クラシカルローズ~薔薇の淑女~
――ぐしゃりっ
掌の中で摘み取ったばかりの咲き初めの可憐な花が呆気なく崩れてゆく。
まるで私達の関係のよう。
そう、最初からあり得なかった夫婦と言う名の情愛と関係性と信頼にあまりにも似通っていて。
滑稽すぎて、惨めすぎて、そして突き付けられた現実が辛くて苦すぎて。
他にも色々と渦巻いていた醜い感情と僅かに残っていた理性は、互いに攻撃しあい尤も愚かで単純な答えを導き出し、それを迷うことなく実行し、私の全てを支配した。
笑わない
媚びない
泣かない
怒らない
常に口角だけを上げ、表情を穏やかな微笑みの形を保つことだけに勤めさえすれば、その日以降、私と政略結婚したあの人の仲は凪いだ海のようになり、荒れ狂うことは無くなり、社交界では私達は夫婦の鏡だとさえ噂され、敬られるようにもなりつつあった。
けれども。
ふわり、ふわり。
はらり、はらり。
音もなく鈍色の雲から舞い降りてくる白いモノを、私室の窓際に配置してあるロッキングチェアに腰掛け、無為に眺め過ごす私はきっとさぞ自堕落だと思われていることだろう。
現に手に持った手鏡越しに侍女の顔を伺ってみれば、彼女は自分が私に見られていることさえ気づいていないのか、私を主とも思ってない表情で睨んでいる。
それを疑問に思うことなどもはやしない。
この屋敷に勤める全ての使用人はあの日以前から、あの娘とあの人の仲だけを応援しているのだから。 その証拠が本来ならば婚姻の際に実家から何人か共に連れてきた侍女が、一人、また一人と去ってゆき、ついに昨年には最後の一人までもが、あの人から手渡された両手に抱えきれないほどの金貨と引き換えに私の前から去って行った。
幾ら心を凍らせてしまったとはいえ、実家からも見放されたのだと思い知らされてしまっては、もう口を開き、言葉を交わすことさえ無為に思え、最近はこうして椅子に座っていることさえ億劫に感じてい
た。
と、そんな頃合いに聞こえた一つの音。
「ははうえ、いらっしゃいますか?」
ぼんやりと外か虚空を無意味に瞳に映していた私は、聞き覚えのあるようなないような幼い声に久しく意識が浮上し、そちらに目をやればあの人にどことなく似ているまだ幼さを残した少年が、扉越しに顔を覗かせていた。
はて、この子はいったい誰だっただろうか。
髪はストロベリーブロンドという奇妙な色で、瞳はあの人と同じ深い藍色で、肌は今も静かに降り積もっている雪のように白く。
思い出したくても思い出せない。
知っていても頭が、目が、唇が全てが目の前に立っている子供の存在を否定したがるかのように、記憶からさらさらまるで砂のように抜け落ちてゆく。
何度か瞬きし、思い出そうとした私はやがて頭をゆるゆると振り、記憶を浚うのを諦めた。
どうせ記憶に掠りもしない子供は私の人生には拘わりがないのだからと。
ならば、私が取る行動は一択だった。
「その子を親の元へ連れて行っておあげ。そのまま休みを取ってもかまわないわ」
「――かしこまりました、メリルローゼ様」
「は、ははうえっ、」
「――わたくしは、あなたのような子は産んだ憶えはなくてよ」
視線を幼子から再び外へと移した私は、幼子の悲しみに染まった顔を見ることは無かった。
心を閉ざし、目を逸らし、耳を塞げばこれ以上傷つかずに済む。
嘆き、喜び、悲しまず、笑わなければいつか救われる。
きっと、いつか誰かが私をここから見つけ、救い出してくれるはず。
こうして日々夢と現の狭間で生きていた私は知らない。
あの人が私をどんな風に思い、感じていたのかを。
この時の私は、まさに息をしているだけの物言わぬ屍だったのだ。
❁
ひくひくと、小さな嗚咽を漏らしながら侍女に連れられてやってきたのは、今年の聖恋歳で5歳の誕生日を迎える一人息子のメリウスだった。
メリウスは親の自分でさえ驚くほど我が儘を言わず、勤勉で何事に対しても慎重でいて、文武ともに優秀であり、王太孫の覚えも良い将来が有望すぎるほどの出来過ぎた子である。
そんな己の出来過ぎた息子がここまで感情を揺らがせる原因は一つしかあり得ない。
何故ならそれこそが今の己の抱えている問題でもあるからだ。
息子は幼いながらにも敏く、その為、いつもは甘えたくとも甘えられない相手に逢いに行っていたはずである。
なのにその息子は自分が託した朱い薔薇を左手に握ったまま、ぽろぽろと大きな雫を頬に伝わせている。
その状況から察するに、結果は最悪なものになったのだと容易に悟れてしまった
「ちちう、え、っ、ははうえは、ははうえはどうしてっ、ぼくをうんだきおくがないなどとおっしゃるのでしょうか、っぅく」
「...っ、きおくが、ない?」
「きょうは、ほんをよんでくださるとやくそくしてくださっていたのに、やくそくしていたのにっ!!」
どうして、何故なのですか、と声を上げ悲痛なまでに上げ、嘆き悲しむメリウスは母親の愛情に飢えていた。
それに返せる言葉を持っていれば、私は妻を失っていなかっただろう。
全ては自分の心の揺れと慢心ゆえの結果が招いた結果である。
妻であるメリルローゼとローゼンハーク伯爵位にある私は、王の命に従って婚姻関係を結んだ関係であり、そこに熱い恋情はなかった。
婚姻当初はそれこそ仕事にかまけ、妻である女性に構いもせず、ひたすら日々の執務に没頭した。
そんな日々を続けていれば必然と疲れが溜まり、潤いや癒しを求めるようになるのだが、私は愚かなことに王都の街で出会った飾らぬ少女と出会い、初めての恋に溺れた。
彼女の前だけで私は自分の身分を忘れ、私を身分関係なく愛してくれた(ふりをした)彼女に日に日に溺れて行き、気付いた時にはかなり深い関係になっていた。
それに気付かないほど妻は鈍くはなかった。
日に日に狂ってゆく妻は最初はいつもと変わらなかったが、日が経つに連れ、笑わなくなり、声も荒げることもなくなり、つい先日などは私の顔も声も知らないと言い出す始末。
その時になって初めて私は、己が一人の人間の心を壊してしまったことを知った。
当然の事ながら妻の実家からは、今年の聖恋祭を機に離縁をと、数日前に打診された
つまり。
既に子は成しているのだから、娘を返してほしい。
あなたが一緒に居ても娘はよくなるどころか、悪くなるだけだ。
と言われ、このことはすでに王家にも通達し、受け入れられていると匂わされ、私は言葉が紡げなかった。
私の辛うじて妻であるメリルローゼは、王家でも特に権勢を誇る侯爵家の生まれであり、社交界でも言葉と視線を巧みに操り、伏魔殿とも恐れられている貴族社会の波でもっても、大輪の薔薇の如く華麗に咲き誇っていた。
なのに、私はそんな彼女を視帰ることもせずに壊し、大輪の薔薇のように咲き誇っていた彼女の美しさや矜持などの全てを枯れさせようとしている。
初めは確かに窮屈に感じていた彼女との婚姻生活。
しかしその婚姻生活も実際には破綻していたというよりは、最初から築いていなかったのだと自覚した時には、私は自分に吐き気がするほど自己嫌悪に陥った。
私は妻から知らない人間だと言われたその日から、何度も何度もメリルローゼに逢いに行き、赦しを乞うている。
否、本当は赦されたくはないのだ。
赦されてしまったら、私は彼女に声をかけることも出来なくなってしまうかもしれない。
赦されないままなら、傍で謝り続け、別れてしまったとしても微かに関係が持続できる。
が、そんな虫が良すぎる関係は神どころか彼女さえ望まず許さなかった。
当然である。
聖恋祭の翌朝、彼女は久しく見る満面の笑みで、迎えに来た家族に走り寄り、彼女によく似た女性に抱き付いた。
そしてその女性に促されたのかおずおずと子供返りした様な妻は(この時は本当に私との婚姻関係の記憶がなかったらしい)、ドレスの裾を軽く両手で持ち上げ、渋々頭を下げようとしていた。
――なれど。
あとになって思い返してみれば、あの日、あの時の記憶は思い返すだけでも恐ろしい。
一瞬の白銀の煌めきがなんであるかと脳が認識した時には、手遅れだった。
かつて私が愚かしくも偽りの恋に溺れていた相手がナイフを振り上げ、メリウス目掛け振り下ろしていたのだ。
アンタさえいなきゃ、皆私を愛してくれたのに!!
アンタなんて、アンタなんて悪役のメリルローゼと死んじゃえ!!
――ははうえっ
――おかあさま!!
この日の為に、隣国の修道院寄宿舎から一時帰宅を果たしていた娘と息子が、いったいどこにそんな力があったのかさえ判らない、必死な形相をしたメリルローゼによって寸前に凶刃から脱し、尻餅をついていた。
だが、その代りに彼女の背中から鈍く煌めくモノが生えたのは、悪夢のような現実だった。
途端、その場に響く狂気に歪み彩られた笑い声に、狂気の場となった屋敷周辺は騒然となった。
その間にもどんどんと流れゆき、メリルローゼを中心に広がっていく紅い何か。
それがなんであるか、誰もが否定したかった。
でも現実はそこまでも残酷で。
じっとこちらに向けられている、やっと笑みを取り戻した妻の視線に答えるように、喪失の恐怖と必死で戦いながら伸ばした私の腕は、彼女に触れる前に血の気が引いて動かなくなった。
その直前、彼女が声なく紡いだ言の葉は。
――レオドール、さま、あいしてます
ゆっくりとした唇の動きを最後に、彼女の瞳は閉ざされ、ピクリとも動かなくなった。
❁ ❁ ❁
「――――っ!!」
激しい息切れと共にがばっと身を起せば、辺りは夜明け前の静けさに支配され、隣では緩やかで健やかな寝息を立てている愛おしい女性の姿があった。
その女性の腹部は僅かに膨れていて、それは女性が子供を身籠っていることを示している
男はふぅーーっと長い吐息を吐き、長すぎる悪夢を思い出し苦い笑みを唇に浮かべた。
そして再び寝台に身を横たえ、愛おしい女性の寝顔を見て安堵し、ぎゅっと抱きしめた。
この悪夢とは一生付き合い続けなければならないのは解っていても、さすがに今の時期に見るのは心臓が持たない。
だが、こんなことを一言でも子供たちに零せばそれは冷たい瞳と口調で切って捨てられるだろう。
――すべてはお父様の責任です。
と。
あの事件から6年の月日が経ち、昨年、新たに即位した王によってようやく異例の再婚を認められた私とメリルローゼは、今、夫婦として一からやり直している。
夏には家族がもう一人増えるが、先に生まれて大きく成長した子供たちも喜んでくれるだろう。
一時は命を落としたかと思われたメリルローゼの命を最後の最後で救ったのは、私が婚姻当日に義務で送ったメリルローゼ宛てへの細密画が施された時計だった。
その時計は今では我が家の広間に大切に保管され、飾られている。
あり得ない奇跡が起き、再び共に歩むことが出来るようになったのもあの時計のお陰であるからだ。
私はさらりと、横でぐっすりと眠っている愛おしい女性の前髪を指で払い、額に口付け、目を閉じた。
ゆえに私は彼女の唇が幸せそうに緩んだことは知らなかった。
それは本当に小さな幸せに満ちた秘密であり、私が知らない方が良い秘密だ。
小さな奇跡に感謝をしつつ、私は再び眠りに就いた。
The/End...?