後の力を振り絞って速度を上げる。

 奥海おくみさんもスパートをかける。が、俺の方が速い。

 少しずつ距離が縮まっていく。あと少し。あと少し。


 もう手が届くところまで追いついている。

 が、ゴールテープまであと僅か数メートル。


 足を回せ!ストライドを大きくしろ!

 最後くらい......最後くらい.........!!


●時刻13:35 ゴール地点



 ......先にゴールテープを切ったのは奥海おくみさんだった。

 ほぼ同時にゴールというほどの絶妙な判定ではなく、奥海おくみさんがゴールした時点でその1mほど後ろを全力で走っていた。......不意をつかれた分の差が、最後の最後に出た。


 ゴールラインを駆け抜けた先で失速し、奥海おくみさんの近くで止まる。

 息は切れ足には激痛が走り、膝に手をつき立っているのがやっとだった。

 汗が止まらない。咳も出る。......もう、ボロボロだ。


 そうしていると実行委員がひとり近づいてくる。知らない顔だった。

   「走破、お疲れ様です。これ、順位が書いてある紙で、豚汁の引換券になっているので持っててください」

 事務手続き的な口調でそれだけを言うと、息も絶え絶えで言葉を発することができない俺たち2人に名刺ほどの大きさの紙を押し付けるようにして渡して去っていった。

 紙を見る。


   『401位/801人』


 自分の順位を確認した。まさに中の下、何かの冗談のような数字だ。


   「私の......ハアハア......勝ち、ね......」


 咳混じりに青ざめた顔で、強がりのように薄く笑う奥海おくみさんが見せてきた紙には『400位/801人』と書かれていた。この場で吐くんじゃないかと思うほど苦しそうに咳をしている。


   「おい、大丈夫か?」

   「全力疾走したの、ハア、すごく、ハアハア、久しぶりだったから......ちょっとね」

   「俺が見えるところで倒れないでくれよな」


 俺は少しずつ呼吸を整え、だいぶマシになってきた。皮肉にも、一瞬でも陸上をやっていた経験が活きたのかもしれない。何度も深い呼吸を繰り返し、ようやくのことで少し余裕が出てきた。


   「なあ。なんで最後、勝負しようだなんて言い出したんだ?奥海おくみさんらしくもない」


   「勝負したかったから、......しただけよ」


 膝に手をついたままではあるが、奥海おくみさんの息も整ってきたらしく、肩が激しく動くことはなくなった。

 地面に汗を垂らしながら、奥海おくみさんはハッキリした口調で俺に尋ねた。


   「それを言うなら、梁間はりま君だってそう、貴方らしくない。どうして、私の勝負に乗ってくれたの?......それも全力で」


 どうして、か。

 自分でも何故あんな風に走ったのか、分からない。

 人と競うなんて、とうに辞めたはずなの。


   「分からないなら、代わりに教えてあげようかしら」


 沈黙する俺からは答えが返ってこないと悟ったのか、奥海おくみさんは一人で続けた。


   「梁間はりま君、全力で走ったじゃない。......それは貴方が、ひどく負けず嫌いの『梁間はりま雪彦ゆきひこ』だからよ。......『梁間はりまさんのお兄さん』とやらじゃなくってね。.........一瞬でも何かに本気になれる人に個性が無いだなんて、少なくとも私は、思わないわよ」


 奥海おくみさんはいつもの無機質な声でそう言って、冷たい仮面には似合わないニヤリとした笑いを浮かべていた。


 それに対して俺がなんと返したのか、記憶にない。


はい皆さんこんばんは〜!!

ここまでご覧いただき誠にありがとーうございます。

どうも、僕です。紀山康紀のりやま やすのりです。


はいっ!とというわけで、よくある「作品タイトルがサブタイトル回」を2回に分けて投稿致しましたー!

自分で言うのは小っ恥ずかしいんですが、この作品におけるかなりの重要回です。

(最終回じゃないです!!)


ここまできて(15話経過)ようやく言えます。

この作品は、「梁間さんのお兄さん」という存在から彼が脱却し、「梁間雪彦」という一人の人間になるまでの成長過程を描く作品です。


雪彦がなぜあんなにも卑屈なのか、それでいてなぜちょいちょい光の世界を覗きたがるのか、皆様に少しでも伝わっていたら嬉しいです。

物語が雪彦の視点で進むため、本人のことを本人に話させる機会がどうしても必要でした。それがこの回です。

そしてその聞き役は、彼と同様、才能という壁に当たった経験がある奥海さんでした。(文化祭編参照)


多分、誰もが雪彦のような経験をしたことがあるのではないでしょうか。

自分のアイデンティティないしは自分だけの能力みたいなものが欲しくて、もがき苦しむ時期は誰にだってあるはずです。若い方(特に高校生)が髪を派手に染めたり耳にピアスを空けたがったり、制服をわざと着崩してみたり。世間一般に言われるところの、「若気の至り」と呼ばれる行為の原点は、個性への渇望が原因なのではないかと思います。

では僕自身はどうかと問われると、特に何もかんがえていませんでした。

放課後に級友たちと教室でデュエマや遊戯王、モンハンに興じ、部活で化学部に行けば実験結果を待つ間にポケモンの対戦考察論を他の部員と共に語らっていました。

「自分だけにしかできない何か」とか「将来の夢」とかそういったことには無縁で、ただただ目の前にある娯楽に

飛びつくだけの高校生活を送っていたように思います。

自らの思い出を美化するようですが、あの青春時代に後悔は全くありません。

でももしあの時、雪彦のように「自己の獲得」ということに敏感になっていたとしたら、全く違う時間を良くも悪くも過ごしていただろうな......と、執筆作業中にふと考えることがあります。


つまらん話はここまでです。以下、この回の解説です。

まずは用語から。

●強歩大会

30km、もしくは40kmを歩くか走るかして踏破する秋の学校行事。距離はコースごとに分かれており、毎年交互にコースが入れ替わる。ゴールは決まって山奥の温泉旅館。台風だろうがなんだろうが雨天決行。

この行事は実際に僕の母校にあったもので、先の震災でコースの変更はあったらしいですが今も続いていると聞いています。地元では毎年ニュースに取り上げられているので、同郷の方は「ああ、あの学校か」とすぐにピンと来るはずです。


●春江温泉

第5話でも出てきた温泉地帯。近くの大滝も観光地として有名。

モデルになる温泉街は存在し、名前はモジってあります。

「おはぎが有名なスーパー」というだけで、これまた分かる人には一瞬で分かる。

基本的に県内の地名や学校名等はこれからもモジっていきます。伝わってくれ。


●ゴールの温泉旅館

僕の母校の強歩大会で毎年お世話になっていた旅館さんがモデルです。母校の無茶な行事も快く受け入れてくださり、建物も大きければ懐も大きい。現在もゴールになっているのかは不明。ゴールしてからこの旅館さんの豚汁をいただけるのですが、それはもう本当に美味い。


●雪彦と霞が通っていた道場

現実にモデルはありません。剣道経験者の方から聞いた話を元に創設しました。

雪彦たちの家から西の方角にあります。


●軒山の赤い腕時計

↑平井堅さんの曲っぽい表記になりました。特にブランドとかモデルとかがあるわけではないです。

多分、ホームセンターの時計売り場で1000円くらいで売られているものを軒山が買ったんだと思います。

本編では奥海さんが利き腕のことに気づくきっかけになるアイテムでした。


作者の自己満足だと言われてしまえばそれまでなのですが、今回の話は随所随所にエモーショナルを感じられるであろうポイント(以下エモポ)をこれでもかというほど散りばめました。

例えば、光の方向とか、空とか......情景ですね。他にもいっぱいありますが。

エモポを集めて、エモーショナルな気分に浸って欲しいです!

集めたエモポは全国の加盟店で1ポイント=1円でご利用いただけます!

(※2021年5月24日現在、加盟している店舗はございません。予めご了承ください)


難産だった文化祭の長編を先日投稿し、雪彦の過去回もこうして投稿できました!

ここからは投稿頻度をあげていきたいと思いますので、期待してください!

ぜひブックマークの方もお願い致します。

そして作品やキャラクター、作者に対する感想や質問、ご指摘等ございましたら、いつでもなんでも何度でも「コメント」や「感想」をください!「読んでくれる人がいる」と分かるだけでモチベーションが加速度的に上昇します。


また、これからは定期的(更新と更新の間のその場しのぎ)に「登場人物紹介」を小出しにしていきます!

キャラクターの生年月日や身長体重、趣味好物etc......といった設定を公開します。

こちらは僕の「活動報告」の方に掲載していきますので、併せてチェックしてもらえると嬉しいです。


長くなりましたが、ここまで読んでいただけた暇人の皆様、本当にありがとうございます。

これからも完結までお付き合いいただければ、それ以上に幸せなことはありません。

作品の最後までどうぞよろしくお願いいたします!!

ではまた会う日まで!!アディオス、アミーゴ!!

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