影をんな
生来の人間嫌いで、女になぞいよいよ縁がない。一弥はそんな男であったが、如何してか女の影が大層好きであった。夕暮れの日の当たる障子の向こうに女が居てとりたてて何ということもない普段の振る舞いをする、それがどうにもたまらなくて、それを眺めるためにだけ茶屋を訪ねたり、それとも水屋で夕飯の支度をする、その障子越しを見たいばかりに長屋の前に突っ立っていたり。
一弥は、女の影の、ひっそりした感じが好きなのだという。乳白色の障子越しの、柔らかい墨色のくっきりとした影。日暮れれば暮れるほどに障子の白はぬくもりを帯び、うすら寂しいような、懐かしいような気配がひたひたと寄せてくる。その向こうで、静かに繕い物をしたり、それとも本を読んだり、食事の支度をしたり、それともただぼうっと何かを考えているような、そんな女の佇まいが、一弥には途方もなく好もしく思えるのだった。
「幻灯のような遠い遠い雰囲気が好いんじゃないのかい」
「そうかも知らんね」
茶屋で。
わざわざ襖を障子に替えてもらって、隣の座敷の宴会を影で眺めながら、一弥は答えた。夕暮れの障子越しも好きだが、蝋燭の灯に揺らめく女たちの影も好きである。とはいえこんな酔狂に付き合ってくれる友もそうはおらず、そんな風狂な贅沢もそうはやっておれず、こんなのはほんの三月に一度ほどの愉しみである。簪がしゃんしゃら揺れて、影であっても着物の豪奢が伝わって、あれこれの指の動き手の動き、華やかな踊りやら笑い声やら、ああ女の影とは何と美しいものだろうと、一弥は手酌で呑んで目元を染めて感に堪えたように障子を眺めている。
そんな一弥が影をんなの話を聞いたのは全く今日が始めてのことで、知らなかった自分は迂闊であったと途方に暮れた。
聞かせたのは宴会に付き合わされた幼馴染の聡介である。
曰く、江戸の一角に、そこだけ奇妙に建物のない更地があるという。綺麗な空き地だというのに、誰も住もうとはしない。何でもそこは影の町なんだそうだ。何もないのに、昼日中には影が映る。建物やら木やらの影だ。全くそこに影の基が立派に建っているように、影は朝昼晩の日の動きに連れて傾きもする。それが気味悪くて、誰も家を建てようとはしない。
「お前に聞かせたいのは、そこの建物に、影をんなが棲んでいるという噂なのさ。」
聡介はこんな宴会をつまらながっているのかそれとも面白がっているのか、静かな表情で煙管の煙を吐き出した。
「どうもその辺りで大分前に火事があったらしい。女が逃げ遅れて、どうもその影がまだ暮らしているようなんだ。
建物の影からふぅっと出てきて、近所を歩いてはまた帰ってゆく。
人の影はそれ一つなんだが、近くに住む連中は、どうもそこいらに家を建てたりすると祟りがあるんじゃないかと恐れているようだ。そんな恐ろしいものであるという話は聞かないが、それでも、焼け死んだ女が不憫でもあるのだろうね。
どうだ、お前周りから身を固めろなどとうるさい目にあっているんだろう。だったらいっそ、その影をんなを連れてきて一緒に暮らしてしまえばどうだ。
立派な人助けにもなるんじゃぁないか。」
「しかしその女俺風情のところに来てくれるだろうか」
「さぁね」
無責任に言い捨てて、聡介は杯を干した。
教えられたとおりの辺りにようようたどり着いて。
聡介は、空き地全体に広がる建物の影の輪郭の確かさに驚いていた。
確かにこれは影の町だ。庭先の植木、井戸の小さな屋根とつるべ、塀、屋根、一つ一つの建物の面影が平らな空き地に落ちている。聡介はひとしきり空き地を歩き回った。地に落ちた影に触った。もとより承知だが、書いたものなどではない。それがなおさら不思議だった。
辺りには人気がない。町外れだからか、それにしたってこの静けさは尋常ではない、まるで音が影に飲み込まれてしまったようだ。そんなことを思っていると。
道に向かった建物の影のはじから、すぅっと、女の影が浮き上がってきた。
影をんな。
派手な影ではなかった。つつましい、町の女の影であった。何をしにゆくのか、いそいそと歩みを早める。日が傾き始めた頃のこと、影の町の向かいにある本物の塀に女の横顔が斜めに映る。包みをもっているところを見ると、なにか習い事でもしにゆくところなのだろうか、それとも誰かを訪ねるだろうか、そんなふうに思い至って、一弥は、じぃんと胸が痛んで、鼻の奥がしんしん沁みて、涙が出そうになって閉口した。
影が憐れだったのだろうか。
それもある。それもあるが、そればかりではない。一弥は感動したのだった。もう死んでしまった女の、以前と変わらぬそんな営みの様子。何気ない風景。きっとこれなのだ、一弥は思った。私が女の影に求めていたのは、きっとこういうことなのだ。生身の女はうつろうだろう。心も、からだも、終には全てが失われ。だが影は、面影という言葉そのままに、女の在ったことをいつまでも遺す。ほんとうの体に比べて、影は一見移ろいやすい。めまぐるしくかわる平面の形に過ぎないように思われる。だが、ほんとうの体の変化は、影よりも緩やかだけれども、変化の生じる場所は深く深く、そして変化したものは二度と元には戻らない。影は、うつろいやすいがゆえに、刹那を永遠に残して。
女は何しに出かけたろう。
女はそうして戻ってくるだろう。
いつもと変わらぬ営みの中に身を投じるために。
いつもと変わらぬ影の家に。
一弥は、もう影をんながいとおしくていとおしくてたまらなかった。影をんなが影であること、いつか確かに実在した女の面影として儚く確かに在ることが、胸に迫ってならなかった。影をんなは一弥が長い間欲していた女であった。影をんなを家に連れて帰りたいと、一弥は強く思ったのである。
しかしそのためには一体どうすればよいのだろう。一弥は考えた。影には私の意図は通じるのだろうか。話しかけたとして、影は一体私の声を聞きとめるだろうか。
(そうか)
一弥は急に思い至った。
(影のことは影に任せれば、よい)
一弥は自分が影をんなに働きかけるのではなく、自分の影に影をんなを誘わせようと思った。なんと言うことはない、自分の影の行方をよくみて、影をんなの前に落とそうというだけのことである。そこであなたが好もしいという素振りを見せれば、何とか心が通じるのではないか。
一弥は慌てて賑やかなあたりに行って、小さなつまみ細工のかんざしを買うと、また影の町に戻っていった。
小路の向こうに消えた影をんなが戻ってくる頃には、もう町はほんとうの夕暮れだった。一弥は影をんなが出てきたあたりで影をんなを待った。影をんなが包みを抱えて戻ってきた。一弥は気をつけて女の真向かいに影を立たせると、影に向かってかんざしを差し出した。
藪から棒に影をんなは驚いたようだが、暫くして恥ずかしそうにかんざしの影を受け取った。かんざしは一弥の手にあるが、影だけが失われ、女の影の手にうつった。それから驚いたことに一弥の影がまるで意識を持ったように女に優しげに寄り添った。影は確かに一弥の足元から伸びているのだが、だがその動きや姿勢は自由自在だ。少し驚いて見つめる一弥を知らぬげに、一弥の影は影をんなに何がしかを働きかけている。
そうして、手をとった。
一弥は、何故だか寂しいような、口惜しいような気持ちになりながら、影二つを連れて家路を急いだ。
ほどなくして影の町のあった辺りには家が建った。
影をんなが居なくなって、まるでまじないを解かれたように影の町も失せたのだという。
「俺が見に行ったときにはもう、影など一つもない、日当たりのよい空き地だったよ。」
聡介は言った。
一弥の家には、影をんなと影おとこが居る。
影をんなは庭に向かった縁側の障子に住み着いている。居間からは女が何がしかを運んだり或いは舞のおさらいをしたりそれともただ座って考え事をしたりしている姿が影に映って見える。
影おとこは普段は一弥の影であって外では勿論一弥の足にひっついているのだが、家に帰り居間にゆくとたちまち自由になって影をんなの居る障子に収まってふたりで静かに親しげに過ごす。
確かにこんな眺めを求めていたはずなのに。
一弥は目を閉じて、体が解けてゆくような小さな寂しさに耐えようとした。
影をんなの様子は全く私が求めていた通りじゃぁないか。寄り添っている影おとこだって、もとは確かに私の影で、分身のようなものじゃあないか。そんな風に考えれば、寂しがっている自分を笑えもするのだが。
この、大切なひとたちにおいてゆかれてしまったような、この寂しさは、どうしても打ち消せずしかもいやます寂しさは、どうしたことだろう。
(ああ、きっとこの二つの影は、私が死んで、この建物が障子ごと滅んだとしてもなお、この場所で、影のままで、親しく睦まじく過ごしてゆくに違いない。
それは、確かに、影をんなのもとになった娘と、影おとこの影の主である私との、在った証であり面影であるけれども。
二つの影は、それら二人の心や命とは、全く別に存在して。
私であって私でない。
私よりも永遠で。
私よりも自由な。
そんな二人のやりとりを。
私はこうして、この家にいる限り、目の当たりにしてゆかなくてはならぬのだろうか。)
一弥はそんな風に思って胸苦しくなった。
(家を燃してしまうか)
(影おとこを滅ぼしてしまうか)
(それとも私がいっそ自害するか)
一弥は今日も、そんな風に思いつめながら、静かに影を見つめている。
障子の中では影をんなが影おとこの耳を掻いてやっている。
斜めに日の入る夕暮れ、鮮明な影を見つめて部屋の中じっと動かぬ一弥は。
(まるで自分のほうが影おとこのように、見えた。)
終