第14話「梁間さんのお兄さん(前編)」
台泉高校3大行事のひとつ、「強歩大会」。友人が実行委員になったために、30kmを超える道のりを一人で行く梁間雪彦。そんな梁間の元に、意外な並走者が現れる。
30km。ただただ歩くには長すぎる。
その人物に求められ、梁間は自分の昔語りをすることに。
時は彼が小学生の頃、妹・霞との間に起こった事件について話し始めた。
――夢を見た。
右も左も前も後ろも上下さえも分からない、果てのない暗闇の中を一人で、小さな歩幅で歩き続けている。
靴を履いた足元から伝わってくる感触は柔らかいとも硬いとも言えず、変な浮遊感も伴っているような気がして、本当に地を踏みしめて歩いているのかどうか疑問を抱かずにはいられない。
明かりは無いが、不思議と自分の姿かたちだけははっきり分かった。高校の制服を着ている。夏服だ。
肌に感じる空気はぬるく、なんとなく重い感じがする。どこに向かって歩いているのか、自分では当然見当もつかない。
だがひたすら歩き続けている。まるで、かの英雄メロスのようだが、彼には走るに値する明確な目的がある。対して俺には進む目的も理由も情熱もなく、ただ漠然と止まらずに歩くばかりである。
そうしてしばらく歩いていると、やがて後ろから何者かが走って近づいてくる。
足音が迫る。追いつかれる。焦りで少し歩を早めるが、既に遅い。
その何者かは追い抜きざまに俺の顔を一瞥すると、またクルリと前を向き直し視線の先へと無言で走り去ってしまう。
何者かは後ろから一人、また一人とたまにやってきては俺を追い越し追い抜いていき、やはり例によって遠ざかり見えなくなってしまう。
走って追いかければよいのだろうが、足は動かない。
やがて最後にはひとり闇の中に取り残され、何もかもが馬鹿馬鹿しくなり、歩くのをやめてしまうのだ。
いつからだろうか、同じ夢を見ることが多くなった。
しかしながらよくよく思い出してみると、現れては消える何者かの顔は毎回微妙に異なり、そしてその顔は見知った人物たちの顔だったような気がする。
俺は、この夢が大嫌いだ。
歩くのをやめて立ち止まったところで、普段よりも早い時刻ながら今朝も耳元で甲高い音を鳴り響かせる目覚まし時計を右手で叩くようにして止め、なんとも重たい気持ちで、ベッドから這うようにして仕方なく起き上がった。
●時刻06:25 現在0.0kmスタート地点
雨を願うのは無駄だと分かっていたので、雨乞いはしなかった。
雨天決行。過去には超大型台風が接近しあらゆる交通機関が運行不可能と判断し休止を決断していく中でも強行開催されたという。当時の生徒が不憫でならない。
どんな天候であっても開催されてしまうのならば、天に雨や雪、もしくは槍を降らせてくれまいかと乞い願うのは労力と霊力もしくは魔力の無駄というもので、せめてお天道様が程よい陽気になってくれればとさかさまに吊るそうとしていた“てるてる坊主”を正しく吊るし直したのは昨晩のことだ。自分でも意外だが、すると梁間雪彦は信心深い質らしい。その甲斐あってか、頭上には雲一つない澄み切った秋空が広がっている。
台泉高校が誇る3大行事のひとつである「強歩大会」。今日がまさにその日だ。
己の脚力のみを頼りに、我々生徒一同は定められた距離を踏破ないし走破しなければならない。
台泉市のほぼ中央に位置するこの台泉高校からひたすら西へ進み駅前のビル群、そして市街地と山を越え、日本でも有数の温泉地帯である春江温泉地区までの道のり。それはそれは長い道のりで、具体的には約30キロメートルほどある。
春江温泉へと至るコースはご丁寧にも2種類用意されており、毎年コースが交互に入れ替わっているらしい。
観光スポットにもなっている大きな沼を迂回するコースと、山間のダム方面へと向かうコースの2種類。前者はおよそ30kmなのに対して、後者のコースはなんと40kmを超す道のりが待ち構えているという。幸運なのは、俺たちの学年は40kmのコースを走らされるのが1回だけだということ。
つまり、今年の強歩大会は30kmの行程をゆくことになっている。
夏休みに経験したが、春江温泉まで行く路線バスが台泉駅前から通っている。ならばバスを使えばよいはずなのにわざわざ足を使って行くといのは、人間が進化の過程で発展させてきた文明と技術の放棄ないし衰退を促すに他ならない行為ではないか。これは人類への冒涜であるぞ!文明衰退論には我々は断固として反対していく所存である!やい、バスに乗せろバスに!
長い横断幕を広げ拡声器を片手に頭の中で反対運動のデモ行進をいざ決行してみたが、どちらにせよ結局歩いてしまっている自分に気づき、馬鹿馬鹿しくなっていらぬ妄想を打ち切った。
もうすぐ、地獄の行進の始まりを告げる空砲が鳴る。正式な名称は知らないが、空砲を鳴らすあの黒いピストルを手にしたジャージ姿の校長が、正門近くに設置された演説台の上で腕時計をちらちらと見ながらその時を今か今かと待ちわびているようだ。今朝の朝礼が短かったのは評価したい。「競歩」ではなく「強歩」なんだということを強調した朝礼だった。
出発の時刻、6時30分まであとどのくらいなのだろう。走るのに邪魔だと思い今日は腕時計をしていないし、スマホは背負ったナップザックの中に入れているので現在の時刻が分からない。中学時代に家庭科の授業で作らされた青いナップザックの中にはスマホの他に財布やタオル、着替えのTシャツが入っている。
スタートとなる西の正門へと続く緩やかな坂を、学校指定の白い半袖シャツと赤い半ズボン姿の台高生が隙間なく埋め尽くしているのが見える。おおよそ学級順に待機しており、先頭から3年1組、3年2組と続き、俺の所属する1年8組はその最後尾に加わっている。坂の末端、もうほとんど東門から出てしまっている最後尾で一人、ボーっとつっ立っているのが俺である。周りを見渡せば、「一緒に走ろうね」と笑いあっている女子グループもいれば、全校生徒で行った準備運動では足らなかったのか、片足を伸ばして深く腰を落とし念入りに筋を伸ばす色黒の男子生徒もいる。春のスポーツテストのシャトルランで最後まで残り、目立っていたナントカ君だ。運動神経が抜群でストイックなスポーツマンだという印象が強い。ハンドボール部だったかバスケ部だったか、もしくはサッカー部だったかもしれない。
列の横では、早朝出勤ご苦労様です、眠そうな素振りを隠そうともしない教諭たちが各々ラフな格好で腕組みをして見守るように立っている。彼らは生徒たちがスタートした後、車で各チェックポイントに散らばりやってきた生徒たちが持つスタンプカードに押印する役目があるらしい。ちなみに、スタンプを全て押してゴールの温泉宿にたどり着くと豚汁が貰える。わあい。
......30kmを行く労力の割に合わないことこの上ない。
級友たちは走る集団を形成しつつあるようだ。人との交友にあまり積極的でなかったこの半年間の高校生活が災いし、一緒に走ろうと言えるような知り合いは数えるのに両手を使っても指が余るほどしかいない。同じクラスで同じ化学部に属する友人である軒山壮一はこの列には加わっていないはずだ。今頃は強歩大会実行委員の一員としてコース上のどこかで道草を食っているに違いない。
数十kmを走れと言われたときに、体力や持病などから不安を抱える生徒は必ずいる。そのような生徒の救済措置として、実行委員という立場で強歩大会に参加することができるらしい。決死隊への招集を免除されるならばと俺も実行委員側につくことを検討したのだが、集合時間と職務内容を聞いて膝から崩れ落ちた。集合時間は早朝5時、仕事はコース誘導という名の立ち仕事を終日。死の行軍と生ける案山子。悩んだ末、幾ばくかの自由が約束されている前者を俺は選んだ。一方で軒山は「30kmも歩くのはつらい」「女の子と何か運命的な出会いがあるかもしれない」と言い残して実行委員の襷に体を通した。
こうして盟友と袂を分けた結果、孤独な30kmの道のりだけが目の前に残った。共に歩を進める者は誰もいない。苦痛に顔を歪ませながら同じ道を行く名も知れぬ同級生たち、あるいは先輩たちの姿を見て「嗚呼、苦しい思いをしているのは皆同じなのだ。南無」と僅かな励みにしていこうではないか。
刹那、ザワザワと騒がしかった列が、前の方から流れるように静かになっていく。校長が何か声を発したらしい。沈黙が波のように最後尾の俺まで押し寄せてくるのが面白かった。
「......いーちについてえ!!」
校長のかすれるような大声が、空気の振動と共に風に乗って聞こえてきた。右腕を伸ばしてピストルを天に掲げ、左手で耳を塞いでいるのが見える。ああ、処刑の合図だ。
「......よおーい……」
人生で一番長い距離を歩いたのはいつだったろう。中学時代、野球部の応援に駆り出された時だろうか。炎天下の中、地方球場から帰宅する手段を探して見知らぬ土地を彷徨う様はさながら荒野を己が足で切り開く旅人のようだった。しかしそれでもせいぜい1時間程度、10kmも歩いていないはず。
おそらく今日、我が人生において、一年後まで決して打ち破られることのない生涯最長歩行距離の新記録を更新するのだろう。俺にマラソンやウォーキングの趣味はないし、これから趣味にする予定もない。
............パァン!!!
空を切り裂く火薬の音が、雲一つない秋空に弾けるようにして響き渡った。
その瞬間、正門から雪崩れるように勢いよく押し出されていく台高生たち。正月のニュースでよく見る福男競争のようだなあ、などと暢気なことを思った。獣のような咆哮をあげる屈強な級友。みな我先にと出ようとする。押し合い圧し合い、正門付近ではもみくちゃになっていそうだ。
誠に不服で遺憾ながら、俺もその列の最後尾に駆けていった。
長い長い30kmの始まりだ。くそったれ。
●時刻07:10 現在4.8km地点
台泉高校を出てまっすぐ、西遊記もかくやとばかりにひたすらまっすぐ西へと進んだ。行き交う人の姿がまだほとんどない早朝のビル群をぐるりと外回りし、台泉駅西側に広がる中心街を突破して、前方にのったりとそびえる山の入口へと続く大きな橋をこれから渡る。ここまで走って来ると、さすがにそろそろ息が苦しくなってきた。
先日の大雨の影響か、橋の下を流れる広須川の流量が増しているように見える。この橋を渡った先には地元大学の赤葉山キャンパスが広がっており、さらに道なりに行けば動物園で有名な七木山へと続く。しかし、台高生の赤い列はその道から北西に折れてゾロゾロと進んでいく。
マラソンの世界記録保持者で走行速度は毎時20kmほどなのだと、軒山の奴が以前言っていたのを思い出す。俺もそれくらいのスピードで走れたなら単純計算でスタートから2時間後にはゴールの温泉にヒャッホウと飛び込んでいるのだろうが、あいにく平均的な体力と平凡な肉体しか持ち合わせていない。しかしそれでも、凡人ながらも割と順調にいいペースでここまで来ているように思う。
学校を出発してからもう30分は経っただろう。赤信号に捕まる以外は立ち止まらず歩かず、走り続けている。ゆっくりとキャッキャワイワイ走る女子の一団や走り方からして明らかに運動が苦手そうな男子生徒たちなど、結構な人数を抜かして来た。全体の3分の1、いや4分の1程度は順位を上げたような気がする。まあもっとも、順位にこだわりがあるわけではないが。
歩いてもいい行事だが、最初の区間は走らないと不都合なのだ。
というのも、化学部の先輩である日名川部長が語る経験談によれば、最初のチェックポイントである8.4km離れた寺への到着時刻が8時15分を過ぎた者は脱落扱いになるという。人間の歩行速度は時速4kmほどらしいので、6時半のスタートから歩いていたらまず間に合わない。その後のチェックポイントにも受付〆切時刻が設けられているが、以降は全て歩いても間に合う余裕があるらしい。昨日の夕方、化学部での会話を思い出す。
「脱落したらどうなるんですか」
もしやそのままゴールに連れて行ってもらえるのではないかと期待を込め、日名川部長に尋ねた。
「バスで回収されるらしいにぇ~」
「よしっ」
ならば早々とリタイアするに限る。リタイア万歳。逃げるは恥だが役に立つ。
心の声がガッツポーズと共に漏れた俺に向かって、部長はしかしこう続けた。
「羽盛先生が乗ったバスに、ね。回収した生徒はそのまま実行委員扱いになって、強制労働に従事させられるよ」
羽盛先生といえば台泉高校では厳格と強面で名が通る定年間近の数学教諭だ。俺のクラスにも週に4度現れては、我らが教室を数学の修羅が支配する恐怖の空間に仕立て上げている。具体的には「こんな問題は幼稚園児でもできる!」といった怒声と罵声、そして罪も無いのに何度も叩かれる教卓。バン!バン!と教卓の悲鳴が教諭の有難い言葉の合間合間に響き渡るのだ。
「強制労働?」
「劣悪な環境下で鞭打たれながら死ぬまで地下王国の建設作業。あそこに堕ちた奴ァ帰っては来れねえのさ。いや、地下の賭博に勝てば戻ってこられるっつー噂があったなあ......」
「いや、そういうのいいですから」
煙草をふかすような芝居がかった仕草で仰々しく語る先輩に俺は「もういいです」と手のひらを見せた。
コホンと咳払いをひとつして、日名川先輩はいつもの調子に戻る。
「とにかく、リタイアしたらしたで大変らしいのよ。各チェックポイントの撤収作業だとか、ゴールの休憩室の掃除とか。最後のランナーがゴールテープを切るまで休む暇なく働かされるって話さ。ま、それが嫌なら真面目にゴールを目指すこったね」
そう言って部長は、やれやれといった具合にかぶりを振ってみせた。
その後考えたが、どちらにせよ肉体的疲労を回避できないのならば、リタイア組で名も知らぬ生徒と顔を突き合わせ愛想笑いを浮かべ気を揉んで働くよりは、こうして一人、自分のペースでゴールを目指す方が気楽だという結論に至った。その結論に今のところまだ悔いはない。
大きな道から分岐するところや車通りの多い場所に、誘導係として白い帽子を被った実行委員が黄色い手旗を持って立っている。生徒がコースを誤って七木山方面に向かってしまうことがないよう、この道の分岐点にも実行委員がいた。交通整理でもするかのように、旗を持った左手を真横に伸ばし右手で走者たちを正しい道へと誘導している。
実行委員となることを選択していたら、もしかすると俺があそこでああしていたのかもしれない。チェックポイントの〆切を鑑みれば、この場所での仕事はせいぜい8時半頃までだろう。きっとその後はまた別の地点に移動して同じく誘導係の任に就くはずだ。面倒な仕事だ。ご苦労である。
せめて今後の彼の仕事が穏やかに努まるように祈って心の中で敬礼し、手旗に従って実行委員の彼を通り過ぎようとした。その時ふと、彼と目が合った。
帽子の下に覗く眼鏡に、見覚えがあった。
「あ、梁間じゃないか」
俺が何か言うより先に、向こうから声をかけられた。俺は足を止める。
「軒山」
「思ったより早かったねえ。いずれ来るのは分かってたけど、梁間のことだから、最後尾から始まって後ろの方でのほほんと口を開けて走ってるもんだと思ったよ」
他の走者の邪魔になってはいけないと思い、ニヤニヤと笑う軒山の後ろに移動した。肩で息をし、少し荒くなった呼吸を整えながら言う。
「そっちこそ、思ったより真面目に働いてるみたいだな。看板と同じくらいには機能してるらしい」
「まあね。一応は真面目に見えるようにやってるんだよ」
「と、言うと、心中は真面目じゃないってことか?」
軒山は口元に下卑た笑いを浮かべた。
「ここは最初の区間だからね。参加しているランナーはほぼ全員、ここまでたどり着けない一部の生徒を除いて、僕の前を走って通るんだ」
こいつの前を走って通るとどうなるのか。俺は黙って続きを促した。
「……薄着の女子も、僕の前を走って通るんだ。絶景だよ」
ちょうど俺たちの前を女生徒が腕を振り、身体を揺らしながら走り去っていった。俺と軒山は黙ったまま、走り去る彼女を目で追う。……“絶景”が意味するところを完全に理解した。
「よし、ここの仕事は俺が代わってやる。俺の代わりに走って、好きなだけ尻でも追いかけてろよ」
「その必要はないから、さっさと走りたまえ。覗けもしない女湯がゴールの温泉で待ってるぞ」
「このドスケベ野郎が」
「お互い様だろうムッツリ魔人」
その後も罵り合うふりをして、俺もしばらくその場にとどまってみた。
………………なるほど。なるほどなるほど。そう来たか。
心なしか、精神が安らいだような気がする。しかし、油を売るには少し長居しすぎたかもしれない。
「……ところでいま何時だ?」
「時計に縛られるのは現代人が獲得した悪癖だね。7時と……15、いや16分になった。梁間、腕時計は?」
「俺の代わりに家で寝てる。スマホもこの中で時刻が分からない」
背負ったナップザックを親指で示すと、ため息交じりに軒山が自身の左腕から赤い腕時計を外した。
「ほら、これ貸してやるからこの先の地獄で役立てなよ」
「いいのか?」
「僕はスマホで時間を確認できるからね、無事五体満足でゴールできたら返してくれればいいよ。アウトドア用に買った安物だけど、それ結構重宝してるんだ。大事にしておくれ」
ありがたく受け取り、利き腕と反対の左手首に赤いバンドを巻き付ける。時計はデジタル式で、ご丁寧なことに時刻が秒単位まで表示されていた。
「汗か?なんか濡れてて不快だな」
「文句あるなら返せ」
「いや、借りてくよ。代わりに、この場所での件は化学部の女性陣には秘密にしといてやる」
「それはお互い様だろう」
頑張れよ、という声に背中を押されて俺はまた走り出した。
●時刻07:50 現在8.4km地点 第一チェックポイント
軒山と別れた後、俺は“真面目に”走り続け、チェックポイントの〆切時刻前にある程度余裕をもって到着することができた。第一チェックポイントであるこの寺は山中の道路沿いに建っており、周囲を見渡しても樹木の緑と木の肌の色しか目に入らない。分け入っても分け入っても青い山。1時間前にはコンクリートのビル群の中にいたのが信じられない。
広い駐車場の一角に、白い屋根のテントの下に長テーブルを並べて作っただけの簡易な給水所がある。紙コップを受け取り、ランナーの体調を考慮してかほどほどに冷やされた水を2杯飲み干す。顔はなんとなく見覚えがあるがその名を知らない初老の男性教員からスタンプカードに印を押してもらった後、すでに数人の生徒がそうしているのに倣って、寺の本堂へと続く石段のひとつに腰を下ろした。あわてないあわてない、ひとやすみひとやすみ。
身体中から汗が吹き出し、Tシャツは腹と背にびっちゃりとくっついている。Tシャツの前をつまんで胸と腹から剥がし、前後させてシャツの中に風を送る。涼しい。しかしこの腕の前後運動でまた汗が出るのだから意味が無いような気がしてきて、手を動かすのを止めた。
石段からは下りの坂道になっている道路が一望でき、向こうから足を引きずるようにしてその道路の外側を続々と駆けあがってくる台高生諸君の姿が、蟻に重なって見えた。少し休んだら、俺もまたあの列に戻らなければならない。死地になった戦場へ向かう兵士たちもおそらくこんな気持ちだったのではないだろうか。脱走兵もやむなしだ。
林間を通って吹き抜けていく山の風が心地よい。露出した腕や足から、火照り上がった体温を優しく奪い去ってくれる。首元にも風を感じたくて、顎を上げてしばし瞑目する。
「あら、ここ、結構涼しいのね」
出し抜けに隣で発せられた声に驚き、慌てて首を右に回す。いつの間にか、細面の女子生徒が俺の隣に座っていた。
「隣、いいかしら?」
「......もう座ってるじゃないか」
「言われてみれば、そうね」
声に感情がまるでこもっていない。無表情なのもいつも通りだが、微かに息が荒い。
同じ1年8組のクラスメイト、奥海由香、その人だった。
半袖からすらりと伸びた両手を細い右ひざの上に置き、背筋を張って座っている。腰まで届きそうな長さの艶やかな黒髪は後頭部の高い位置で根元をまとめ上げられ、まるでこうべを垂れる稲穂のように背中で風に揺られていた。冷徹で寡黙、しかしどこか威厳というか圧のようなものを感じさせる、少し吊り上がった目の奥にある吸い込まれそうな漆黒の瞳が、変わらず印象的だ。
「いま着いたのか」
「いま着いたの」
スタート直後、1年8組の女性陣は最後尾の方に取り残されていたはずだ。……俺もだが。
「うちのクラスの女子の中なら、結構早いほうじゃないか。意外だな」
「別に。私より遅い人間が私の前を走っているのが気に入らないだけ。私の前を走るのなら、私と同速以上でないと、許せないじゃない?」
ああそうかい、と俺は小さな相槌を打つ。彼女の表情は鉄仮面のように冷たく硬く、視線は遠くを見て一切動かないが、その言葉の意味するところに実は強い感情が籠っていることを、俺は文化祭で知った。
文化祭の一件で、奥海由香と俺との間にはちょっとした、しかし短くは言い表せない因縁が生まれている。あれ以降、奥海さんとこうして言葉を交わす回数が増えた。軒山の奴は羨ましがっているようだが、こうして安い皮肉を売り買いするだけの関係である。友人と言っていいのかどうかは判断に困るところだが、別に他意はない。
だから、彼女が俺の隣に座ってきたこと自体には大して驚かない。
「奥海さんが真面目に走ってるのも、正直意外だ。『春江まで40kmも自力で行くなんてくだらない、こんな学校行事に殉ずるのは馬鹿か阿呆のすることね』......くらいのことは考えてるもんだと思った」
裏声で奥海さんの話し方を真似てみたが、彼女は目立ったリアクションもなくこちらを見ることもなく淡々と言った。
「その言葉、そっくりそのままお返しする。私はてっきり、急な腹痛と頭痛、それに発熱とめまいと吐き気、さらに親戚の不幸と自分の事故も重なって貴方は学校をお休みするものだと思ってたわ」
ひどい言われようだ。どいつもこいつも、俺に対する評価が著しく低い。
「そんな休み方をする奴はハッキリ言って三流だな。俺ぐらいの欠席常連者になれば、風の向くまま気の向くまま、意味もなく無断で休むのさ」
「まるでスナフキン。随分と詩的で素敵な生き方をしているのね、うらやましい」
つまらない軽口はこのあたりで切り上げ、正直に答えることにした。
「ま、本音を言えば、そりゃあもう休みたかったさ。40kmを仲間たちと共に歩むことで心身共に強くなるだのなんだのと校長はのたまっていたが、俺には心身を鍛えるような向上心は無いし共に進むような仲間もいない。ましてや公共交通機関が発達した現代日本において40kmを人間の足で移動するなんて馬鹿らしいし昨晩摂取したカロリーの浪費だと今でも心底思ってる」
砂で汚れた自分の靴に視線を落としたまま、ため息交じりに続ける。ここまで一人で来た反動か、愚痴のような呪い文句が溢れ出てくる。
「だが休もうにも、我が家に巣食う“鬼”がそれを許さないのさ。ズル休みをしようもんなら竹刀片手に部屋までやってきて脅しにくるんだ。なまはげに怯える赤ん坊の気持ちが分かるような気がするよ」
自分の両腕を抱いて震え上がる様子を再現しおどけてみたが、奥海さんはそれには一切反応しなかった。代わりに、
「前に話してくれた、例の妹さんのことかしら」
と珍しく興味ありげに尋ねてきた。漆黒の瞳だけがこちらを向く。
文化祭の最終日に彼女から聞いた話に関連し、俺は自分の妹たちについての思いを軽く吐露したことがあった。その際の話を指して言っているのだろう。
「......そうだ。まあ、俺の不義を罰するのは真面目な長女の方だがな」
へえ、という生返事だけが返ってきた。
左腕に通した赤い時計の表示を見れば、もうすぐ8時5分になろうかという時刻だった。少し休みすぎたかもしれない。
「あら、赤い腕時計。梁間君にそんな情熱の色は似合わないと思うのだけれど」
「同感だよ。こいつは軒山からの借り物なんだ」
次のチェックポイントは4kmほど先で、タイムリミットは9時30分に指定されていたはずだ。先輩の言う通り歩いても十分間に合いそうだが、周囲の生徒がまだ駆けている中でのらりくらり歩くのはいくら俺でも少し焦る。
休憩を切り上げそろそろ出発しようと、膝を掴んで重い腰をよっこらせと浮かせた時だった。
「ねえ。差し支えなければでいいのだけれど……」
漆黒の瞳がきょろりと俺の目を捉えた。
「妹さんと貴方の話、聞かせてもらえないかしら?」
その瞬間、俺はどんな顔をしただろう。間の抜けた顔か、困惑した顔のどちらか、あるいはその両方かもしれない。とりあえず出てきた言葉は、
「……なにゆえ?」
だった。
「文化祭のあの日、私は貴方の問いに答えて、私のことを話した。次は貴方が話す番ではないかと、私は思うのだけれど」
「ほとんどそっちが勝手に話してただけじゃなかったか?」
確かに俺は彼女に問うたが、その後感情のままに心の内を漏らしたのは何も俺のせいではない。しかもあれは彼女の「独り言」ということになっていたはずだ。……はずだが、弱みとも言うべき内容を相手に話させるだけ話をさせて、自分だけ口をつぐむのはフェアじゃない気がした。それはスジが通らないか。
妹と俺の話、か。
「……別に、話したくないのなら強制はしない」
俺の沈黙を否定と受け取ったのか、奥海さんは静かにそう付け加えた。
「......いや、話すのは構わないが、聞いても面白い話じゃないぞ」
「たまには面白くない話というのも一興でしょう」
これまでの奥海さんとの会話で特段面白い話をしてきたつもりはないし、これからする面白くない話に興を持たれても困るというものだが。
「まあ大した話じゃないから、そんなに期待せんでくれよ。しかし、つまらない話だが、これはこれで話せば長くなる。長くてつまらない話に付き合うのは辛いらしいぞ」
「なら、ちょうどいいじゃない。この先はまだまだ長いのだし、暇つぶしがてら、ゆっくり聞かせておらおうかしら」
奥海さんはスッと立ち上がり、石段を数段下りて顎で道の先を示す。いつもの仏頂面で口元は笑っていなかったが、なぜだか少し、少しだけ、楽しそうに見えた。
●時刻08:15 現在8.7km地点
会話をしながら進むには、道が狭すぎた。ダラダラ進むと後続に迷惑がかかってしまうので先に進むことにした。
緩やかな上りの坂道が続き、途中うねうねと蛇行する山道。山道だが、アスファルトで舗装されているのがまだ救いだ。
そういう道をコースとして選んでいるからだろうが、朝の通勤時間帯にしては車通りが多くなく、道路のガードレールの外側を走っていれば安全に進むことができる。歩行者通路のさらに外側には、果てが見えない暗い樹海が広がっている。人を埋めるならこういうところだろうか、と物騒な考えが頭をよぎる。木々の間から上り始めの日が僅かに差し込むばかりで、道もまだ薄暗い。
ここまで、大方は当初の予定通りに来ていた。予定外なのは、共に走る同行者がいることだ。俺の後ろで奥海さんが腕を振り、髪を向かい風になびかせ走っている。
最初の区間を走っているときよりもペースを少し落としているとはいえ、俺と同じペースで走れる体力が奥海さんにあるとは驚きだった。袖や裾から伸びる手足は細くまた日焼けとは無縁の白さで、腰回りも力士の太ももほどの太さしかないように見える。お世辞にもとても運動ができるようには思えなかったが、人を見た目で判断するのはやはり良くない。
お互い無言で走り続け、途中20か30人ほどを車の合間を縫いガードレールを越えて抜き去り、先が晴れて峠はようやく下りに差し掛かった。
「効率がいい。一気に下ってしまおう」
俺の発言に返事はなかったが、重力加速度に従ってギアを上げた速度に奥海さんは黙ってついてきた。この坂道では他の生徒も同様にスピードを上げるようで、差は縮まらないし広がらない。下るにつれ、自然とストライドが大きくなる。
左にカーブ、しばらく走って右にカーブ、曲がった先にまた左のカーブ。曲がる度にスピードを少し緩める必要があり、その度に膝に負担がかかる。膝に乳酸がたまる。膝の叫びが聞こえるか。
そうして5分ほど道なりに下ると、左右の雑木林がだんだん開けてきた。雑木林が疎林になり、下り坂だった道が徐々に傾きを失い、平坦になる。峠を越えたようだ。
ビニールハウスや田畑に挟まれた広い道路がずっと先まで伸びる。車の往来はほとんどない。田は既に収穫を終えた後で、刈り取られた稲の茎が黄土色の絨毯のように際限なく広がっていた。そういえば新米の季節だったなあ、などと思う。
周りで走っていた生徒も乱れた息を整えながら徐々に徒歩へと切り替え、ゆったりペタペタと進んでいく。
「ここからは歩いてもいいだろう。流石の奥海嬢も、お疲れか?」
「それは、そうでしょう。ここまで、2年分は、走ったわ」
膝に手を付き肩で息をする彼女に「来年もあるのに」とは言わなかった。今から1年後も同じ苦役を繰り替えすことを考えるのは精神衛生上よろしくない。とりあえずは、あの無表情な鉄仮面が疲れているのを隠そうともしないのが可笑しかった。奥海さんの息が整うのを待ち、俺は腰に手をやり胸を大きく反り、伸びのついでに天を仰いだ。
天高く馬肥ゆる秋、とはよく言ったもので、馬が肥えているのかどうかは知らないが空は変わらず透き通るような青さで、山の向こうに見える薄く細かい雲は夏よりも遥か上空を浮かんでいるように見える。心なしか空気も美味い。気温も高くなくされど上着が必要なほど肌寒いということでもなく、趣味人ならばランニング日和だと小躍りするだろう。
待たせたわね、と二足歩行に戻った奥海さんが横に並ぶ。先ほどの峠とはうってかわり道が比較的広いので、2人並んで歩いても後ろからの追い越しの邪魔にはなるまい。さてそろそろかな、と思ったところで奥海さんの方から切り出してきた。
「それじゃあ、聞かせてもらおうかしら。梁間雪彦の昔話とやらを」
「昔話ねえ。むかしむかしあるところに……って始めればいいのか?俺なら山へ芝刈りに行っても昼寝して帰ってきて終わりだぞ」
冗談めかして言ったが、笑わなかった。それどころか、世の中に何も期待していないような諦めに満ちた冷酷な目で睨みつけてくる。まだつまらない冗談を続けるのならその息の根を止めるわよと言わんばかりの静かな殺気だ。
コホン、と咳払いをひとつする。
「さっきも言ったが、別に面白い話じゃない。残りの……大体30kmくらいか、ま、どうでもいいラジオを聞くような気持ちで、手持無沙汰の暇つぶしにでもしてくれればいい。しかし、どこから話したものかな……」
とりとめのない、長く無駄な話になりそうだ。歩きながら、話の組み立てを考えていた。
頭の中で過去の映像が、映画のフィルムのようにぐるぐると回り巡り、当時の感情と共に思い出と記憶が浮かんでは消えを繰り返し、そうしてひとつ、またひとつと昔へとさかのぼってゆく。
妹の才能への嫉妬、そして自身への失望と諦め。我ながら暗いテーマである。
今の“梁間雪彦”を形成した原点はきっと、あの時だろうと思う。
▽6年前 雪彦 当時10歳
あれは俺が小学生の時だった。
当時の俺は……笑うなよ?
自分で言うのもアレなんだが……その、いわゆる“クラスの人気者”だったと思う。テストはほぼ常に満点だったし、駆けっこなんかも同年代の奴より明らかに早かった。体格も恵まれたように大きく運動神経は抜群だった。
奥海さんの小学校にも、一人や二人、きっとそういうやつはいたんじゃないか?
いま考えると、4月生まれっていうアドバンテージがあったからだと思うんだが。とにかく、何をやらせても俺が常に一番だった。休み時間になればドッジボールのエースだったし、放課後はクラスメイトたちを引き連れて校庭やら自宅やらそいつらの家やらで遊びまわったもんだ。
もてはやされて、ちやほやされて、うらやましがられて、子供ながらに安っぽい優越感のような気持ちに浸っていた。お山の大将、ってやつだ。向かうところ敵なし。同年代で自分に勝る奴はいないだろうと、薄くて安い勝利経験が積み重なって、無駄に強固な自信に満ち溢れていた。
齢10才にして、俺は既に覇道を歩んでいたといっても過言ではないな。何をやらせても優秀な自分にはきっと、人とは違うなにか特別な才能があるに違いないと、信じて疑わなかった。
……たかだか数十人程度の住人しかいない、小学生の世界しか見ていなかった癖にな。我ながら愚かだよ。
このとき、俺には妹が二人いた。……いや、今もいるんだが。
長女が霞、次女がみぞれだ。え?可愛いかって?
……身内褒めになるが、それを差し引いても顔は整ってる方だと思うぞ。地味な俺とは違ってな。
俺が10歳だから……その時、それぞれ霞が8歳でみぞれが5歳になるか。
二人共早生まれだから、霞が小学3年生で、みぞれはまだ幼稚園だったはずだ。
みぞれはまだ幼かったからしょうがないとして、当時の霞は歳の割にとにかく臆病で気弱で、何をするにもどこへ行くにも俺の後ろをついて歩くような奴だった。
夜中のトイレも一人で行けなかった。小学校に登校するときも俺と一緒に行きたがってなあ、俺が友達と歩いてても、その後ろでランドセルを両手でぎゅっと握りしめたまま黙ってトコトコついてくるんだ。友達も「お前の妹は家来みたいだな」と笑っていた。今に比べれば、あの頃はまだ可愛げがあった、本当に。
昔は小さいモミジみたいな手で小さく俺を揺すって「お兄ちゃん、学校の時間だよ」って優しく起こしてくれてたのに、今や竹刀を握った右手を振る音と剣先の風に殺気を織り込んで、俺の枕元に叩きつけてくるんだ。
想像してみてくれ、起きるまで耳元にビシッ、ビシッと鋭い音が無限に続く拷問を。振るわれた竹刀がこめかみのすぐ横で振動と風による恐怖を掻き立てるんだよ。
時間の流れというのはまことに恐ろしいもんだ。
どうしてこんな育ち方をしてしまったのか……。親兄弟の顔が見てみたい。
すまん、話が逸れた。
……その頃、俺は剣道教室に通っていた。家と小学校の中間ぐらいにある道場で、毎週2回、いや3回だったか……頻度はよく覚えていないが、学校帰りに寄って日が沈む夕方まで剣道の練習にそりゃあもう熱心に励んでいた。
生徒が全部で20人くらいの道場で、中学生も何人かいたがほとんどが同じ学校の小学生だったと思う。他の道場を知らないから分からないが、大きくもないし小さすぎもしなかったんじゃないか。
俺の母親がこの道場主と知り合いで、何か習い事を俺にさせたかったから剣道ならちょうどいいってことで始めたんだ、確か。半ば強制させられるように始めたが、俺自身も新しいことへの挑戦にはそれほど抵抗がなかった。自分になら何でもやれるって自信が間違いなくあったんだろう。
……期間か?剣道を始めたのは小学2年生の終わりころだったかな。だからこの時は剣道歴2年目ってところだ。
やはりここでも覇を唱えていた雪彦少年は、剣道でもその才を他に見せつけていた。足の運びを習って竹刀を振り始めれば、打ち込みの度に師範から「筋がいい」と認められ、模擬試合ができるようになる頃には小学生の中で俺の横に並び立つ者はいなかった。
中学生相手では流石に快勝とまではいかなかったが、始めてから1年も経たないのに6年生すら圧倒してしまう俺の実力に、同じ道場の奴らは舌を巻いていたと思う。「お前は全国を目指せる逸材だ」と師範に言われたときは、そりゃあもう嬉しかった。
負け知らずの無双状態だったからな、俺は自分の能力と才能に絶対的な自信を持ち始めて、実際に勝ち続け、剣道が楽しくてますますのめりこんだ。
そして俺が小学4年になった5月、霞が自分も剣道がしたいと言い始めた。
俺が楽しそうに道場に通っていたからか、単に俺の真似事をしたかったのかは分からん。気弱で体も小さかった霞に体力と自信をつけさせるいい機会だと思ったらしく、母親はその願いを快諾した。正直、当時のあのちっこい霞がスポーツを続けられるとは思っていなかったが、俺は柄にもなく「妹にカッコいい姿を見せつけてやれる」と内心得意気だったから、霞が剣道を始めることに対して特に反対はしなかった。まあ、見栄を張って賛成もしなかったが。
俺と同じ道場に通えると分かって、霞のやつ、「お兄ちゃんといっしょだ!」って跳ねて喜んでたな。
そこからだ、霞は剣道を始めた。小学3年生にしては背が低かったから道着袴が長すぎてダボダボでな、袖や裾を捲ってなんとか着てたのが懐かしいよ。
他もそうだと思うんだが、少なくともうちの道場は、初心者は必ず師範から最初に基本的な教えを受けるんだ。剣道における“礼”だとか、剣道はスポーツではなく「立派な人間形成を目的とした修行である」だとか、そういう感じのやつな。練習の度に師範と生徒全員でそれを最初に毎回確認するんだ。おかげで刷り込まれた。それから発声に足運び、素振りが基本中の基本……だったかな。俺もやったよ。やらされた。
霞も道場初日は剣を握らせてもらえなくて、ずっと練習の見学だった。あの時は見てすぐ分かるくらいには不機嫌だったな。ふくれっ面といったら、そりゃあもう相当なもんだった。
「わたしもお兄ちゃんみたいに、剣を振りたかった!」
ってな具合でな。
仕方がなかったんで、家に帰ってから俺の使ってる竹刀を握らせてやった。小学生用の竹刀だから、うちの高校の剣道部が引っ提げてるやつよりは短くて軽いはずだよ。
野球のバットも握ったことが無い奴だから、柄の持ち手も滅茶苦茶だった。右利きなら基本は利き手の右手が鍔側で、左手は柄頭が……ああすまん、柄頭ってのは柄の一番下の部分だ。柄は竹刀の握る部分で、鍔は握る部分と刀の部分の境にある部品だ。……が隠れるように強く握るんだ。右手と左手の握りの間がこぶし1個分くらい離れるような感じになる。
だけど、あいつも右利きだってのに左右逆に柄を握って、握りこぶしがくっつくようにして持って「えいっ!」て竹刀を無茶苦茶に振り始めて。本人は真っすぐ振り下ろしてるつもりだったんだろうが、思いっきり斜めに空を切ってた。
「そんな持ち方じゃ振れるもんも振れねえよ」って正しい握り方を教えてやった。それでも竹刀の重さに負けてフラついてたけどな。それを見て家族全員で笑ってたら、また頬を膨らませて不機嫌になりやがった。
霞が道場に通い始めてからしばらく経って、ようやく竹刀を振る練習にあいつも参加できるようになった。だが、同世代の平均よりも小さい霞は練習についてくるのに苦労することになる。あの細腕じゃあ竹刀をまともに操れるわけがないし、あの足腰じゃあ踏ん張りが効くわけもない。師範からは「遅い!」「フラフラしない!」ってよく檄を飛ばされてた。……師範か?師範は特別厳しい人ではなかったぞ。礼儀作法考え方を重んじる人で、練習中の指摘も的確だったから生徒からは尊敬されていたと思う。見た目は若いが30代後半だったような……。
……また話が逸れたな。霞は周囲のレベルに一向についてこれない。道場の生徒はみな割と良い奴らだったから表の態度にこそ出さなかったが、誰が見ても“落ちこぼれ”ってやつだったよ。「梁間の妹、兄貴と比べられるのは酷だよな」というような声が裏で囁かれるくらい同情されてた。……道場だけに。
……えっ、何か言ったかって?……頼む、聞かなかったことにしてくれ。
……とにかく何が言いたいかというと、つまりあいつは……霞は、剣道が下手だった。剣道初心者だということを差し引いても、なにより運動神経が壊滅的だった。
俺は当時の霞を見て、こいつはすぐに剣道を辞めるだろうと思った。というよりかは、ここまで俺がこいつの立場なら面白くなくてもうとっくに竹刀を投げ捨てているな、ってな感じだったかな。
道場に丸1年通っていたから、道場を辞める奴は何人か見てきた。家庭の事情でやむなく辞めざるをえなかったのもいれば単に辛くて辞めていくのもいたし、中には努力と時間で培ってきた誇りを俺の剣に折られて自ら道を閉ざしてしまう上級生もいた。
しかし霞は辞めなかった。傍目に見ても楽しそうではなかったのに、師範が課す練習や課題に食らいついた。庭での素振りを日課として1日も欠かすことなく続けてる。なんなら今も継続してるからな。
ずっと疑問だったよ。上手くもなければ褒められもしないのに、どうして剣道を続けられるのかって。
霞が庭で竹刀を振ってるときに聞いてみたんだ。そしたらあいつ、なんて言ったと思う?
肩で息をしながら俺の方をキッと見て、真剣な目で言ったんだ。
「だって、早くお兄ちゃんみたいに強くなりたいから」……って。
それを聞いて、俺は確か鼻で笑ったんだ。
「お前みたいなへたっぴが俺みたいになれるか」というようなことを言った気がする。実際、同世代の中で最強を自負していたし自分の実力に対して自信もあったから、俺は霞の言葉を真には受けていなかった。……当時の雪彦少年はやはり『井の中の蛙』って言葉を知らなかったらしい。とりあえず「まあせいぜい頑張れよ」くらいの上から目線なエールは送ったはずだ。
思い返してみれば、あいつの目付きが鋭くなったのはこの頃が最初だったかもしれない。
その後もあいつは努力を怠らなかった。
足の運びが遅いと言われれば延々と摺り足を練習するし、足がフラついていると言われれば足腰を鍛えるためにランニングを始める。小さく細い体を大きくしようとしてたから、自然と食事の量も増えていった。……その甲斐あって胃が大きくなったんだかどうだか、今じゃただの大食らいだけどな。
……俺か?……恥ずかしい話だが、惰性で続けてたよ。
道場にこそ出てはいたが、基礎練習は流してやってたし、正直なところ道場内の模擬試合で相手に勝つことにしか興味がなかった。
霞が剣道を始めてから1年ほど経つと、当初の弱々しい雰囲気は完全に消え去って目にも力強さが宿るようになっていた。そして変わったのは雰囲気だけじゃない。振りは鋭く、足の捌きは軽やかに。身長もその1年で急激に伸び、袴の袖を捲る必要はもはやなくなっていた。師範相手に打ち込みをすれば素早い動きで師範を半ば圧倒し、対人の模擬試合でもその成長ぶりを同世代相手に遺憾なく発揮する。いつの間にか、小学生の中で霞とまともに勝負できる人間はほとんどいなくなっていた。試合に勝っても霞は満足せず、互いの動きの良し悪しを対戦相手や師範と共に何度も確認し常に技術の向上を目指す。偉ぶらず奢らず、そんな霞の周りには自然と人が集まっていった。
ある日、練習が終わった後の挨拶の時、師範は全生徒を集めて座らせて言った。
「梁間霞さん、前に出てきてください」
呼ばれるがまま、霞は恐る恐る前に出ていって、誘導に従って師範の横に立ちこちらを向いた。俺も他の奴も本人でさえも、何故あいつが立たされているのか分からず「なんだなんだ」と小さなざわめきが起こる。それまでの経験則によれば道場を去るやつは最後にああやって皆の前で挨拶をするが、霞が辞めるというような話は聞いていない。何事かと思った。
生徒一人一人の目を見ながら、師範は太い声で、しかし静かな優しい口調で続けた。
「一緒にやってきた皆さんなら既に知っていると思いますが、梁間霞さんはこの1年間でとても成長しました。剣道の強さだけでなく、心身共に強く、逞しくなったと先生は思います。これは、彼女が皆さんに負けないように、一生懸命、大変な努力を重ねた結果です。努力を継続できるというのはそれだけで得難い才能です。皆さんも、霞さんを見習って、強く正しく真剣に、剣道に向き合ってください。先生は皆さんがそうやって成長してくれるのを楽しみにしています」
そう言い終わると同時に、霞に向かって拍手を送った。それに続いて座っていた生徒の間からも拍手が巻き起こり、道場中にパチパチパチと大きな音が響いたのをよく覚えている。霞は人前で目立つのが元々苦手な奴だから、顔はもちろん耳まで赤くして俯いていた。人前に立たされ褒められて、相当恥ずかしかったんだろう。
皆が拍手をする中で、俺は一人だけそうしなかった。理由は簡単。
……面白くなかったからだ。
師範の言う通り、霞の上達ぶりは誰の目から見ても明らかなもので、俺に追いつく勢いだったと思う。そのことに少なからず焦りを抱いていたことは間違いないが、それ以上に霞の「才能」が高く評価されたことが気にくわなかった。しかし、霞がどれだけ上達しようが一番は俺に違いないのだという自信だけは、揺らがない。
俺はその日、仲間たちにちやほやされる霞を道場に残して一人で家に帰った。
その後も、一緒に帰ることはなくなった。
霞が皆の前で褒められてから数日後。
忘れもしない、あの時がやってきた。
試合形式の稽古が行われた日だ。師範が2人ずつ選んでペアを作り、そのペアで順番に模擬試合をする。当のペア以外の生徒はその試合を見学し、試合を材料にして師範が具体的な向上点を皆に教えるって方式だ。俺も霞も、他の生徒と同様に師範が選んだそれぞれ別の相手と試合をした。その模擬練習では、俺も霞も確か勝利したと記憶している。
事件……いや事件というと大げさかな。少なくとも事故じゃない。
まあとにかく、事件が起こったのはその日の稽古の後だ。
稽古が終わって師範が用事で道場を留守にし、帰り支度を整えるために生徒が床に座り込んでいる時。
悪意は無かったんだろうが、霞の同級生が霞に言った一言が全ての始まりだった。
「霞ちゃん、ほんっとに強くなったよね!今ならあのお兄ちゃんに勝てるんじゃない!?」
道場の反対側に居た俺にも、その声はハッキリと聞こえた。俺自身はそれを無視するつもりだった。
だがその一言をきっかけに、「霞ちゃん、ちょっと戦ってみてよ!」「そうだそうだ、あの兄貴やっつけちまえ!」と周りが煽り囃し立て始めたんだ。当の霞本人は困惑しているみたいだった。
で、その声がだんだんと大きくなり、道場中の好奇の視線が俺と霞に注がれる。
俺は勢いよく立ち上がって、苛立ちを隠すこともなく声高に言った。
「お前らうるせえぞ!!大体、師範が居ないときは試合禁止だろうが!」
「おいおいユキヒコ!妹に負けるのが怖いのかよ?」
「逃げんなよ卑怯者!」
両手をメガホンにして俺をからかってきたのは、俺より一つ上の学年の男子生徒たちだった。そう、今思えば、あんなのはただのからかい。......だが当時の俺は、その煽りで頭に血が上ってしまった。
「......何だよ」
「だから、成長した妹に勝てないからって、屁理屈言ってるだけだろ〜?」
「自分の連勝記録が傷つくのが嫌なんだろ〜?」
その後もなんか色々言われた気がするんだが、どれも要約すると「お前は妹に負けるのが怖くて勝負を避けてるチキン野郎だ」というような声が投げかけられ続けた。
それで、俺は完全にブチ切れてしまった。
小学生にしては結構耐えた方だと思うんだが、安い煽りに乗っちまった。
「黙れっ!!黙れよ!!......いいよ、分かったよ!!やればいいんだろ、やれば!!......おい、霞、防具付けろ」
「えっ......お兄ちゃん......わたし、そんな......」
「いいから!!早くしろ!」
怒声をあげて睨む俺に、霞は萎縮し明らかに戸惑っていた。が、それでも俺が本気らしいと分かると、さっきまで身に付けていた防具をゆっくりと、再び身に着け始める。その間、何度も俺の顔色を覗き込んでた。
俺たちの兄妹対決が実現すると分かると、他の生徒たちの大部分は熱狂し歓声と冷やかしの声を上げていたよ。もちろん道場には根っから真面目な奴もいて「規則違反だからやめなよ」みたいなことを 口では言って注意はしていたが、本気で止めようとはしなかった。
そっから先は「あの霞に負けるわけがない」「俺の強さを見せつけてやる」という考えが、血の上った頭の中をぐるぐる回るばかりで、目の前に立つ霞の姿以外は見えなくなってた。
「......お兄ちゃん......本当にやるの?」
「霞、本気でやれよ」
「わたし、別にお兄ちゃんとケンカしたくない......」
「ケンカじゃねえよ!どっちが上か白黒つけんだよ、早くしろっ!!」
この後に及んでまだウダウダ言う霞を、俺は一喝した。
面に隠れてあいつの表情は見えなかったが、どんな顔してたんだろうな。まだ困ったような泣きそうな顔をしていたかもしれないし、もしかするとキリッとした剣士の表情になっていたかもしれない。
竹刀を帯刀し、白線の中、コートに入ったところで互いに一礼。
柄をギュッと力強く握り直し、俺は竹刀を構えた。視線の先で同じように竹刀を構える霞の姿が俺に似ていて、まるで鏡に映る自身の像に見えたのが今でも脳裏に焼きついて離れない。
そこから先は、詳しく覚えてないんだ。
互いに放つ竹刀と押し出す腕が、何度も何度も何度もぶつかり合い、一瞬でも気を抜いたら負けるという緊張感。
竹刀の音以外、何も聞こえない。目の前の敵以外、何も目に入らない。
打ち合って分かった。俺と霞の力は互角。
足の裏やら握った拳の中やら、身体中から汗が滲み出てくる。震える。滾る。
俺は負けない。負けられない。
何かに本気で必死だったのは、後にも先にもあの時が最後だったろうな。
どれくらいの時間、打ち合っていたのかは分からない。
30秒くらいか、もしくは5分もやり合ってたかもしれない。......決着は一瞬だったよ。
竹刀を払われ、霞が構えを一瞬戻すのが遅れた隙を俺は逃さなかった。
次の瞬間には、俺は霞の面に竹刀の芯を叩きつけていた。
勝負に勝ったのは、俺だった。
勝った。......俺は勝ったんだ。
あの時ほど消耗したこともなかったな。体力、精神、集中力。全てを使い果たし、俺は防具を脱ぐこともできずにしばらくその場に立ち尽くして、肩で息をしていた。
気づけば、面の中がすごく暑いし、湿っていた。
試合後の礼すら忘れていた。
真剣勝負に負けた霞はというと、竹刀を帯刀するようにして片手に持ったまま、柄頭から離した右手で面を取って一言、
「やっぱり、お兄ちゃんにはかなわないや。わたしもまだまだね」
とだけ言うと薄く笑って、そそくさと他の防具を外し始めた。まるで自分が負けて当然だとばかり、悔しそうな素振りは一切ない。......本気でぶつかり合った、互角の勝負だったのに、だ。
俺は面を外すことも忘れて、ただただ呆然としていたよ。
俺が剣道を辞めようと思ったのは、これがきっかけだった。
お久しぶりです!ここまで読んでいただきありがとうございます!
好きなネタは炙りサーモン、お寿司だいすき紀山康紀でございます。
ポケモンカードの転売増加に並々ならぬ怒りを覚えている今日この頃です。
ロケット団を許してはならぬ!!
そして俺はニンフィアVmaxのスペシャルアートをパックから絶対に迎えるんだ......!
先日、第0話なる話もこっそり投稿しました。そちらもよろしければご覧ください。
さて、今回は強歩大会なる行事のお話ですが、主人公・雪彦の過去について明かされるお話でもあります。
彼が語った昔話、いかがでしたでしょうか!
幼い頃の霞は可愛く描けていましたでしょうかね......?
小学生の霞も絶対可愛いよ。作者が断言するんだから間違いない。
最後の展開が急で中途半端なようですが、これはどうやら雪彦の遊び心のようです。
試合に勝ったのに、雪彦はなぜ剣道を辞めたのでしょうか?
その答えは後編で明かされますが、ちゃんとヒントは出してくれているようです。
ぜひ推理してみてください!(ウミガメのスープ的な話じゃないよ♡)
前編で語り過ぎても仕方がありませんので、詳しいことはまた後編で書かせていただきます。
ぜひ次の解決編をお楽しみに!アディオス!!