第9話「彩を見て、足元の薄墨色を知る」(台高祭④)
台高祭は2日目に突入。
未だ犯人が捕まらない怪盗事件に、台泉高校はなおもヒートアップする。
そんな中、突然現れた妹たちの文化祭見物に梁間は付き合うことになるが......
1
ー 台高祭2日目 10:00 ー 南校舎1F 化学実験室
こういう時、いやこういう時でなくても、ついつい溜息と共に口から出てしまう言葉がある。
......帰りたい。
日曜日ということもあって、来校者の数は目に見えて昨日よりも増えていた。客が増えた分だけ我々のような組織の末端の人間の仕事が増えるのだ。窓の奥で嬉々と歩く老若男女入り乱れる人の列が、倒れもがく俺の上に「仕事」と刻まれた鉛の重りを積み重ね、手足をジタバタさせてもがき苦しむ様を嘲笑う悪魔の群れにすら見える。清めの塩化ナトリウムでもばら撒いてやろうか。
台泉高校校舎1階の僻地に陣を構える化学部にも人の波は押し寄せ、一般展示が始まる時刻よりも前に化学実験室の扉を開けることとなったのである。
昨日、つまり化学部の台高祭初日は、有名人の登場や怪盗事件というイレギュラーもあって午前中こそ実験室が混みはしたものの、午後になってからは閑古鳥が鳴いていることの方が多かった。つまるところ何も起こらなければ、こんなへんぴな場所にある化学実験室に足を運ぶ客はいないのだと結論づけられる。
だから、事件もイベントも過ぎ去った化学部に客は来ないだろう。
そう思っていた時期が俺にもあった。
実際のところ俺の想像はことごとく裏切られ、小学生くらいの子供達が客としてワッと押し寄せてきた。キッズイベント状態になった実験室について、無料で楽しめる空間というのがこの台高祭では珍しいからだろう、とは我らが部長・日名川嬢の鋭い分析である。
俺の担当する”スライム作り”のブースも当然例外ではなく、日曜開店直後のポケモンセンターかというぐらい子供達が殺到した。ブースを一緒に受け持つ木田氏は朝から映画部の方へ行っており不在だったため、俺一人で多数の子供達の相手をしなければならなかった。あまりの忙しさに、下手したら進化して腕がもう2本生えてくるところだった。
スライムの色を決める着色料を毎回人数分用意するのが面倒だと思われたが、そこは無色を「クリアホワイト」と呼称することで小学生男子の食い付きを煽り、労力を最低限に抑えた。フッ、やはり子供は子供よ。我ながら超ファインプレー。今日の熱盛は俺で間違いない。
1時間で30人ほどの子供達がスライムが詰まったフィルムケースを手に笑顔で実験室を後にしていった。まあ1週間もすれば、きっとそのスライムは可燃とも不燃とも判断できないゴミに変容するだろう。それまでせいぜい遊んでやってくれ。
そんなこんなで密度の高い労働を強いられた1時間だった。実験室特有の硬い丸椅子に腰掛け、机の上に顎を乗せると机がひんやり冷たくて心地よかった。キンキンに冷えた缶ジュースに頬擦りするのと同じ原理だ。あわよくば通りがかりの美少女から冷えた缶を頸に当てられ、「へへっ、お疲れ!」と声をかけられたい人生だった。
幸い現在は客の入りも落ち着いており、軒山と談笑している客の女子高生数人の姿が視界にあるばかりだ。奴が許せない。
「僕は全くの無害です」といった顔で試験管を振りながら女子高生相手に饒舌を垂れている級友の方を呪詛に満ちた目で睨んでいると、ふと目が合った。左の口角を持ち上げて目配せしてくる軒山に、憎しみを込め、両手の中指を立ててみせる。
「何やってるの?」
そうやって目を闇に濁らせていると、いつの間にか俺のブースに客が来ていた。しかし聞き慣れた、親しみのある声だった。
指が立った両手をそのままに首をゆっくり左に回すと、今度は射抜くような鋭い視線と目が合った。
「兄さん、ちゃんと働いてるんでしょうね?」
中学指定の制服をキッチリ着た妹の霞が、竹刀袋を右肩に引っさげて腕を組み仁王立ちしている。片手には台高祭のパンフレット。
「......何しにきた。ここにはお前の求める物など何もない」
「昨日言ったでしょ、様子見に行くって」
そういえばそんな話もあった気がする。
「マジか」
「マジです」
しかしそうなると、もう一人の妹の姿が見えないのが気になる。
「みぞれは?......いや、あいつが日曜のこの時間に起きてるわけないか。どうせ家で腹出して寝てんだろ。もう食べられな〜い、とか間抜けな寝言でも言いながら」
持ち前の寝相の悪さでタオルケットを蹴飛ばし、パジャマから露わになった腹をぽりぽり掻きながら寝返りをうつ末妹の滑稽な姿を想像した。ハハッ、と薄笑いが溢れる。
霞は何も言わず、無言で俺の後ろを指差していた。なんだろう。不思議に思い、振り返る。
振り向いたその瞬間、バシッという音とともに顔面の痛覚に衝撃が走った。紙の束のような物を真正面から勢いよく叩きつけられた。
「ってえ!」
「誰がいつ、そんな風に寝てたって?ええ!?」
目を開くと、これまた腕を組んだ仁王が立っていた。
「......みぞれ。なんだ、お前も来てたのか」
黄色いTシャツの上に薄手のパーカーを羽織り、いつものホットパンツというラフな格好をしている。姉と同様にパンフレットを手に持ってはいるものの、姉と異なるのはそのパンフレットが丸められて筒状になっている点だ。
「ってか、雪兄ぃが白衣着てるし。ウケる」
「白衣が似合わないのは自覚しているが、みぞれよ、もっと楽しいことで笑えるようになりなさい。......霞、俺のでこ、赤くなってないか?」
「ああー......跡になってるわね。ぱっと見、痛そう」
「現に痛いんだよ」
まだ痛みが残る自分の額をさする。みぞれがケラケラ笑ったまま言う。
「それにしても雪兄ぃ、随分とヒマそうだね。ちゃんと仕事してんの?」
「今は一仕事終わって休憩してるんだ。嫌々と無難にそつなく働いてる」
霞は実験机に並ぶガラス器具や薬品を見渡し、「スライム作り」と書かれた画用紙でできた看板に目を留めた。ドラクエのモンスターの方の挿絵は軒山の手によるものだ。
「兄さん、ここでスライム作りの担当してるの?」
「まあな。お前らも作ってくか?スライム」
「雪兄ぃ、魔物を生み出す魔王みたいだね。とりあえずスライムってなんかキモいからいらない」
みぞれに一蹴される。キモいって言うな。
「私も遠慮しておくわ。持っててもその......アレだし」
霞は目を逸らして苦笑いしている。やっぱりそうだよな。スライムって手にした直後は割とテンション上がって結構遊ぶんだが、すぐ飽きるんだよな。その後の処理も非常に面倒なのでスライムは本当にモンスターなのだ。
「せっかく来たんだから、文化祭を楽しんでいけばいいさ。変な奴に絡まれないように気をつけてな」
そう言って右手でブンブンと追い払うような仕草をしていると、今度は霞の後ろから人影が現れた。
「梁間くんも一緒に行ったらええんでなあい?」
ひょこっと顔を出したのは、いつの間にそこに立っていたのか、日名川部長だった。女子中学生にしては背が高い霞の陰にいたので、全く気がつかなかった。小学5年生のみぞれと高校2年生の部長の背の高さは同じくらいに見える。
「やあやあ若い娘さんたちよ。私は化学部の部長をしている日名川灯という者さ。お二人さんは......梁間くんの血縁者で相違ないかい?」
下から覗き込むように霞とみぞれの顔を見上げながら部長はそう言った。
「ああ、はい。右が霞で、もう片方がみぞれです。それぞれ中3と小5です」
俺の紹介に合わせて二人が会釈をする。
「兄がいつもお世話になってます。長女の霞です」
「末っ子のみぞれでーす」
深々と頭を下げる霞とは対照的にブイブイ!と右手でピースをするみぞれは、歳相応の幼さを醸し出している。少し悪く言うならば賢そうには見えない、悪く言えばバカってところだろうか。しかし俺と霞はそれが演技だと知っているから、またみぞれの”悪い癖”が始まったか、という程度にしか思わなかった。
そんな梁間家独特の事情を知るはずもない日名川部長は顎に手をやり、ふーんと長く鼻を鳴らしながら妹たちを頭頂部からつま先までジロジロ観察したのち、ニヤッと笑い咳払いを一つした。
「なるほどなるほど......うん、やっぱり似てる。賢そうだ」
......「似てるね」も「賢そう」も生まれて初めて言われた。
俺が賢いかどうかはともかくとして、俺と妹たちは外見も雰囲気もまるで違う。髪の色こそ同じだが親戚からも父親が違うんじゃないのかとからかわれるほどで、地味な顔立ちをしている俺とこの美人姉妹とがきょうだいだとは誰も思わないだろう。酒が入った状態の母に言わせれば、妹たちは母親似、俺は父親似で、「残念」らしい。
それなのにどうして、日名川部長は似ているだなんて言ったのだろう。
俺が反論の弁に立ち上がろうとした矢先に部長は口を開いた。
「いやはや、こうしてせっかく妹さんたちが来てるんだ、梁間くんも一緒に台高祭見てくればいいさ」
続けて言う。
「もうすぐしたら木田君も映画部の方から戻ってくるだろうしね。子供連れが来たら私のブースを閉じて、私がスライムのブースに入るよ。だから化学部のことは気にせず、行ってきてええんやで」
あまりにテキパキ言うので、言葉を挟む余地がまるで無かった。
なんというか、「お前はいらない子だから好きに遊んできたらいい」という意味にも聞こえかねない言い方だが、部長が親切心からそう言ってくれていることは分かっていた。妹たちに連れ回されるのも大概だが、このままここで子供の相手をし続ける方が大変そうな気がする。頭の中の天秤が傾くのは早かった。
「そういうことなら。お言葉に甘えて行ってきます」
足に力を入れて、重い腰を椅子から剥がす。そうして立ち上がった俺の背をバンバン叩きながらみぞれが笑う。
「ちょっと雪兄ぃ、戦力外通告されてるじゃん」
「お前、そういうこと言うなよ。泣いちゃうだろ」
「そうよみぞれ。デリケートなことはもっとオブラートに包まないと」
「いやそういうことじゃないだろう。お前のオブラートは破けてるんだよ」
俺たちの会話を黙って聞いていた日名川部長が突然笑い出した。
笑いすぎて涙目になっているのを袖で擦りながら、言った。
「ああそうだ。梁間くん、化学部の宣伝と白衣も、忘れずにね」
2
ー 台高祭2日目 10:30 ー 1F 外 メインストリート
流石は天下の文化祭、台高祭。どこに行っても人、人、アンド人。
台泉高校は一足制を導入しており校舎内外の移動でいちいち靴を履き替える必要がないので、実験室からそのまま外に出る。俺たち3人はなんの真似かハンカチを振る日名川部長に見送られながら化学実験室を後にし、校舎と体育館の間に流れるメインストリートの日陰に移動した。もう9月だというのに日差しは強く、地球温暖化の影響を肌で感じられるくらいには暑かった。
「さて。お前ら、どこか行きたいところはあるか?」
白衣の袖を捲り、中に着ているTシャツの腹の部分で顔の汗を拭った。
校舎の造りに詳しいわけでもないし他の部活に顔が利くような交友関係も持っていないので、台泉高校の案内役が俺に務まるとは思わない。だがまあ、小・中学生で学外の人間である妹たちよりかはこの高校の生徒である俺の方が台泉高校については明るいとは思う。
「特に行きたいところがなければ家に帰るのもアリだ。みんなで帰ろう」
「ナシでしょ」
「なに馬鹿なこと言ってんの」
渾身の提案があっさりと退けられた。二人ともパンフレットのページをゆっくりとめくっている。ほーんとかふーんとか言いながら目を滑らせているみぞれとは対照的に、霞は気になった出し物が載っているページに丁寧な折り目を一つ一つつけているようだ。十中八九、食べ物を売っている団体だろう。折り目がついたページが時間の経過とともに増えていくので、俺は少し財布の中身が心配になった。
ふと、霞が肩から提げている竹刀袋が目についた。
「そういえば霞、お前なんで竹刀持ってきたんだ?」
「護身用に」
「あ、そう。それでお兄ちゃんを叩かないでね、痛いから」
そんな中、みぞれが両手を合わせるようにしてパンフレットを閉じて言った。
「あたし、将棋部行きたい」
「それはいいが......何故に将棋部なんだ」
「行けば分かるよ」
ニヤリ、と含んだ笑いを浮かべるばかりだった。
ロクな理由じゃあなさそうだが、まあいい。霞も黙って頷く。
「んじゃ、とりあえず将棋部に行ってみるか」
「2年6組の教室だって。ほら見てほらほら」
みぞれがパンフレットで3階の地図を強く指差し、俺の顔面に近づけてきた。開かれたパンフレットが両頬に当たっているのだが、さらにグイグイと押し付けられる。
「いや見えねえよ」
目指す将棋部は北校舎3階。
台泉高校の校舎を鳥瞰で見ると、カタカナの「エ」の字の形をしている。しかしながら渡り廊下が繋がっているのは2階より上の階からであり、1階で南北間を移動しようとすると一度外に出てぐるりと遠回りしなければならないのだ。我が校は一足制を採用しているので靴の履き換えは必要ないのだが、1階の南北間の移動が少しかったるい。
部室の鍵を借りること以外はあまり関わりがない事務室の前を通り、北校舎1階の廊下を進んでいく。北校舎の1階には事務室の他に保健室、図書室、それから食堂と購買があるばかり。平日の昼休みには昼食を求める生徒で賑わっているものだが、台高祭期間中は食堂も購買も営業しておらず、人の気配はほとんどなかった。外が騒がしかっただけに、この静謐な空間だけが現実と切り離されているかのような錯覚すら覚える。
図書館前を通ると、全面ガラスでできた両開きのドアの取っ手に「台高祭期間中につき休館」の札が頼りなくぶら下がっていた。司書の先生の都合か、もしくは外部の人間が出入りする可能性に問題があるのか。人がいないので中に明かりはなく真っ暗で、ガラス扉に自分の歩く姿が反射するばかりだ。墓場のような寂しさが漂う図書館前を過ぎて階段を上る。
馴染みのない高校の校舎が珍しいのか、後をついてくる霞とみぞれはキョロキョロと首を左右に振りながら歩いている。右手で竹刀袋の紐をギュッと握り、どこか物憂げな様子の霞が気になった。
「そんなに見ても驚くようなものは何もないぞ。コンクリートの入れ物って意味じゃあ高校も中学も、どこも変わらんさ」
黄味がかった壁をパンっと叩きながら、後ろの妹たちに聞こえるように呟いた。
「そういうものなの?」
「そういうもんさ」
抑揚のない霞の問いに短く答える。階段を上るにつれて、文化祭の喧噪が戻ってきた。遠くからギターかベースか、あとドラムもだろうか、怒号のような地鳴りのような音楽が響いてくる。みぞれが「うわ、うるさっ」と耳を塞ぐ素振りを見せる。
「言っとくとな、お前が高校進学で迷っていることは母さんから聞いてるぞ」
俺の歩みと共に左手が手すりを撫でていく。霞が驚きと諦めの表情を浮かべているであろうことは、振り返らずとも分かった。
今、霞には進学先の選択肢がいくつもある。
中学剣道で名を馳せている霞の元に、剣道の強化選手となることを条件にした好待遇の入学招致の話が県内外の私立高校から寄せられている。中には世俗に疎い俺でも知っているような高校の名前もあった。
夏休み中にフラッと家に帰ってきた母親からこの話を聞いた時は心底驚いた。霞の剣の才能を疑うことは無かったが、これほど影響力があるものかと舌を巻いた。
霞は迷っている。端的に言えば、家を出るか否か、でだ。
レベルの高い環境に身を置き”剣の道”を本気で志すのであれば、やはり家を出ることになるのだろう。
霞がどうして剣道を続けているのか、俺は知らない。剣の道から早くに外れた俺には考えも及ばないが、こうして選択肢が目の前にあるというのが、少し羨ましい。その才能が、羨ましい。
選択肢すら浮かばず、ただ惰性で目の前の道を歩き続ける俺とはえらい違いだ。
「お前がどこの高校に通おうと、俺は何も言わない。行きたいところに行けばいいさ」
「それなら」
「だけどな」
何か言いかけた霞の言葉を遮って、俺はゆっくりと続ける。
「どこに行ったって、霞は霞だ。高校なんてのは、多分ただの入れ物なんだよ。どこに行くかより、そこでお前が何をするのか、何をしたいのかが大事なんだと、俺は思うよ。知らんけど」
霞は何も言わなかった。自分のことを棚に上げてではあったが我ながらいい話をしてしまったので、若干恥ずかしい。偉そうに言っちゃったよ。
空気を読んでか読まずか、それまで黙っていたみぞれが口を開いた。
「じゃあ、雪兄ぃはなんでこの高校なの?何かやりたいことがあったんでしょ」
「そんなの決まってるだろ」
振り返って言う。
「早く家に帰れるからだよ」
3階といえば2年生の教室がある階だ。普通の1年生であればそこまで馴染みのある階ではないのだが、特殊な事情を抱えた一握りの1年生はその限りではない。例えば俺のような遅刻常習犯。この生徒指導室や職員室によく呼び出されるので、3階はもはや俺の庭と言って差し支えないと思う。今後もこの階の領有権を主張していきたい。
北校舎3階、西側にある2-6の教室にやってきた。パンフレットにある通り、将棋部の看板が立っている。看板といっても、生徒が普段使っている椅子の背もたれに将棋の駒を模した形のダンボールを貼り付けた簡素なものだ。「将棋部 〜挑戦者求ム〜」と書かれている。
「で、みぞれよ。何故に将棋部を所望した」
横に立っている妹に尋ねると、廊下に張り出されている将棋部のチラシを顎で差した。ポスターのサイズはB2.....いやA2だろうか。霞が近づいて読み上げる。
「『棋士よ、台高祭に集え!!将棋部のブースではフリー対局の他、将棋部員と対局ができるぞ!部員との対局に勝利した方には豪華景品をプレゼント!より強い部員に勝てば景品のランクも上がる!!キミは最強の部長に勝てるか!?』......だってさ」
「豪華景品か......」
みぞれがここに来たがったわけが分かった。豪華景品とやらをかっさらうためだろう。俺の呟きを聞くと、みぞれは満足そうに胸を張った。
「将棋するだけで金品がもらえるの。安いもんだよ」
言っておくがどこにも金品とは書いていない。というか景品を金品って言うのをやめなさい。
普段はバカっぽく振る舞っているみぞれだが、その実、能ある鷹は爪を隠すが如く、理解力が高く記憶力が非常に優れている天才だ。小学生ながら、難関国立大学の入試問題程度なら軽く解けてしまう驚異的な学力も有している。情けない話だが、俺が高校受験をする際にはみぞれに勉強を教えてもらったほどだ。悲しいかな、教え方が分かりやすかった。
天才だと自覚していながら、みぞれはその能力をなぜかあまり人前では出したがらない。小学校のテストで毎回わざと85点を狙って取ってくるような奴だ。
そんな奴が、豪華景品に釣られてホイホイとその才能の一端を高校の文化祭で発揮しようとしている。それが少し面白かった。
2-6の教室を覗くと、いつかテレビで見た将棋教室のような風景が広がっていた。向かい合わせで机をくっつけただけの卓に将棋の盤が据えられ、卓がそう広くない教室内に2列になってズラーっと並んでいる。同時に10組程度は対局ができるようだが、今は中高生4組が盤を挟んで向かい合ってるばかり。
受付役と思わしき短髪の男子生徒が教室後方の出入り口のところに座っている。みぞれを先頭に受付に近づくと、額にマジックペンで「飛車」の字を刻まれたその男子生徒が声をかけてくれた。
「こんにちわ、将棋部へようこそ。対局をご希望ですか?」
「ハイ!あたし将棋した〜い!!」
みぞれが右手を上げて声高らかに宣言する。ああ、またおバカ演技が始まったよ。
子供の相手に慣れていないのか、「飛車くん」は少し戸惑った様子だった。
「ええと。おねえちゃん、将棋できるの?」
「うん!お兄ちゃんとたまにやるんだ!ね、お兄ちゃん?」
「......まあ、うん」
演技に俺を巻き込むんじゃない。弱々しく答え、俺は目を逸らした。
「お兄ちゃんに勝てるようになりたいから、強い人と戦ってみたいの!......そうだなあ、ここで一番強い人と戦ってみたいな!」
受付の後ろにある黒板を、みぞれが一瞬チラッと見たのを見逃さなかった。その方を見ると、将棋部員に客が勝利した時の景品名が並んでいた。えーっと、部長、部長......。おっ、将棋部最強なのか。景品は......うん、QUOカードって書いてあるな。紛うことなき金品だ。
突然、最強格である部長と戦いたいと言い出す子供に「飛車くん」はさらに困った様子。いやほんと、うちの妹が申し訳ない。後で言って聞せますんで、ご勘弁を。
「うちの部長はすごーく強いんだ。多分、おねえちゃんじゃ敵わないよ」
「ええ〜!でもうちのお兄ちゃんもすっごく強いんだよ!お兄ちゃんより将棋が強い人なんてこの学校には絶対いない!そのお兄ちゃんにたまに勝てるんだから、私もそこそこ強いと思うんだ」
俺は将棋が強かったのか。
みぞれに勝てたことがないから気が付かなかった。
「なるほど、面白いね」
俺とみぞれを交互に見比べ怪訝な表情を浮かべる「飛車くん」の肩をポンと叩き、丸い縁の眼鏡が特徴的な男子生徒が横から現れた。額には「王」の文字。なんとなく直感でこの人が将棋部の部長だと分かった。背が高いが体の線が細く、ひょろっとして見える。
「ボクは将棋部部長の央岐。将棋部にも意地がある。お嬢さん、上には上がいるということを、ボクが直々に教えて差し上げましょう」
央岐と名乗ったその生徒はどこか含みをもった丁寧な口調でそう言うと、俺を一瞥してニヤリと笑った。
ああ、変なことに巻き込まれたなあ。
横の霞と目を合わせ、ついた溜息は同時だった。
ー 台高祭2日目 11:00 ー 北校舎3F 2-6教室
挑戦費100円が俺の財布から消えていった後、窓際の卓へと案内された。
そういえば、将棋部も例のすり替え事件の被害者だって昨日軒山の奴が言ってたな。
「部長さん。台高祭で起こっている連続すり替え事件、将棋部も何か被害にあってましたよね」
別に事件の解決に興味があるわけではなく、ほんの雑談のつもりで尋ねた。
「ああ。”怪盗トリック”と言ったかな。確かにうちの部もやられた」
「その名前を知っているということは、やっぱりメッセージカードが?」
「そう、ご丁寧にちゃんと残していきやがった。ちょうどこの机に」
そう言って央岐氏は将棋盤が置かれた机の上を人差し指でコンコンと叩く。
「俺が席を立った隙にクイ研のクイズ本が一緒に置いてあった。うちはここから飛車をやられたよ」
「王の御前で飛車取り、ってとこですか。見つけたのは先輩が?」
「ああ、ボクが第一発見者だ。何が目的でこんなことをしてるのかは知らないが、でもまあ予備の駒はいっぱいあるから取られてもそんなに困らなかったんだけどね」
左の口角を少し上げた表情を崩すことなく央岐氏は丸眼鏡を持ち上げ、肩を竦めてみせた。
将棋部とクイ研の事件か。後で軒山にでも教えといてやろう。恩は売れるときに売るもんだ、とは我が母の教えである。
「なんの話?」
霞が囁くように聞いてくる。
「ん......こっちの話だ。なんでもない」
みぞれと将棋部部長・央岐氏が卓を挟んで向かい合って席に座る。席はあらかじめ決められているようで、机の上には『挑戦者』と『将棋部最強・央岐』とそれぞれ文字が刻まれた木製の三角柱が置かれていたので、それに従ってみぞれは『挑戦者』側にいる。同じ列の他の机を見渡すと、同じような三角柱が各卓に据え付けられていた。......『将棋部のホープ・香川』『盤外戦術の申し子・桂木』...。それぞれ部員の通り名のようだ。......盤外戦術がどのようなものなのか、少し興味が湧いた。
俺と霞はみぞれの後ろに立って行方を見守ることにした。央岐氏はさも余裕がありそうに、対するみぞれは相変わらずバカっぽくヘラヘラと笑っている。
「お互いの持ち時間は1手30秒。先手と後手、どっちがいいかな?」
「じゃあ、先がいいでーす」
挑戦者であるみぞれが自陣に玉将を置いたところで、央岐氏は自分の飛車と角を取り除いて盤の横に置いた。
「あれ?あの駒は使わないの?」
横で霞が囁くように聞いてくる。俺も小声で答える。
「飛車・角の2枚落ちだ。相手がハンデをくれてるんだよ」
「みぞれが舐められてるってこと?」
「まあ、そういうことだな。あれは本来、上級者が初心者に将棋の勝ち方を教える時にやることが多い」
そうなんだ、とだけ言って霞は手元の将棋の本に戻った。「ご自由に読んでください」と注意書きが出ていた受付の横に置いてあった将棋の資料やら本やらの中から霞が手に取ったのは、初心者向けの将棋本だった。地頭は間違いなく良いのだが、将棋に限らず霞はこの手の駆け引きがあるボードゲームや勝負事にはとことん弱い。
相手の2枚落ちを目にしてもなお、まだみぞれは笑っている。
「あれれ〜?飛車さん角さん無くなっちゃったけどいいの?」
飛車さん角さんて。水戸黄門の助さん格さんじゃああるまいし。
央岐氏は三日月のような前髪を指でなぞり、丸眼鏡を指で持ち上げた。
「小学生と指すんだ、同じ条件では戦えないさ」
「ふーん。まあ、いいけどね。勝ったら景品はちゃんともらえるんだよね?」
「勿論。負けてもお菓子をプレゼントしてる」
「その言葉を聞いて、安心しましたあ!」
後ろ姿からもみぞれが纏う雰囲気が少し変わったのが分かる。と思ったら突然俺の方を振り返り、対局相手に聞こえない大きさの声で耳打ちしてくる。早口だった。
「あたし、これから多分3局指すことになると思う。霞姉ぇは2局目が終わってあたしが一言目に何か言ったら、”穴熊囲い”のページが相手に見えるようにしてあたしにその将棋の本を示して」
眼光がギラリと光ったかと思うと、目付きが獲物を狙う肉食獣のように鋭くなっていた。
久しく見ていなかったがこれは、みぞれの、本気の目だった。
言いたいことだけ言うと、みぞれは再び盤に向き合った。
「それじゃあ、よろしくお願いしまーっす!」
ー 台高祭2日目 12:30 ー 北校舎3F 廊下
昼時とあって、廊下を行き交う来校者の数は午前よりも増しているように感じる。人とすれ違う度に食べ物の匂いが香ってくるので空腹感を刺激された。
「いやあ、思ったより苦戦したねえ〜」
そう言いながら先頭を歩くみぞれは3枚のQUOカードを団扇にして首元を扇いでいた。
バカを演じつつも持ち前の頭脳で将棋部部長の央岐氏を華麗に3タテでスイープし、部長が小学生に倒されたことで変な空気になった2-6の教室を俺たちはそそくさと後にした。眼鏡がガクッとズレ、口を開けたまま虚無を見上げる央岐氏の無残な姿は、それはもう見るに耐えないものだった。
1局目。2枚落ちのハンデを背負った相手にみぞれが圧勝。
2局目。みぞれの申し出によりハンデ無しの対等な条件で指すも、みぞれが辛勝。
そして問題は、3局目だった。
「ねぇ、みぞれ。3戦目のアレ、どういうことだったの?」
「アレ?ああ、穴熊囲いのやつね」
みぞれが予言した通り、2敗を悔い、目つきをより鋭くした将棋部部長から3局目の誘いを受けた。
「ええーっ!もう差し手も全部読まれちゃってるだろうし、打つ手がないよ〜」などと嘯きながら両手を頭の後ろに回す。頭の後ろでこちらに合図を送る右手親指は完全に相手の死角になっていた。
先にみぞれから要求があった通り、「コンナ戦法モアルミタイヨ」と霞は”穴熊囲い”について書かれたページを広げたまま将棋の本を差し出した。演技が苦手な霞の動きはぎこちなく、発する言葉も宇宙人かアンドロイドのようだった。
扇ぐ手を止めることなくみぞれは淡々と答えた。
「2局目までは相手がある程度油断してくれるからスムーズに勝てる自信があったんだけど、2局負けて3局目ともなれば流石に油断しなくなるでしょ。だから罠を張ったの」
「罠?」
「”穴熊囲い”ってのは将棋の戦法の名前。防御を固める陣形なの。序盤はわざとその陣形を作るフリをして相手の指し手を誘導したってわけ」
なるほど。高度すぎて分からん。
「将棋部の部長さんには悪いことしたけど、大切なのは今、あたしの手の中にQUOカードが3枚あるってことじゃないかな」
「「いや、それは違う」」
まるでどこぞの王女様かのように羽団扇の代わりにカードを口元に当てドヤ顔で振り返るみぞれに、俺と霞の台詞が重なった。
3
ー 台高祭2日目 13:30 ー 北校舎3F 廊下
お腹が空いて力が出ない、などと出来の悪いアンパンマンのようなことを霞が宣うので、校内で目につく食べ物を昼食として買い与えていった。野口英世の残機がどんどん減っていく事実に恐怖し震え、閉じた財布をそっとポケットにしまう。今日くらいは今後の食費を気にせず好きに食べさせてやろうと思ったが、己の判断に若干の後悔を覚えた。
食べ物の匂いに次々と釣られていく霞に同伴しているとなかなか足が進まない。1マス進んで2回休みを延々と繰り返している気分だ。3階をぐるーっと一回りし、ようやく2階に降りる。
「あっ、あれ!霞姉ぇ、剣道部あるよ!」
チョコバナナを口から離し、みぞれが廊下の奥を指差す。俺が籍を置く1-8の教室の前に、「剣道部」と力強い筆字で書かれた大きな看板が鎮座している。3人で近づいてみると、どうやら「モグラ叩き」を催しているようだった。
剣道に生きる人間としての血が沸いているのか、入口から中を覗く霞がソワソワとどこか落ち着かない様子。
「気になるなら入ってみるか」
黙ってコクっと頷く霞を伴い、先陣きって教室の中に入る。勝手知ったる1-8の教室のはずだが、机や椅子といった調度品の類がすっかり片付けられているせいか、妙に馴染まない。教室のど真ん中に置かれた、段ボールを繋ぎ合わせて作られた大きな箱型の物体が客の頭越しに見えた。箱型の物体の上面には人がくぐれそうな大きさの穴が何個も空いており、これがモグラ叩きの装置なのだとすればこの穴からモグラが出てくるのだろう。
箱の周りを少し離れて取り囲むように客が立っており、俺たちもその見物人の群れの中に加わる。背の低いみぞれが見やすいように俺の前に立たせてやった。
「あの人がやるのかな?」
「そうみたいね」
みぞれの両肩に手をポンと置き、その後ろに霞が収まった。
挑戦者と思われる女子高生がシルクハットを被ったスタッフに案内され、先端にペットボトルを取り付けた竹刀を手に箱の前に立つ。彼女の後ろで「頑張ってー」と賑やかしを担っているのは、同じ制服姿から察するに彼女の連れだろうか。
すると突然案内役のスタッフがクルッと振り返り観客に向かうと、まるで演説でもするかのように朗らかなよく通る声で語り始めた。
「さあ皆さん!この度のチャレンジャーはこちらの現役J・K!ですよ〜!......おっとそこの剣道部員、静粛に。静粛に。女子高生って単語だけでいちいち盛り上がらないの!!」
観客が沸くのを確認し、シルクハット女生徒の軽妙な説明が続く。
「私たち剣道部の出し物はズバリ、モグラ叩きです!ルールは簡単!この箱の穴という穴から女子高生に叩かれたい剣道部員が次々と顔を出します!......Oh、まさに性癖の歪み!.....あ、ちゃんと面はつけてるのでご心配なく。とにかく、そいつらをお姉さんには竹刀でシバいてもらいたい」
どんなプレイやねん。
「ただし竹刀は縦振りオンリーでお願いします!シュシュっと振ってくれたまえ!それともう一点、うちの部員にとってはご褒美ですが薙ぎ払いや刺突は厳禁です!うちの部員が興奮します!
制限時間は1分間!さあ、準備はよろしいでしょうか〜!?」
挑戦者が緊張気味にコクっと頷くのを確認し、首から下げたストップウォッチを左手で握りしめ、右手に持ったホイッスルが口元に吸い寄せられていく。
直後、ゲームの開始を告げる甲高い音が鳴り響いた。
1分後。
挑戦した女子高生の記録は27人だった。これが多いの少ないのか、ご褒美と見るか見ないのかは俺には分からない。周りの観客からの暖かい拍手に迎えられ、挑戦者の女子高生は連れの友人達の元へ戻っていく。
その様子を笑って見送り、司会進行のシルクハットが双眼鏡を覗くような仕草で観客をぐるりと見渡した。
「さーて、次のチャレンジャーはどなたかな〜?君か......もしくはそこのおじ様か!?はてはて......」
キョロキョロと首を振っていたが、やがてその動きが止まった。こちらを見ている。
「ムムム!?」
俺の横に立つ霞を指差すと、その司会はシルクハットから肩まで流れる黒髪を揺らしながら大きい歩幅でズンズンと近づいてきた。
「オイオイオイ!そこのお嬢さん!その肩に提げているのはもしや、もしやマイ竹刀じゃああるまいか?さては現役剣道少女だなオメー!......よしっ、こっちに来たまえ!!」
「えっちょっ待っ」
「まあまあまあまあ!!大丈夫大丈夫〜!!私を信じて〜♪」
霞が何か言いかけたが、彼女に腕をガッと掴まれそのまま勢いよく前にズルズルと引き出されていった。俺とみぞれはその様子を口を開けて呆然と見守るばかり。
「はーい、司会の独断と偏見で次の挑戦者はこのお嬢さん、キミに決めた!行け、お嬢さん!」
「いや私は......」
新たな挑戦者の登場に観客が沸く。
「その背負ってるの、竹刀でしょう!?キミも剣道やってるんだね!?」
「まあ......」
「Foooooooo!!......よし!ならばよし!」
「いやあの......」
テンションが青天井な司会のお姉さんと霞のやり取りを共に見ていたみぞれが、隣で口を開いた。
「霞姉ぇってさ、こうやって目立つの苦手だったよね」
「そうだな」
俺たちの目線の先で耳を赤くしてたじろぐ霞が伏し目で必死に助けを求めていたが、俺とみぞれは目を逸らした。アーメン。
司会に言われるがままされるがままに竹刀袋を取り上げられ、代わりにモグラ叩き用の竹刀を強引に渡されその手にしている。
「でもまあ、大丈夫だろ」
渡された竹刀を握った瞬間、霞から羞恥が消えた。
目が鷹のように鋭くなり、殺気さえ感じられるほどに霞が身に纏う雰囲気が一変した。突如として周囲の気温が一気に下がったかのような。青白いオーラさえ見える気がする。凛、という言葉がふさわしいだろう。
「竹刀さえ持ってしまえば、あいつは強い」
フーッと長く薄い息を吐きながら身体の前で剣を構える妹の目には、もう俺たちは映っていないようだった。
「準備はオッケーね?......それじゃあ始めますよ〜!......1分間モグラ叩き、はじめっ!!」
お姉さんのホイッスルが再び鋭く音を上げ、教室中に鳴り響いた。
ホイッスルと同時に、箱の穴から次々と何かが顔を出した。面を装着した剣道部員の頭だ。しかし出てきた刹那、面を真っ二つに叩き割るのではないかと思うほど鋭い一撃をもった竹刀が襲いかかる。ビシィッ!と強かな音を鳴らした竹刀はすぐに引き上げられ、次に穴から出てきた別の面に向かって一直線に振り下ろされた。
まるで鞭で打つかのごとく竹刀を振っては戻し、振っては戻す。一定のリズムを刻み続けるその一連の動作が流れるように綺麗で美しく、そして疾い。それ自体が一種の芸術だ。時間が止まっているのかと思うくらい、1分間を永遠に感じた。
「......しゅっ、終了、終了〜〜!!!」
司会の声で霞は我に返ったようで、次の面に振り下ろそうとしていた腕を止めた。面に当たるか当たらないかギリギリの位置で、竹刀の先端がピタッと止まった。それまで静かだった見物客のざわめきが戻り、止まっていた時間が動き出した。
司会のお姉さんが手に持ったカウンターを確認する。
「お嬢さんの記録は......な、なんと62人!?新記録です!!!!」
見物客の間から大きな歓声と拍手が巻き起こった。喝采を一心に受ける当の本人は恐縮しきっていて、顔を真っ赤にして逃げるようにこちらに戻ってきた。隠れるようにそそくさと俺の背後に逃げ込む妹に、先程までの剣士の姿を見ることはできない。
「どうよ、思い知ったか!」
「なんでお前が自慢げなんだよ」
勝手に胸を張って踏ん反り返るみぞれの頭に、縮こまる霞に代わって手刀をコツンと落としてやった。
ー 台高祭2日目 14:00 ー
「いやあお見事お見事!参ったよ〜」
剣道部員たちが休憩に入ったため、剣道部のモグラ叩きは少しお休みするようだ。モグラを務めていた男子部員数名が箱の後ろから這い出てきて、頭に被っていた面を取って手近な長机に置いていく。「さっきの子の竹刀の音ヤバかったな」「おれ何かに目覚めそうだぜ」などと談笑しながらそのまま教室から出て行った。イベントが一旦終了になったことを悟り、それと同時にぞろぞろと教室を後にする客に続こうとしたところで司会のお姉さんに霞が声をかけられた。
先ほどまでのシルクハット姿とはうって変わり、それまで隠れていたポニーテールが顔を出していた。制服の胸元で首から下げた金属製のホイッスルと2つのストップウォッチがジャラジャラと揺れている。背丈は霞と同じくらいか。
「さっきの面打ち、本当に凄かった!あなた、相当振り込んでるね〜。これ、景品ね。良かったら持って帰ってちょ」
「あ、ありがとうございます」
どこにしまってあったのか、一抱えほどはある大きさの青っぽいサメのぬいぐるみを霞に押し付ける。黒く丸い目とノコギリのような歯が特徴的にデフォルメされており、いかにも霞が好きそうな可愛らしいデザインだった。
「キミ、名前は?」
名前を聞かれ、ギュッと抱いたままのぬいぐるみの陰から顔を見せて答える。
「......梁間です。梁間霞と申します」
「ほぅぇっ!?はりまぁ......かすみィ!?」
突然、素っ頓狂な声を上げて後ずさった。
「県トップ、全国大会常連!アナタがあの、梁間霞ィ!?」
「えっ、まあ......同姓同名でなければ、そうだと思います...」
「小学生の頃から少年剣道選手権大会ベスト4。県内はもちろん、東北に敵無しと言われる世代最強の女剣士。芸術とまで称されるその美しい剣筋から、人呼んで”流剣”。剣道やってて知らない方が珍しい!」
「はあ。そんな風に呼ばれていたのは初耳です......」
お姉さんの目が輝きを増していくのに比例して、霞の顔が赤くなっていく。流剣......ね......俺はかっこいいと思うぞ、うん。
俺と同様に蚊帳の外になっていたみぞれが手招きするので、腰を落として耳を貸した。
「霞姉ぇって有名人なんだね。雪兄ぃは知ってたの?」
「多少は、な。でもまさか、ここまで名を馳せているとは知らなかった」
霞が本気で竹刀を振っているところを久しく見ていなかったが、小学生だったあの頃からここまで成長しているとは思わなかった。舌を巻く気すら失せるほど、驚いた。
「梁間さん、来年から高校生よね!?是非うちの高校にきて剣道部に入ってよ!ね!!」
お姉さんはそう言うと霞の手を包み込むようにガッと勢いよく掴んで懇願した。下からすくい上げるようにお姉さんの手が来たものだから、抱いていたサメが発射されるように宙を舞い、そのまま悲しげに床に放り出された。霞はビクッと身体を震わせ、悲鳴にも似た声を上げる。そして目を逸らしながら苦笑いを浮かべ、絞り出すように言った。
「か......考えておき、ます......」
後から知ったが、先ほどの司会のお姉さんは剣道部の部長だったらしい。その後も辛抱強く霞に声をかけ続けた部長さんだったが、流石に諦めたのか疲れたのか、何やら用事があると言って教室から姿を消した。その隙に俺たちも教室を出たのだった。
「お疲れさん。随分と熱烈なラブコールを受けたもんだな」
「モテる女は辛いですなあ〜、ええ!?」
後ろから浴びせられる俺とみぞれのからかいに耳を貸すことなく、景品に頂いた大きいサメのぬいぐるみを抱きかかえ、長い後ろ髪と背負った竹刀袋を揺らしながら霞はズンズンと廊下を歩いていく。やがて教室からある程度離れたところでその足が止まり、手近な壁にぐったりもたれかかった。
「ハァ、疲れた......もう帰りたい......」
「助けられなくて悪かったな。とりあえず凄かった」
「カッコ可愛かったよ、霞姉ぇ!」
「そういうのいらない......何か甘いものが食べたい......」
「まだ食うのかよ。さっきたらふく食べただろうに」
「甘いものは別腹なの」
「その別腹に甘いものたらふく詰め込んでただろ」
妹の底なし胃袋に呆れつつ、チラと腕時計を確認すると時刻は14時を少し回ったところだった。廊下を行き交う生徒や客の流れは依然として活発で、2Fの中央広場の方からはどこぞのバンドの魂の叫びが聞こえてくる。......流石に本来の持ち場を離れすぎたかもしれない。
「悪いが、そろそろ化学部に戻らにゃあならん時間だ。ほら、これやるから後は2人で好きにしろ」
軽くなった財布からなけなしの1000円札を1枚抜き、両手が塞がっている霞の代わりにみぞれの手にそれを握らせる。
「雪兄ぃ、あんがと。お金をくれる人は良い人だ」
「いいか、くれぐれも変な奴について行くなよ。霞は食べ物に釣られそうでなんだか心配だ」
「人をなんだと思ってるのよ」
「まあとにかく、気をつけて帰れよ。俺も18時頃には帰れると思う」
「分かった。雪兄ぃも頑張って!」
「......兄さん、ありがとう」
「おう。じゃあな」
下り階段に消えて行く妹たちを最後まで見送ると、それまで隠していた疲れがドッと襲ってきた。元々人が多いところも動き回ることも得意な方ではない。台高祭なんて化学実験室で頬杖ついて呆けているだけの3日間になるだろうと思っていたものだが、どうしてこうなった。
昨日は怪盗、今日は妹たちに踊らされたってわけだ。......そういえば怪盗事件はどうなっただろう。軒山と倉橋あたりは面白がって調査を続けていそうだ。大した興味は無いが、妹たちへの話のネタぐらいにはなるかもな。
化学実験室に戻る道すがらそんなことを考えながら歩いていると、俺の前方不注意、トイレから突然出てきた男子生徒と鉢合わせしてしまった。
「......うおっ!」
「......あ、すいません。......って、なんだ、軒山か......」
制服に実験用白衣姿の男子生徒が二人向かい合うという、なんとも珍妙なシチュエーション。軒山壮一は右手で眼鏡を持ち上げて呆れたように言う。
「おいおい、なんだとはなんだい。梁間はきゃわいい妹たちと台高祭回ってるんだっけ?あれ?梁間の妹は?」
「もう帰ったよ。で、化学部の方はどうだ?まだ忙しいのか」
軒山は首を振る。
「いんや、お客さんならもうだいぶ落ち着いたよ。午前中がピークだったみたいだね。そのおかげで僕もこうして、お暇を頂けてる」
「ほう。で、そのお暇とやらでお前はここで一体何してるんだ?」
「いい質問だ。よくぞ聞いてくれた!」
制服の胸ポケットから黒光りするペンと紙表紙の手帳を取り出して俺に見せてきた。羽織っている白衣がトレンチコートのようにも見え、その雰囲気はまるで刑事か探偵そのものだ。
「例の連続怪盗事件を追っているのさ。昨日に続いて今日も怪盗が現れているのは、流石の梁間も知ってるだろ?」
「いや、初耳だ」
「マジかい......。世間じゃあこんなにも大騒ぎになってるっていうのに、疎いにも程がある。その勢いでそのうち出家でもするんじゃないの?」
「世俗に未練は無いが、髪を失うのは少し抵抗があるな。それで、昨日の事件、まだ続いてるのか」
昨日。
台高祭に出展している団体をターゲットにした”怪盗”が現れた。
同時刻帯に2つの団体から備品を盗み、盗んだ備品をもう片方の団体の元へ置いていく......つまり”備品のすり替え”事件が連続して発生。そして犯行現場には犯人が残したと思われる、”怪盗トリック”なる署名が入ったメッセージカードが残されていた。
俺たち化学部も既に被害にあっており、怪盗事件を面白がった日名川部長の命令で軒山と倉橋に俺を加えた1年生3人は事件の調査のために台高祭を奔走したのだった。
「次から次へと物盗りか、その怪盗様は相当おヒマなんだろうな」
「いや、逆に本業に追われてるわけだから、忙しいとも言えるんじゃないかな。怪盗ヒマ無しさ。そんなことよりも梁間刑事、これを見てくれたまえ」
軒山は先ほど取り出した手帳を開き俺に手渡してきた。渡されるままに片手で受け取り、開かれたページに目を落とす。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
〈1日目〉
●10:00~10:20
生物部 実験展示と縁日(南校舎1F 生物実験室)「ピンセット」
↑↓
軟式テニス部 フライドポテト(外1F メインストリート)「トング」
●10:30頃
化学部 実験展示(南校舎1F 化学実験室)「ビーカー」
↑↓
ラグビー部 ドーナツ販売(南校舎3F 2-4)「チョコレート」
●12:30頃(正確な時間帯は不明)
将棋部 将棋対戦(北校舎3F 2-6) 「将棋の駒(飛車)」
↑↓
クイズ研究部 クイズ大会(南校舎2F 1-4)「クイズの問題集」
(この間に新聞部が怪盗事件を記事で取り上げる)
●13:00頃?(正確な時間帯は不明)
バスケ部 ビンゴ大会(南校舎4F 3-2)「新品のビンゴカード」
↑↓
柔道部 女装喫茶(北校舎3F 2-5)「カチューシャ」
●15:00頃
ギター部 焼きそば販売(北校舎4F 3-8)「トング」
↑↓
バレー部 飲み物販売(外2Fテラス)「氷」
〈2日目〉
●10:30頃
美術部 作品の展示(北校舎2F 美術室)「筆」
↑↓
映画部 自作映画の上映(南校舎1F コンピューター室)「上映映画の販売用DVD」
●12:30頃
硬式野球部 チョコバナナ販売(北校舎3F 2-8)「チョコレート」
↑↓
バドミントン部 お化け屋敷(南校舎3F 2-1)「コンニャク」
〈メッセージカード〉
・すり替えられた物と必ず一緒に置いてある
・文字は手書きで、定規を使って筆跡が隠されている
・模倣犯の出現を防止するため、実行委員が回収している
〈怪盗スワップ〉
・犯人像が全くない
・犯行の瞬間を誰も目撃していない
・単数なのか複数犯なのかは不明
・動機が不明(愉快犯の可能性あり)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「これは......怪盗事件を時系列順にまとめたのか」
「ご名答。僕独自の情報網による聞き込み調査の結果さ。探偵は足で稼いでナンボだからね。これまでに起こった事件は大体こんな感じかな」
走り書きだが、相変わらず丁寧にまとめてある。にしても、今日の12時半の事件まで調査してあるのか。ついさっきのことじゃないか......怪盗に負けず劣らず、こいつも実は相当ヒマなんじゃなかろうか?
被害団体は運動部文化部問わずにバラバラ。パッと見たところ、現場や被害物に一貫性みたいなものは見当たらない。少し興味が湧いたので、話に付き合ってやることにした。
「一連の事件に何か手がかりになりそうな共通点みたいなものはないのか」
「うーん......強いて言うなら、犯行声明として現場に残されてた”メッセージカード”ぐらいかな。昨日、梁間も見ただろう」
確かに見た。化学部において、メッセージカードの第一発見者は俺だった。
「ああ。まあ、すぐに実行委員長殿に回収されちまったが」
「他の部ももれなく回収されてるみたいだ。模倣犯の出現を防ぐのが回収の目的らしいけど、ここまで事件が公になってる以上、秘匿性は随分と低くなった」
嬉々として語る探偵の考えが聞いてみたくなった。が、中央広場のステージから響いてくる騒音で会話どころではない。まったく......外でやれ外で!ステージ周辺の動線を完全に塞いでいる群衆と臓器を揺さぶるような重音に嫌悪感を覚え、軒山に移動を促す。広場から遠ざかるように歩き、話を続ける。
「軒山、お前はこの事件をどう見てるんだ?自分なりに推理してるんだろう」
「推理ねえ......そういうのは梁間の担当じゃないかと思うんだけど」
「そんなものを担当した覚えはない」
「ほう、そうかい。僕の見立てじゃあ、梁間は頭を働かせさえすれば、そこそこ切れる奴だと思うんだけどなあ」
「人間は脳の10%しか使っていない、みたいな理論がなかったか。それに照らして考えれば、使ってないところが働けば、俺もたちまち天才少年だ。そういう意味では、一概に間違いとも言えんかもな」
俺の軽口を鼻で笑うと、軒山は手帳の走り書きを順にペンで差した。
「とにかくだ。すり替えがあった事件現場を1組ずつ見ていくと、現場間の距離に差があるだろう。間の距離が一番遠いのが......ここ、昨日の最後、ギター部とバレー部の事件だ。北校舎の行き止まりから2F外のテラスまで結構距離がある。
しかも昨日の午後といえば、壁新聞部が号外を出したせいで既に怪盗事件が公になって怪盗探しに乗り出す探偵志願者が大勢現れた。怪盗に対する警戒値がピークになった衆人環視をかいくぐって2箇所から物を盗み、その上すり替えるんだから最低でも現場を1往復はしなければならない苦労がある」
軒山が言いたいことが分かってきた。先回りして、それを口にする。
「そんなことが単独でできるのは、それこそルパン3世なり怪盗キッドくらいのもんだろうな」
俺の意図を汲んだのか、ニヤリと笑う。
「僕もそう思う。この事件、犯人は少なくとも2人いる。複数犯だ」
手に持っていたペンを素早く動かし、手帳から『単数』の文字を二重線で消した。
「2人いれば、『それぞれの現場で物を盗んでどこかで交換した後、また現場に戻って物を置いていく』っていう手順で比較的楽にすり替えが完成できる。単純に考えて、一人でやるより労力は半分で済むね」
単独犯ではないだろうと薄々思ってはいたが、軒山がその裏付けを作ってくれたようだ。
「ヒマな奴が2人もいるのか。動機......というか目的はなんだろうな」
「根拠はないけど、愉快犯じゃないかな。台高祭っていう特別な時間に浮かれて妙な冗談を飛ばす人間がいても不思議じゃないさ。まあ、そこはとっ捕まえてから署で詳しく聞こうじゃないか」
そう話す軒山の声はいつにも増して弾んでいる。
「お前、なんだか楽しそうだな」
「そりゃあ楽しいさ。台高祭ってだけでも大イベントだってのに、そこに文化祭を揺るがす怪盗の登場して、全校あげての大捕物ときたもんだ。どのくらい遊ばせてくれるのか知らないけど、僕は踊らせてもらうよ」
意地の悪い笑みを浮かべて軒山は言う。こいつらしい文言だ。
「そうか。で、この後どうするつもりだ?」
「ちょっと行くところがあってね。ちょうど良かった、梁間も一緒に来てくれよ」
「どこに」
口元の笑みが、若干の苦味を帯びたものに変わる。開かれたままの手帳の一箇所を示して言った。
「美術部に聞き込みに行きたいんだ......多分、奥海さんがいるだろうから」
「さて、化学実験室に帰ろうかな。スライムが俺を呼ぶ声がする。聞き込み頑張れよ」
右手を上げて踵を返し、歩き出そうとしたところで軒山に肩を掴まれた。
「僕じゃ奥海さんに相手にされないの、目に見えてるだろ?梁間なら彼女と話ができるじゃないか。頼むよハリえも〜ん!」
なんと情けない頼みだろう。そんなことを言うくらいなら聞き込みなんてやめちまえ、と言いたいところだが、これはこいつの”やりたいこと”なんだろう。やりたいことが特に無い俺が、他人の”やりたいこと”を無下にするのは、梁間雪彦の道理に合わない。
観念して、溜息を一つついた。
「......まあ、客がいないのなら実験室に急いで戻る理由も無さそうだしな。後をついて行くくらいなら」
4
ー 台高祭2日目 14:30 ー 北校舎2F 美術室前廊下
美術室。
1年生は芸術系選択科目によってクラス分けがされており、奇数クラスは音楽、偶数クラスは美術を選択した生徒で構成される。1年8組に属する俺と軒山は週に一度、美術の授業の度にこの美術室を訪れているので不慣れな教室ではない。
入口の扉に「美術部 作品展示中」と細いボールペンの黒字で書かれた味気ないA4の紙が1枚貼られているだけで、その扉も世俗との一切の交わりを断ち何人の侵入を拒むかのように閉ざされている。本当に見せたいのか甚だ疑問だ。美術部のように展示をしている団体は他にもあるが、普通は客が入りやすいように扉を開けておくものだ。いや、もしかすると作品の劣化防止のために室温とか埃だとか光だとかに気を使っている結果なのかもしれない。ということは数千万円、いやそれ以上の値打ちがある歴史的絵画が収蔵されているのでは......?......美術品に詳しくないので分からないが。
この閉め切られた扉1枚が、台高祭の浮かれた雰囲気とはどこか距離を置いた落ち着きを訪問者に強要してくる。
「うっわ、なんか入りづらいなあ」
そう言葉を発するあたり、軒山も同じように思ったらしい。
「これじゃあ入れんな。帰るか」
「待て待て帰るな。ここまで来たら行くしかないだろう」
軒山は扉に手をかけると、ガラガラと音を立てて戸を引き、「失礼しまーす」と蚊が鳴くような声を伴って遠慮がちに中へ足を踏み入れる。仕方がないので観念し、俺も後に続く。
普段の授業で使用している机は教室の後方に全て片付けられ、広く空いたスペースの中心を囲むように大小様々なキャンバスが飾られている。パッと見た限り、抽象画のような作品がほとんどだ。絵画のジャンルを統一しているんだろうか。俺たちの他に客の姿は無い。
「あら、珍しいお客様ね。芸術に縁も興味も無さそうなのに、美術部になんの御用かしら」
教室に入って右側、黒板の前に据えられた長机の主に声をかけられた。俺や軒山と同じ1年8組の同級生、奥海由華さんだ。黒板の前、本来なら教卓がある位置に長机を組合わせたL字型のカウンターをつくり、内側に置かれた椅子に一人陣取り左手で頬杖をつきながらつまらなさそうに文庫本のページを片手でめくっている。彼女の背後にある黒板には紙に描かれた風景画が数枚ほど磁石で貼り付けられ、そして長机の上には鉛筆や筆といった絵画用品、美術関連の書籍や雑誌が雑多に並んでいた。これなら一目で美術部と分かる。
「や、やあ、奥海さん。お疲れ様」
「別に。疲れるようなことは何もしていないから」
軒山がにこやかに労ったが、一瞥もくれることなく手元の活字に目を落としている。
「美術部は奥海さんが一人でやってるのか。他の部員は?」
「貴方達も知っているでしょう、白鷺美樹。あの人が部長で、私が副部長。他に部員はいない」
白鷺美樹。......昨日の午前中、化学実験室に日名川部長を訪ねてやってきた。俺も一昨日初めて知ったが、帰国子女のモデルだかタレントだか、とにかく同じ台泉高校の生徒でありながら世間的に高い知名度とカリスマ性を兼ね備えた有名人物らしい。そういえば、芸術方面にも才能を開花させているみたいなことも聞いた気がする。
「じゃあ、白鷺先輩が描いた作品もここで展示されてるのかい!?」
白鷺嬢の熱心なファンである軒山は興奮気味に問いかける。この世にこれほど面倒なこともない、とでも言うように、奥海さんは長いため息を吐き出した。
「ええ、そうよ。好きに見ていけばいいわ」
「どうも」
「おい軒山、本来の目的を忘れてないか?」
「まあまあ、そう急ぐこともないだろうし、ゆっくりしていこうよ」
そう言って軒山は手近なキャンバスに近づいていった。いっぱしの鑑賞客のように、無言で腕組みをしてジッと一つの絵を睨みつけている。
軒山に倣って俺も芸術鑑賞を試みるが、うーむ......やはり分からない。判断基準が「上手いかどうか」なので、風景画や人物画は写真に近ければ近いほど凄く見える。「写真みたいですごいなあ」などという間の抜けた感想を抱くのが限界である。筆使いだとか色彩センスだとか、きっと俺の想像力では及びもしないような多くの技術が込められているのだろうが、なにぶん素人なのでその絵の価値が分からない。適当に筆で殴り描いたように見える抽象画に至っては自分でも描けそうな気がしてしまう。
白鷺美樹のスタイリッシュなサインが入ったそれらの絵の表面を視線が順に滑っていく中で、ふと1枚の絵が目に止まった。並んでいる絵の中、何故だかその1枚の絵だけが浮かび上がって見えた。
どこかの田舎を切り取った風景画だった。その絵に抱いた第一印象は、「ほとんど実写じゃん!」だ。高台の林......いや、山から見た景色だろうか、緑の木々の間から青々とした水田が遠方の山々まで広がっている。太陽が照り、水が張った田が鏡のように光をキラキラと反射しているのが印象的だ。稲の生長具合からすると初夏だろう。水面を漂う鴨も見つけた。よくよく見ると、赤や青の瓦で屋根を葺いた家々が点在しているのが分かる。この絵の中に、なんとなく懐古の情を抱いた。
「この絵、いいな」
柄にもなく、考えるより先に感想が言葉となって漏れ出てしまった。
「ふぅん。お目が高いと言ったらいいのか見る目がないと言ったらいいのか。お生憎様、それは私の作品よ」
いつの間に顔を上げたのか、奥海さんが無表情でこちらを見ている。
「残念だったわね、その絵だけは白鷺先輩の絵じゃないの」
軒山から聞いた話のせいで、てっきり美術部の展示は白鷺美樹の個展か何かになっているのだとばかり思い込んでいた。
「そうなのか。だが絵を描いたのが誰かなんて、俺はあまり興味がないな。俺の中じゃあ、ピカソの絵も5歳児の絵もあまり大差無い」
「梁間君、貴方、なかなか面白いことを言うのね。作品と作者は切り離して鑑賞されるべき、と」
別にそこまで深いことを言ったつもりはないのだが、俺が言ったのはそういうことかもしれない。
「少なくとも俺はそうやって見てるってだけの話だ。見る人間が見たいように見ればいいんじゃないか。俺は批評家じゃないし、鑑賞論を論じるつもりは毛頭ない」
改めて美術室の中をぐるりと見渡す。
「それにしても、人気者の作品が展示されてるってのに、随分と客が少ないな。というか、いないな」
特に返事を期待せずに呟いたのだが、奥海さんは文庫本を閉じて言った。文庫本には赤い布のカバーがしてあって、何を読んでいたのかは分からない。
「それは多分、見張り番の看板娘の愛想が悪いからでしょうね。実際、白鷺美樹がここで受付嬢をしていた時はお客さんで溢れかえっていたもの」
頬杖を崩すことなく、意地の悪い笑みを浮かべている。どうやら皮肉と自虐がお好きらしい。
「へえ、白鷺......先輩も受付とかやるんだな。派手な感じの人だったから、少し意外だ」
「といっても、ほんの一時だけどね。台高祭の間はほとんど私がここで見張り番をしてるの」
「見張り、ねえ。......見張りと言えば、例の事件、美術部もやられたんだってな」
例の事件とは言わずもがな、怪盗によるすり替え事件のことである。
「なるほどね。それが目的か」
「と、言うと」
「ここには事件のことを聞きに来たんでしょう。くだらない騒ぎにしてはわりあい盛り上がってるみたいだから。相棒の方はともかく、貴方は展示に一切興味がなさそうだもの。梁間君、貴方にそんな探偵じみた趣味があるとは意外ね」
なんてことだ、俺が積極的に行動していると思われるなんて心外だ!積極性から最も縁遠い生き物であることに自負すら覚えている俺なので、断固として否定する。
「別に事件に興味があるわけじゃない。俺はただの同伴者。探偵志望のそいつが事件解決のための聞き込みを放り出して絵にご執心なもんだから、仕方なく代わりに聞いてるんだ」
奥海さんのかったるそうな表情は変わらない。
「ああそう。まあ、今は暇だから少しくらいなら付き合ってあげる。それで、何を聞きたいのかしら?」
軒山の手帳に書かれていた内容を思い出す。
美術部が被害に遭ったのは確か、今日の10時半頃だった。同時にやられたのは映画部だ。
美術部は「筆」を、映画部は「DVD」を、それぞれすり替えられたんだったか。
「被害に気づいた時刻と、発見した時の状況を教えてくれないか」
奥海さんは目を瞑り、ゆっくりと、淡々と答えた。
「時刻は......そうね、10時40分頃。筆はこの机の上にあったはず。ちょうど白鷺先輩と交代して私が美術室に残る時間だった。白鷺美樹本人と彼女の作品を目的に来たお客さんが、この部屋にまだたくさんいた。10人くらいかしら」
10人は”たくさん”、か。同じ価値観を有するところに、俺は少し感動した。
「映画部のDVDが美術部の備品の代わりに残されていたと聞いたが、それはどのあたりに置いてあったんだ?」
俺の問いかけに反応して、彼女の細くて白い人差し指が右側に向いた。彼女がカウンター代わりにしている長机の端を指している。表紙を見てそれと分かる美術関連の資料が、少しずつ重なるようにして並べられていた。
「そこ。机の端に堂々と置いてあったの」
教室の入口からそう離れてはいないので、カウンター越しの美術部員と周りの客の目を盗みさえすれば、ここにひっそりとDVDを置いておくのはそう難しいことではなさそうだ。まあ、その衆人環視をかいくぐるのが一番難しいんだろうが。
「で、置かれていたDVDがこれ」
奥海さんが手に持っているのはプラスチックケースだ。渡されるがままに受け取り、手に取って眺める。
映画部で販売・上映している映画のDVDであり、『赤パンマンの逆襲 -Evolution-』という力強いタイトルと共に赤い海パンを身につけた男子生徒の躍動感溢れる写真が表紙を飾っている。
「映画部の部長さんがうちから盗まれた筆を返しに来てくれて。私もそのDVDを返そうとしたら、何かの縁だからそいつはくれてやる、って強引に押し付けられたの。本当にいらないから梁間君にあげる」
なになに......
あらすじ。赤パンで頭と秘部を覆うことで元気100倍になる無敵のヒーロー・赤パンマン。台泉高校の平和を守るため、迫り来る変態怪人たちと日々死闘を繰り広げる彼だったが、その戦いの最中、変態怪人ナメナメエ の攻撃から女子高生を庇った際に、彼の生命線である上下の赤パンが破れてしまう。自慢の赤パンを失い力なく全裸で立ち尽くす彼に、道行く女生徒から「露出狂」「変態!」と心無い罵声が浴びせかけられる。罵詈雑言の嵐の中で彼が見つけた新たな性癖とは......!?
あの映画部の連中、こんなものを作ってたのか。阿呆だ。
咳払いをひとつして、聞いてみる。
「犯人に心当たりは?」
「さあ。興味ないから」
なるほど、俺好みの回答だ。興味がないならしょうがない。
今度は奥海さんから、相変わらずの無機質な声で問いかけられる。
「梁間君は、もし犯人を見つけたらどうするのかしら?」
「さっきも言ったが、俺は犯人に特別興味があるわけじゃない。でもまあ......そうだな、有名人らしいし、握手くらいはしてもらおうかな」
「意外とミーハーね」
「次から次へと事件を起こす手腕と事件を完遂しようって意思は尊敬してるんだ。俺にはない能力と根性だ、憧れるね」
「憧れ、ね」
溜息をつくように漏れたその言葉で会話とも言えない会話がふと途切れ、美術室に似つかわしい沈黙が戻る。その瞬間、北向きの窓から差し込む光がより弱まり、変わらず机に頬杖をつく奥海さんの顔に影が差した。その横顔がこの空間の何よりも印象的で、儚げな笑みを浮かべる彼女自体がまるで一つの作品のようだ。刹那、室内の気温が少し下がったような冷たさを感じた。
何か声をかけるべきかと思ったが、言葉が見つからなかった。彼女が自身の言葉に何を思い、何を感じたのか、俺には知る術もないし理由もない。俺が踏み込む領域ではない気がした。
人をただの情報源としか扱っていないようで大変恐縮だが、とにかく、ここでの目的はすでに達成した。顎をさすりながら白鷺美樹作品にすっかり見入ってしまっている軒山の肩を叩く。
「おい軒山、そろそろ行くぞ。聞きたいことは聞いといた」
「えっ?ああ、うん。そうだね、そろそろお暇しようか」
散漫になっていた軒山の意識を戻し、背中を押して出口まで行く。ドラクエでこんなイベントがあった気がする。去り際に、奥海さんに別れを告げた。
「邪魔して悪かったな。奥海さん、やっぱり絵上手いな。それじゃあな」
「気にしてないわ。犯人が見つかるといいわね」
口ではそう言う彼女の声には、感情が微塵も篭っていなかった。
扉を静かに閉めて、俺と軒山は美術室を後にした。
5
ー 台高祭2日目 16:00 ー 南校舎1F 化学実験室
特設ステージとそこに群がる観客が道を妨げていたので一度外に出て迂回し、美術室から化学実験室へなんとか帰還した。一日身につけていた白衣にふさわしい、実験展示スタッフという本来の役割に戻る。化学実験室に足を運ぶ客はめっきり途絶え、たまにやって来る客も暇を持て余したうちの生徒か教師達くらいなもので、「はー」とか「へー」とか「ほー」とか言ってすぐに消えていくのだった。そういうわけかどういうわけか、俺の担当する”スライム作り”のコーナーには客は一人も寄り付かなかった。ありがたい。昨日今日と子供達が押し寄せ活気に溢れていた午前中の栄光は、今や見る影も無い。共にブースを切り盛りしていた木田氏は、映画部の本業のためしばらく姿を見せていない。俺は一人、割り当てられた実験机の前で椅子に腰掛け、時間が過ぎるのをただ待っていた。
スライムを詰めて持たせるために用意したカメラのフィルムケースは当初よりも数を減らしてはいたが、まだまだ在庫には困らなさそうだ。袋からそいつをひとつ取り出し、蓋を親指でパカパカ開け閉めして弄びながら校庭を眺めていると、気づいた時には展示終了の時間があと30分後に迫っていた。
今日の夕飯は何にするかな。帰りの買い物の必要性を判断するため、我が家の冷蔵庫の中身を思い出そうと思考を巡らせていた時だった。いつの間にか再び実験室を抜け出していたらしい軒山が駆け込んできて、机を挟んで俺と向かい合うように座って興奮気味に言った。
「また事件があったみたいなんだ!なんと今日3つ目だ!」
「そうか、良かったな。おめでとう」
野菜はまだレタスとキュウリが残っていたから、サラダはそれで済ませよう。あとニンジン......と確かジャガイモがあったか......?家にいるはずの霞に確認してみよう。
「室内楽部と剣道部がやられたらしい。15時前だってさ」
「そうか、良かったな。おめでとう」
ポケットからスマホを取り出し、霞に家の冷蔵庫の中身を確認してもらうための文面を作成すべく右手の親指を動かす。冷蔵庫の中にある食材を見てもらってもいいですか?......と。
「何をすり替えられたか、気になるだろう?」
「あーうん。そうだな、俺もそう思う」
霞からの返信は早かった。「人参、レタス、キュウリ、じゃがいも、ねぎ、ちくわが入ってる」......なるほど。そう言われてみれば昨日使ったちくわが余ってたなあ。残しておくのも嫌だし、どうしようか。そのまま食卓に出すか?
「ちょいちょい梁間さんよ、僕の話聞いてはります?」
「聞いてる聞いてる。この上なくすべからく聞いてるぞ」
よし、帰りに玉ねぎと豚肉とルーを買ってカレーにしてしまおう。ちくわもその中に入れてしまえば問題なく処理できる。ついでに明日料理する手間が省けるし最高じゃないか。なんだ今日の俺、最高に冴えてるじゃないか。
霞に礼を伝えてスマホをポケットにしまうと、目の前で軒山が不満げな顔をしている。
「どうした、何かあったのか」
「全然聞いてないじゃないか。スマホばっかりいじっちゃって、この現代っ子め!」
「残念ながら俺もお前も現代っ子だよ。で、怪盗事件の続きか?」
どうせもう客は来ないだろうし、展示終了時刻までの暇つぶしがてら話に付き合ってやることにする。俺が話を聞くらしいと分かると、軒山はわざとらしくコホンと咳払いを一つして、またしても手元の手帳を開き、事件の詳細を記したページを俺に見せてきた。相変わらず詳細にまとめてある。
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〈1日目〉
●10:00~10:20
生物部 実験展示と縁日(南校舎1F 生物実験室)「ピンセット」
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軟式テニス部 フライドポテト(外1F メインストリート)「トング」
●10:30頃
化学部 実験展示(南校舎1F 化学実験室)「ビーカー」
↑↓
ラグビー部 ドーナツ販売(南校舎3F 2-4)「チョコレート」
●12:30頃(正確な時間帯は不明)
将棋部 将棋対戦(北校舎3F 2-6) 「将棋の駒(飛車)」
↑↓
クイズ研究部 クイズ大会(南校舎2F 1-4)「クイズの問題集」
(この間に新聞部が怪盗事件を記事で取り上げる)
●13:00頃?(正確な時間帯は不明)
バスケ部 ビンゴ大会(南校舎4F 3-2)「新品のビンゴカード」
↑↓
柔道部 女装喫茶(北校舎3F 2-5)「カチューシャ」
●15:00頃
ギター部 焼きそば販売(北校舎4F 3-8)「トング」
↑↓
バレー部 飲み物販売(外2Fテラス)「氷」
〈2日目〉
●10:30頃
美術部 作品の展示(北校舎2F 美術室)「筆」
↑↓
映画部 自作映画の上映(南校舎1F コンピューター室)「上映映画の販売用DVD」
●12:30頃
硬式野球部 チョコバナナ販売(南校舎4F 3-1)「チョコレート」
↑↓
バドミントン部 お化け屋敷(南校舎3F 2-1)「コンニャク」
●14:30頃
室内楽部 演奏喫茶(北3F 2-7)「カスタネット」
↑↓
剣道部 モグラ叩き(北2F 1-8)「ストップウォッチ」
〈メッセージカード〉
・すり替えられた物と必ず一緒に置いてある
・文字は手書きで、定規を使って筆跡が隠されている
・模倣犯の出現を防止するため、実行委員が回収している
〈怪盗スワップ〉
・犯人像が全くない
・犯行の瞬間を誰も目撃していない
・単数なのか複数犯なのかは不明
・動機が不明(愉快犯の可能性あり)
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「そうだよ。僕の独自の調査によって、本日3つ目の事件の詳細が判明した。被害団体は室内楽部と剣道部で、おおよその犯行時刻は14時半から15時頃。すり替えられたものは使ってなかったカスタネットとストップウォッチだって」
剣道部か......霞たちと行ったのが確か昼過ぎの14時前だったと記憶している。霞のモグラ叩きが終わって部員たちが休憩に入ったあの後、怪盗に物を掠め取られたのだろうか。
「例のごとく、現場にはメッセージが残されていて今回も犯人の姿を見た人物はいないそうだよ。今のところ完全試合を継続中。これまたカードは実行委員長が直々に回収してるもんだから、有力な手がかりも情報も何もない、お手上げさ」
そう言って両手を挙げ、軒山は苦笑する。こいつは今回の怪盗事件をあくまで”イベント”として楽しんでいるだけであり、本気で怪盗をお縄に掛けようとは思っていない節がある。
軒山の手帳を、俺はしばらく眺めていた。ほんの数秒だった気もするし、もしくは10分以上が経過したかもしれない。ただ、しばらく目を落としていた。
怪盗の発生。物のすり替え。すり替えられた備品。残されたメッセージカード。奇妙な文字。皆無の目撃情報。
その瞬間、この台高祭で見聞きしたものが線で繋がった気がした。
.........なるほど、つまりこの事件はーー。
「怪盗の目的は知らんが、この調子なら明日も事件は続くんじゃないか?時効と言うにはまだ早いだろう」
「そうだね、その可能性は高い。怪盗がまた明日頑張るなら僕も頑張ることにしようかな。それともう一つ、面白い話が」
「なんだ」
「剣道部に現れたのは、どうも怪盗だけじゃないらしいんだ」
人差し指を立て、楽しそうに軒山は続ける。
「なんでも、スゴ腕の女剣士がどこからともなくふらりと現れたんだって。この世のものとは思えないほどの剣捌きを披露して、初日のデモンストレーションで剣道部部長が出したモグラ叩きの記録を大きく上回ったそうだ。三刀流だったとか斬魄刀の使い手だとか日輪刀を提げていたとか、いろんな噂が立ってるよ」
ああ、多分これ霞の話だな。もうそんな話が広まってるのか。随分と尾ヒレのついた噂を流しているのはジャンプ好きな男子だろうなと思った。
ここで俺の妹だと明かすのは簡単だが、そうすると後々面倒なことになりかねんな。黙っていよう。
「ほーそれはすごいなー」
などと適当な返事をし、押し付けられていた手帳を開いたまま返すとその場で軒山は腕組みして手帳と睨み合いを始めた。視線を軒山から実験室の入り口横の掛け時計に移す。もう少しで台高祭2日目がようやく終わるのだが、時計を見ていても針はなかなか進まないものだ。手持ち無沙汰で実験室をぐるりと見渡す。
いつの間にか最後の客も出ていったようで、化学実験室には化学部部員と手伝いの映画部部員が数人残ってるばかりだ。実験机の一角に固まり談笑する映画部勢の中に部長の木田氏の姿が見えないが、映画部は映画部で出し物をしているので、きっとそちらの片付けがあるのだろう。
日名川部長は正面の黒板前で何やら真剣な顔でスマホを弄っているご様子。人といる時はスマホをなるべく触りたくない、と表明している部長だから、この光景は珍しかった。
我らが化学部一年三人衆の一角、倉橋はというと......あれ?いない。
「なあ、そういえば倉橋の姿が見えないんだが」
「ああ、倉橋ならしばらく前から出かけてるよ。多分明日の準備じゃないかな」
ほう、初耳だ。
「準備?明日、何かあるのか」
「あれ、梁間は知らないの?倉橋は......」
何か言いかけて止まり、意地の悪い笑みを浮かべて軒山は続ける。
「......いや、言わないでおこう。本人が言っていないことを僕が伝えるのは良くないな。なーに、明日になればきっと分かるさ」
クックック、というこいつの笑い声がなんとなく癪に障るが、無理に問い質してまで知ろうとは思わない。
「まあいい。明日の数少ない楽しみにさせてもらう。ああ、あと軒山、お前メッセージカードの文章って覚えてるか?」
「もちろん。一字一句頭に入ってるけど。それが何か?」
「つまらん頼みだが、カードの文面を再現したメモかカードを作れないか?少し思いついたことがある」
「別にいいけど、何に使うんだよ」
「ちょっとな」
一日の疲れが欠伸となって表れると同時に、台高祭2日目の終了を告げる放送が流れた。腕を上に、座ったままうーんと背伸びをする。
長い一日だったな、と心底思う。
ー 台高祭2日目 17:00 ー
昨日に引き続き、有志団体がステージ上で漫才やら演劇やら踊りやらを披露する”夜祭”なるイベントが催されるそうだ。体育館へと向かう軒山たちとは反対に、俺の足は愛車の待つ駐輪場へと向かっていた。俺には俺の”野菜”があるのだ。
理科系実験室が集中する廊下を校舎西側出口の方へ歩いていると、曲がり角に差し掛かった時に体育館へ向かうらしい生徒がゾロゾロと階段を下ってきたところにかち合ってしまった。雑多な格好をした台高生の流れが狭い廊下に出来上がり、俺は曲がり角の手前で停滞を強いられた。急流に逆らって進む魚に俺はなれない。手近な柱によりかかり、コンクリートの硬さを背で感じながらその様子を見守った。
皆、楽しそうだった。見よ、これが青春だろうと言わんばかりに若い活力を振り乱し、彼ら彼女らは一人一人が輝いて見えた。自分の足元の影に視線が落ちる。
自分には何もないから、羨ましいのだろう。才能も無ければ興味も持てない。何も楽しいとは思えない。
だからせめて、才能ある人間のために尽くしてみようと心に決めて生きてきた。その方が、人類の文明にとっても都合がいいだろう。自分のことは後回しだ。
だが、少しだけ気になる。
知りたい。知りたいとは思うのだ。彼ら彼女ら、青春を謳歌せし者たちが見ている景色を。
お邪魔しない程度に、その景色を影から少し覗く程度のことは許してもいいのではないか。
やがて行列が体育館に吸い込まれて人の気配が校舎から消え、日没と共にあたりはすっかり闇と静寂に包まれていた。先週まで聞こえていた蝉の声さえもう聞こえない。校舎の外に心許ない外灯の光が見えるばかりだった。
ふーっと長い息を吐き出し、スマホを取り出す。簡潔で淡白なメッセージを作成し、送った。相手は日名川部長だ。
部長から「OK」という返信が来るのに、そう時間はかからなかった。
6
ー 台高祭3日目 7:25 ー 南校舎1F 化学実験室
長かった台高祭も、ようやく最終日だ。
午後からは曇りだという予報だが、早朝昇りかけの太陽はフルスロットルで地上を照り尽くし、やはり朝から気温が高い。自転車の下で、刻一刻とアスファルトに熱が蓄積されていく。化学実験室の風通しの悪さはこの夏で嫌という程身にしみて感じているので、今日は100円ショップで買った扇子を持参している。
展示準備のために化学部部員が日名川部長に指定された集合時間は8時。普段は「遅刻上等」の御旗を掲げて登校しているこの俺が、集合時間より30分以上も早く来ているのにはもちろん理由がある。
事務室で化学実験室の鍵を借り、誰もいない実験室を解錠する。黒板の落書き、実験用の暗幕、机の上の精製水。昨日の帰り際に見たのと何一つ変わらない光景が、逆に新鮮だった。この戸を誰かに先んじて開けるのは初めてだと思う。
台高祭期間は荷物置き場として利用している隣の講義室に大して荷が入っていない肩掛け鞄を置き、準備室のロッカーから白衣を取り出し小脇に抱え実験室に戻る。この3日間で愛着が湧いた実験机の上に白衣をぶっきらぼうに放って実験室内全ての窓を全開にした後、手近な椅子に腰掛け、青空を切り取った四角い枠の中を流れる雲と共に目的の人物を茫然と待った。
長い欠伸が止まらない。本能が早朝という時間を拒絶している。
ダックスフンドのような形をした雲の動きをぼんやり眺めていると、指定した時間ぴったりに、その人、日名川部長は現れた。なぜか白衣を既に着ている。
「あらら、これまた随分と早くいらっしゃったこと。梁間くんに朝日は似合わないね〜」
「全くです、慣れないことはするもんじゃない。早起きしたせいで今日は少し調子が良いんですよ」
一見すれば小学生に見紛う小さな制服姿が軽い皮肉と共に実験室の扉を引いて入ってきた。肩に掛けていたクリーム色のトートバッグを正面の机の上に置くと、その机の上にスッと浮くように腰を乗せて脚を組む。なんとも行儀が良くない。
「で、私をこんな時間に呼び出したワケを聞かせてもらおうか?」
口角が上がって口元が三日月のように釣り上がり、ニヤリと笑っている。普段クリッとしている大きな瞳はより黒々とし、見ていると吸い込まれそうな魔力のようなものを感じるのだ。
この人はいつもそうだ、何か企みがある時はこんな笑顔をする。これから俺は、この笑顔に戦いを挑む。
「何か私に言いたいことがあるんじゃあないかい?ああ、もしや愛の告白かしら!やだ、ドキドキしちゃうわぁ!」
「部長」
俺は立ち上がった。日名川灯の茶化す言葉を遮り、静かに口を開く。
「お話......いえ、聞きたいことがひとつ、あります。......例の怪盗騒ぎの件です、と言えば、何か察しがつきますか?」
「へえ。面白い話なら歓迎だよ」
部長は笑顔のまま、俺に続きを促した。
どうも!おばんです!ここまで読んでいただきありがとうございます!
紀山康紀でございます。
文化祭騒動編も4話目になりました。いやあ長いですね。
今回は妹たちと文化祭見物でした!妹たちのスキルの一端が垣間見える回です。
次回は、ここまで見聞きした情報をもとに梁間の推理が炸裂します。
皆さんも怪盗事件の真相を推理してみてはいかがでしょう。
次の投稿は、僕がポケモンカードに溺れていなければ明日2020年12月28日24時前後を予定しています。
お時間があればまたお付き合いください。
それではまたすぐにお会いしましょう!




