生きがいというヒキガエル
その日の早朝の道路は昨夜の冷えた外気のせいかまだ地面には靄が所々に残っていた。そんな中を黒のライダースーツのアザミがハーレーダビットソンXL 1200Nに乗って走って来た。
排気量1500ccのエンジンの鼓動を感じるとアザミは女の自分がバイクを操るということに少なからず自信と支配欲にも似た快感をいつも感じていた。アザミは早朝のバイトに向かっていたが、車に出会うことはまれであった。
その時突然のスリップ。ハンドルを取られて少し慌てたが、アザミはどうにか転倒せずに停止することができた。アザミはバイクを降りると道路を見た。たくさんのヒキガエルが道路にいた。いたるところで早朝の車にはねられた死んだヒキガエルがつぶれていた。このあたりには道路を挟んで大きな池と森があるようで、どうやら昨晩から早朝にかけて森にいたヒキガエルが産卵のために池に移動中であるようだ。
車に轢かれたヒキガエルがつぶれてぬるぬるとして粘性を放っていた。
ふと見るとバイクの少し前方に一匹のヒキガエルがいた。その時「危なかった。助かった」という声が聞こえた。アザミはそのヒキガエルをよく見ようとヘルメットを外した。アザミの赤いスカーフが黒のスーツに冴える。「あなたは誰!」とそのヒキガエルを正面から見据えながら用心しながら少し後ずさり加減にアザミが言った。
「ぼくはね、生きがいというヒキガエルだよ」という声が聞こえた。
「生きがいというヒキガエル? あたしに何の用なの………….」
「今日は危うく轢き殺されそうになったけど、ぼくを轢き殺さなかったのはきみの幸運だ。ぼくを轢き殺していたらきみは生きがいを一つなくしていたところだ」という声がした。
「どうでもいいけど、何もなかったんだったらバイトに遅れるからもうこれでバイバイよ」とアザミはヒキガエルのほうをそれ以上見ようともせずに早口で言うとバイクの方に向かった。
アザミはヘルメットをかぶるとエンジンをかけると、用心しながらゆっくりとしたスピードで死んだヒキガエルの狭間を縫うように慎重にバイクを走らせた。
やがて大通りに出るとアザミのバイクはヒキガエルのことはもう忘れてしまったように走り去った。
その日遅くなってからアザミはアパートにもどって来た。アザミの住んでいるアパートは一階部分がコンビ二店になっている二階建てのアパートで、アザミの部屋はコンビ二店の真上にあった。その店の横手の小さな車庫にバイクを置くと目だたない入り口から二階への階段を上がって部屋にもどった。シャワーをしてから寛いでいると今朝食べなかったファーストフードの紙袋の一つがごわごわと動く。驚いて袋を開けると早朝のヒキガエルが出てきた。
「どうして、あなたがここにいるの」とアザミが言うと
「ぼくはきみが持っていた袋に今朝紛れ込んで来たのさ」という声がした。
「何て言ったけ、ああ、生きがいのヒキガエルよね、、ここまで押しかけて来て、、どういうことよ?」とアザミが声を荒げる。
「ぼくは、生きがいを一つ持ってきたんだよ」という声がした。
「生きがいなんて別に今困っているわけないけど、何かくれると言うのだったら何よ」。
「目を閉じて三つ数えたらここにそれを出すよ」と生きがいというヒキガエルは言った。「ほんとかしら」とアザミは言ったが、目を閉じて三つ数えた。すると、アザミの見ている前に一足のローラースケート靴が置かれていた。そのローラースケートを手にとってみると、それが店頭のウインドウに飾られていた以前からずっとほしかったローラースケートだったことに気がついた。
ちょうど、来週からバイトでビヤホールでローラースケートでウエイトレスをやることになっていた。よし、このローラースケートでがんばろうとアザミは意気込んだ。
それからアザミは窓を開けた。下ではコンビ二に来た客が一人出て行ってまた一人入って来た。窓の外にはネオン街が広がり遠くで打ち上げ花火が見えたが、アザミの視線はそういう人間世界の諸々の事象を外れ思わず夜空に向けられた。するとそこに永遠の変わらね星座の世界が広がっていた。アザミは星を見ながら生きがいを見出し幸福感を感じていた。アザミが振り返って部屋を見回した時にはあの生きがいというヒキガエルはいなくなっていたが、ローラースケートはそこに置かれていた。