不穏な夜
昨夜もろくに眠れなかった。一体、何の騒ぎだというのか。私は現実には無いであろう音を、ここ一か月半にわたって毎晩聞かされている。
それは、どうしようもなく例えようがない、世界中の不快という不快を集めたような奇怪な音だ。
今から三週間前、ちょうど音が聞こえ始めてから数日といった日に、ついに私は耐えられなくなって外に出た。時間は午前一時前といったところで、繁華街にほど近い私の家の周辺には、田舎でありながらまだまだうろつく人影は多い。
しかし、その日は週末だというのに出歩く人は誰もいなかった。真夏の生暖かい夜の空気が寝間着姿の私を非現実へと誘う様だった。私は、この人ひとりいない世界に恐怖を感じ、探索を諦め家へと戻ったのだった。
私はこのことを未だ誰にも話していない。今もきっと真夜中の十月市の町には誰もいないのだろう。それが、私の家の周辺だけなのか、隣町の学校周辺にまで及んでいるのか、それともこの世界すべてがそれに巻き込まれているのかは、わからなかった。
―――少しでも睡眠を摂りたいとわがままをいう脳を、冷水で顔を洗うことによって覚醒させる。真夏の水道水はぬるくて仕方ないので、洗面台に氷をいくつも浮かべて顔を洗う。背筋がぞくりとして、どんよりとした熱のこもった体を少しだけ冷やした。シャワーを浴びたいところだが時間がない。元々朝に弱い私はここ一か月と少しの怪音によって一層朝が嫌になってしまった。しかし、学生は学校に行かねばならない。それは四年前に死んだ父親との約束でもある。約束は果たさねばならない。それが死者との間で交わされたものならば尚更。そして、そうしなければ、私は私の平穏を保てないような気がしているのだ。
簡単に身支度を済まして町に出る。朝は比較的涼しい。が、はっきり言ってこの猛暑は異常だ。私はこの町で生まれこの家で17年を過ごしているが、こんな暑さは初めてのことだった。この暑さもあの怪音と関係があるのかと考えたが、すぐにかぶりを振って予想を打ち消す。私は、あの音に心底辟易しているが、同時に絶対に関わらないと決めている。
私の顔色が酷いのか、先ほどからちらほら見かけるクラスの知り合いからは声を掛けられない。目は合うのだが、気まずそうに逸らされてしまう。少し前までは心配してくれる友達もいたのだが、最近では気味悪がって昼食を共にしようという声も掛からない。サンドイッチを食べてすぐ机で眠りについてしまう私にも問題はあるのだが、少し寂しい気もした。まあ、同じ学校のクラスメイトなんてそんなものだろうと諦める。友人というものは、追えば逃げていくものなのだから。
校門をくぐると、「魔夜さん」と私を呼ぶ声が掛かった。振り返ると、そこには目の醒めるような赤髪の、これまた目を惹く可憐な容姿の少女がに微かに笑みを浮かべて立っていた。こんな目立つ容姿をしていて、尚且つ私が彼女と知り合いならば、わからないわけはないのだが、私や他の生徒たちと同じ一里塚学園の制服を着ているのに、この少女は全く見覚えがなかった。私が戸惑っていると、少女は微かに笑った顔のまま、「あ、あたしのことわからない?わからないんだね。そっかあ。自己紹介するよ。あたしの名前は■■■。あなた――魔夜冬子とは同じクラスで、結構仲のいい友達よ」と言った。
仲のいい友達にしては初対面のような自己紹介だったが、それが腑に落ちた。彼女は■■■。私の中学からの同級生。気の置けない間柄で、こんな私にも声を掛けてくれる貴重な人物。
「ごめんなさい、■■■」私はすぐに彼女に謝罪した。
「最近疲れてて、ぼけっとしてたみたい」
「そうみたいね。体も所々ほつれてるし、そのうちいなくなっちゃいそうだわ」
「ええ、そうなの。だから、あなたのことも一瞬わからなくて。本当にごめんなさい」
「いいのいいの。困った時はお互いさまよ。私こそ、いつもありがとね。御馳走さまです」
■■■は人の良さそうな笑顔を見せて、先に校舎へ入っていった。入っていった先は私たち生徒の使う正面玄関ではなく教師用の別の入り口だったのだが、私はそれを気にしなかった。不思議と、彼女と話したことで私の中に蓄積された疲れは霧消している様だった。私は、校舎へと向かった。
始業ベルの鳴らない教室は朝だというのに騒がしい。クラス全体は大人しいはずなのだが、問題はあの二人組だった。
―――木船そよぎと神庭曉。この進学クラスにおいて、異端とされる二人組。
私の学び舎では、生徒は入学の際に進学コースと部活動コースという二つに分けられる。受験の段階で試験問題が別々になっており、進学コースは難易度が高く、部活コースは難易度はそれほど高くないが、原則として必ずどれか一つの部活に入らなければならないと決まっている。伝統的に、一里塚学園の進学コースの人間は運動ができなくて勉強だけが飛び抜けている人が多い。そして部活動コースはその逆である。そんな中、この二人の女生徒は学年一位と二位を争う頭脳の持ち主であり、それでいて義務でない運動部に所属しており、それぞれ所属する部の部長たちなのであった。実力も折り紙付きで、確か弱小ほどではないにしろ燻っていた剣道部を県大会優勝まで導いたという。確か、剣道部は神庭の方だったか。とにかく、類稀なる才能を持つ二人ではあるのだが、その仲は険悪極まりない。端から見れば似た者同士のような二人はお互いを強力なライバルとして認識しており、視線がぶつかる度にこうやって喧嘩をしているのだった。
「――きみは本当に仕様のないやつだな。ああ言えばこう言う、という言葉は君の為にあるようなものだ」
呆れたように大げさに溜息をついたのは神庭曉。煤色の髪は肩口でバッサリと小気味よく切り揃えられていて、意志の強そうな瞳をぎらつかせながらまなじりを釣り上げて相対する少女を睨んでいる。
対して、
「――それはそよぎちゃんのセリフなんだけどな。アンタって女の子たちには人気があるらしいけど、それって魅力に乏しいってことでしょ?そんなオジサンみたいな話し方してるから男も寄ってこないのね。かわいそーに」
神庭曉の声がどこまでもよく通るアルトなら、木船そよぎの声は砂糖菓子のごとく甘いメゾ・ソプラノ。赤みがかった長い髪をツーサイドアップにし、潤んだ瞳はリスやモモンガなどの小動物を連想させる。男性なら思わず守ってあげたくなるような容姿をしているが、その実警視総監の一人娘で柔道の有段者である。
「は。この口調のどこが悪いのだが私にはわからないね。私は妄りに多数の男子生徒を誘惑したりはしたくないからな。節操無しのきみと違ってな」
「うふふふふ」
「ははははは」
バチバチと睨み合う才媛二人。周囲の人間はもともと内向的な奴らばかりなので我関せずを決めている。私はというと、二人ともに親交が薄いので、やはり関わらないことにする。何にせよ、このパワーの塊のような女たちに構うには、圧倒的に精神と肉体のエネルギーが足りないのだった。という訳で、席についた途端眠りこける。今すぐに眠りに落ちるぼやけた視界には、本来なら隣の席にいるはずの■■■は映らなかった。
第一話 不穏な夜 了