記憶を失った彼
ある時を境にして、彼は私を避けるようになった。理由は分からない。始めは気のせいだと思ってた。
でも、日が経つごとに気のせいは気のせいではなくなり、確信へと姿を変えた。
中学三年生に上がると、会った時に一言、二言しか話さなくなるほど距離は離れていた。
季節は巡り、受験が迫ってくると、お互い会っても素通りするようになった。
私は第一志望の高校に見事合格し、期待と不安を胸に抱えて入学式へと向かった。
入学式が始まりこの高校の校長、生徒会長だったりと色々な人達が壇上に立って話をしていく。
とりわけ面白い話ではなかったので聞き流すことにした。
不意に会場がざわめく。
私の前に座っている女の子達がひそひそ声で話し始める。
「ねえねえあの人が主席の? ちょっとカッコよくない?」
「えー普通でしょ。あれぐらいの男ならそこらにゴロゴロいるよ」
「またまた〜素直に言いなさいよー。カッコいいって」
「思ってもないことを言いたくありませんー」
へー主席の人ってどんな人なんだろ……。
私は壇上の方を見つめる。
そして思わず自分の目を疑った。
「嘘でしょ……」
ほっぺをつねってみる。──痛い。
どうやら夢ではないらしい。でもどうして彼がここに?
「生徒会長よりご紹介にあがりました、新入生代表の凪乃青です。まさかこの壇上に上がって話せるとは思っても見なかったので、正直驚いております。さて、話は変わりますが……」
それから彼は三分ぐらい話し続けた。ハッキリとした口調で。思わずうっとりしてしまいそうな心地良さげな声で。
彼はこんな感じだったのだろうか? 長らく彼とまともな会話をしてないからあれだが、根暗という言葉が良く似合う、ボソボソと喋るような人であったはずだ。
そんな彼に私はいつも構っていた。なんというか放っておけなかったのだ。
休日には彼の家で遊んだり、外で遊んだりもした。相変わらずボソボソと喋るのは変わらなかったが、学校では見られない屈託のない笑顔にドキリとしたりもした。
昔とは変わった彼の姿を見て、私は何かで殴られたかのような衝撃を受けた。
あぁ……更に遠くに行っちゃう……。
……嫌ッ……! そんなの嫌! 行かないでよ…………青くん……。
◇◇◇
入学式が終わり、新入生のクラスが書かれている紙を確認する。
入学式前日、紙が送られてた。そこに書かれているのは自分のクラス。しかしそれだけで、同じクラスに誰がいるかまでは書かれていなかった。
【一年一組】
春風琴美
「一の一ね……」
男子の方も見てみる。無論、彼がどこのクラスにいるか知るためだ。
誰に聞かれているわけでもないのだが、口には出さず、心の中で彼の名前を言いながら視線を巡らせる。
凪乃青
【一年一組】
世界が一瞬止まったような気がした。心臓が早鐘を打ち始める。無性にトイレに駆け込みたい気分になり、走ると、誰かにぶつかった。
「す、すみません!」
必死に頭を下げる。
あー入学早々何やってんだろ私……。穴があったら入りたい。
相手の顔も見ず、私はトイレへと逃げ込んだ。
扉を閉め、鍵を閉める。
ハァハァと息を洩らし、肩で息をする。
ようやく落ち着いてくると、一際大きい溜息を吐いた。
さっきぶつかった人に絶対、変な子って思われたんだろうなぁ。彼がいなければ……彼がいなければ、こんな恥ずかしい思いをしないで済んだのに。
いや、悪いのは私だ。
彼は何も悪くない。
人に罪をなすりつけるのだけはやめよう。
頬を叩き、気持ちを切り替える。
「よし! ファイトだ私!」
ありふれた言葉。
しかし、言ってみると意外に清々しい気分になれる。
まずは彼に話しかけてみよう。うん、それがいい。私ならできる。
自分の意識を鼓舞させるために、両手の拳を丸くして、うんと頷く。
私は彼のいる教室もとい自分の教室へと向かった。
◇◇◇
彼の周りには数人の女子が取り囲んでいた。とても盛り上がっているようで、私の入り込む余地などどこにもない。
仕方ないので自分の席を確認し、座った。
「なになにー失恋でもしちゃったのかな〜。これから高校生活が始まるっていうのに暗い顔してんのさ。ほら、スマイル♪ スマイル♪」
そう言って私の目の前に立つ女の子。
亜麻色のショートヘアとくりくりっとした眼は彼女の性格を体現しているようだった。
でも、私ってそんな暗い顔してたんだろうか?
「うん……ありがと」
「いいっていいって。私の名前は早見鈴。これからよろしくね!」
手を私の前に差し出してくる。──握手を求めているのだろうか。
早見さんは私に笑顔を向けている。
悪い人ではないだろう。
差し出された手を私は握った。
「私は、春風琴美。こちらこそよろしくね、早見さん」
「固い固いー。ダメだよーことみん。りんでいいよ♪」
こ、ことみん!?
初めて呼ばれたあだ名に思わず目を見開く。
生まれてこの方、春風か琴美のどちらかでしか呼ばれたことがない。
ことみん……か。
あだ名を脳内で何度も反芻させる。
とても響きがよく、まるでゆったりとした波の音を聞いているような感覚に陥った。
「うん、りんちゃんって呼ぶね」
「よし、合格! あ、それでさーことみん。ほら、あそこの席の人! 名前はー」
「……青くん」
りんちゃんが指差しているのが誰か分かると、私は俯いて彼の名前を呟いた。
「へーせいくんっていうんだ。なになにことみん知り合いなの!?」
ややあって、無言で頷いた。
「そーなんだ! 幼馴染とか!?」
「うん、小学校から一緒。でも……」
「でも?」
「ううん、別に。一緒なだけでそんなに親しいってわけじゃないよ」
「ふーん、ことみんとせいくん釣り合いそうなんだけどなー。そうだ! 告白! 告白しちゃいなよ!」
「えー出来ないよー」
「絶対ことみんならいけるって! だからしよ、ね?」
私は頷くことが出来なかった。告白しても振られるって分かっていたかもしれない。
彼は近くにいるようで、遠くにいる、月みたいな人。
気付いたら遠くにいて、手を伸ばしても届かない。
その度に思い出すのだ。
幼い頃、彼が私に向けてくれた笑顔を。
顔を上げて、私は彼の方を見てみる。
依然として女の子と楽しそうに話している。明るい笑顔を振りまいて。
けど、なんか違う。あの時の笑顔とは……。
今の笑顔は作っているみたいな気がする。
仮面を被って内に秘めた本当の表情は隠して。
どうして──。
どうして彼は仮面を被っているんだろう。
何があってそうしなきゃいけなくなったんだろう。
知りたい。
たとえそれが残酷な出来事を招くことになっても。
──私は知りたい。
◇◇◇
放課後。
私はなんとか彼を、凪乃青を呼び出すことができた。
「それで話って?」
少し冷たさを帯びた視線が私を射抜く。
同時に風が吹き、私の肌を撫でる。
もう冬は過ぎて暖かくなってきたというのに、その風はとても寒かった。
「……青くん。私のこと覚えてるでしょ? 同じ小・中学校なんだけど……」
「ごめん、覚えてない。話ってそれだけ?」
「う、うん……」
彼に対しての問いかけは、彼のあまりにも無慈悲な一言によって、一刀両断されてしまう。つづく彼の言葉に私は言い返すことができなかった。
「それじゃ」
「ちょ、待ってよ!」
別れを告げて立ち去ろうとする彼。ショックで身体がよろけそうになる。足に力を入れ、堪え、私は彼を呼び止めた。
彼の足がピタリと止まる。
振り向く彼に漂う雰囲気はもう関わるなといわんばかりのものだった。
私は反射的に後ずさりしてしまう。
ぐっと歯をくいしばり、後退するのをやめた。
負けるな。
負けちゃダメだ!
「本当に私のこと。覚えてないの? 昔。一緒に遊んだことも? たくさんたくさん遊んで。いっぱい思い出作ってきたよね? ……それも全部……忘れちゃったの……?」
言葉の切れ目切れ目に一息入れる毎に目が滲む。
袖で拭うも次から次へと溢れ出て、止まらない。
滲んだ視界で、彼の表情は読み取れないが、声だけは嫌にはっきりと聞こえた。
あぁ、と。