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風向き(5)

 

 

 鹿肉の残りを炙り、甘藍(キャベツ)の漬けたものを添える。

 昨夜のシチューは大鍋に作ったから、今夜の分にも十分足りるだろう。昨日と今日は、いつもよりちょっと豪華な夕食だ。

 焼きたてのパンを竃から拾って、エッタは窓の外に見える山を振り返った。

 木々の生い茂る山が、夕闇に沈み始めている。

 いつもなら日が沈む前に戻るはずの師匠が、今日に限ってまだ帰ってこない。

「なにか、あったのかしら」

 羊が逃げたとか、山羊が帰ろうとしないとか。

 想像してみたけれど、これまで一度もなかった話だ。

 エッタがどんなに頑張っても大人しくさせられない羊でも、師匠のあとには喜んでついて行った。

 それこそ、魔法でも使っているようにだ。

 他に考えられることは?

 もしも里から用事があるのなら、まずこの家を訪ねて来るはずだ。

 師匠はいなくても、エッタがいることが分かっているのだから、みんなここに伝言を残すか、緊急ならばそこから山へ向かう。

 どのみち、山の牧草地へ行くならこの道しかないのだし。

 降りてくる途中で怪我人を見つけた?

 それとも。

「まさか、お師匠様が……?」

 昨夜の今日だ。

 またあの悪党がなにかしでかしたとしても、おかしくはない。

 そもそも、あの盗賊もどきが師匠に悪事を働こうとしたと推測したのなら、なぜその可能性まで考えなかったのだろう。

 師匠は確かに魔法使いだ。

 しかし、里で呼ばれている『大魔法使い(アーデレオン)』はあくまで尊称であって、実際師匠が盗賊を討伐できるような大魔法使いかと言えば、大いに疑問が残る。

 師匠を信頼していないわけではない。

 濁流の押し寄せる川を魔法で押し返したというのだから、それなりに魔力もあるのだろう。

 しかし、鎮め癒す力と闘う力は別物のはずだ。

 そもそも、魔獣や竜を退治できるような大魔法使いが、こんな辺鄙な山奥に来るものか。

 握りしめた手の中で、堅焼きパンがみしりと鳴った。

「どうしよう、お師匠様……」

 師匠に何かあったら。

 今まで想像もしなかった事態に、指先が細かく震える。

 母親が逝った時は、ただ呆然とするだけだった。

 今は、その意味も、喪失も知っている。

 血縁ではないけれど、三年間ずっと一緒だった人。

 家事はできてもろくに文字さえ書けなかったエッタに、根気強く経典や薬学を教えてくれた。

 普通の大人とはどこか言動がずれていて、時々呆れることもあるけれど、一度だってエッタを邪険に扱ったことはなかった。

 たしなめる時でさえ穏やかな、大きな温かい手の、たったひとりの師匠。

 その師匠が、いなくなる?

 まさか。

 そんなこと、あるわけがない、あっていいはずがない。

 だって、師匠は『大魔法使い(アーデレオン)』なんだから。

 血の気が引いて、手や足の先が水を浴びせられたように冷たくなっている。

 かたかたと間断なく聞こえるのは、自分の歯が鳴っているのだと気がついた。

―――どうしよう、どうしよう、どうしよう。

 探しに行こうか。でも師匠が戻ってきたら行き違いになる。

 里へ知らせに? それもおなじことだ。

 第一、自分が動いたところで何ができよう。

 僅かばかりの魔力があるだけで、なんの魔法も使えない、役立たずの弟子のくせに。

 急速に闇に包まれ始めた部屋の中で、竃の小さな炎がエッタの不安を煽るようにゆらゆらとざわめいた。

「お師匠様……ッ」

 どうしていいかわからないまま、心細さに半泣きの情けない声が漏れる。


 かすかに、羊の鳴く声がした。


 帰ってきた。

 はじかれたように玄関へ向かい、閂を外す。

「おかえりなさい!!」

 勢いよく開け放った扉の向こうには、見たこともない風体の人影があった。

 目深にかぶった濃い色のフード。

 異国のものらしい長衣。

―――しまった……!

 なんて不用心な。

 外にいるのが師匠だけとは限らないのに。

 早く扉を閉めればいいものを、突然の出来事に手も足も動かない。

 部屋からの薄明かりに浮かぶ口が、やんわりと笑みの形に持ちあがる。

 その手が自分に向かって伸ばされるのを見て、エッタはたまらず目をつぶった。

「いてェっ!」

 何かが勢い良くぶつかる音、若い男の悲鳴。

 そして聞きなれた足音が駆け寄る気配。

「エッタ!」

「お師匠様!」

 一瞬で硬直がとけ、師匠に飛びついた。

「ティルーダ、何の用だ」

 エッタを背にかばい、師匠が低い声で問いただす。

「伝言なら鳥に託しただろう」

 では、あの鳥はこの人のもので、この人は師匠の知り合いなのだろうか。

 師匠の背中から覗いた先では、旅装の男がほこりを払って立ち上がったところだった。

「やれやれ、えらいもんつけてやがんな。せっかくはるばる来たってのに、手荒い歓迎だ」

「礼儀をわきまえんお前が悪い。弟子を怖がらせた罰だ」

「弟子ねえ?」

 常になく厳しい声音の師匠に対し、ティルーダと呼ばれた男はにやりと笑い、気安い態度でエッタに手を振った。

「いやあ、昨夜のこともあるし、挨拶しといたほうがいいと思ったんだけどさ。怖がらせちゃったならごめんよ」

 では、やはり彼は昨夜の盗賊もどきなのか。

 どこから来たか知らないが、師匠の知り合いにしてはへらへらと軽薄な笑い方が気に入らなくて、軽く頭を下げるだけで挨拶に代えた。

 非礼だと咎められたら謝るつもりだったが、師匠も異論はなかったらしい。

 知り合いに向けるには棘のある視線を外さないまま、エッタを振りむく。

「エッタ、彼と少し話がある。家に入っていなさい」

 もちろん、エッタに否やはない。 

 軽く背を押され、一つ頷いて小走りに玄関へ駆け込んだ。



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