風向き(4)
羊と山羊を連れて、師匠がいつものように山に向かった後。
木皿を洗いながらエッタは考え続けた。
昨夜は慌て過ぎたが、朝になって少しは落ち着いて見返せる。
あの謎の人物は、迷いなく裏庭に進んできた。
屈みこんでいる時も、エッタが後ろから見ている限り、思案しているふうはなかった。
この家は人里離れているから、ちょっと道やら家やらを間違えましたなどという迷子はあり得ない。
当然ここを目指してきたとしか思えないが、エッタにあんな知り合いがいるわけもないから、必然的に師匠への訪問客ということになる。
自分がここへ弟子入りしてから三年、師匠を訪ねてくるのは村の人間だけだったのに?
ましてあんな夜中に、裏庭でこそこそと?
誰がどう考えたって、真っ当な訪問の仕方ではない。
それならやはり、悪意ある人間なのではないか。
それなのに、師匠はあまり気にしたふうはなかった。
もっとも、この家で盗む価値のあるものといったら、エッタが父親から預かった銀貨の袋ぐらいだ。
あとは山に行けば無数に生えている薬草と、二人の日用品。
高級品と言えなくもない本は、エッタも少し習った神話集と簡単な薬草の辞典だけで、師匠は魔法使いのくせに、魔法の古文書などは一切持っていない。
だから、師匠が気にしないのも無理はないとは思ったのだけれど。
なにより、あの悪党とおぼしき人影は、家には見向きもしなかった。
まっすぐ裏庭を目指して、地面をあさっていただけ。
あんな井戸端の地面を掘り返したって、出てくるものはなにもないのに、だ。
それに、と、エッタの眉間にしわが寄る。
疑問はまだある。
盗人と言いながら村に知らせに行くでもなかった師匠が、死霊と聞いて顔色を変えた。
魔法使いは、妖獣や魔獣あいてに魔法を使うことはあっても、死霊を相手にすることはない。
死霊は人間の魂が冥府から彷徨い出たものだから、神官が諌める事はあっても魔法使いが退治するべき相手ではないからだ。
死霊は災いをなすというから、警戒した?
それならもっとなにかしてもいいようなものを、まあよかった程度で済まされた。
「あのお師匠様なら、たしかにそれで済ませる人だけど」
途中までは普通なのに、最後へきて「なぜそうなる!」という選択をするのは、師匠のおさだまりだ。今更悩んだところで始まらない。
皿を洗い、ふきんで拭いて、棚に戻して、洗濯を済ませて。
考えながらも手は動き続けて、最後の洗濯物を勢いよく叩いた。
「私が考えたって、しかたないわ。お師匠様が決めるんだから」
山から吹き下ろす風にはためく洗濯物をくぐって手桶を片付けて、大きく伸びをする。
「さあ、今日の分の薬を作らなくちゃ」
悩みながらでも家事はできるが、薬草の選別や精製はそうはいかない。
薬は神聖なもの。
辛い誰かを癒すもの。
だから大切に扱って、丁寧に作るのだと。
いつものとぼけたような物言いではなく、そのときだけは真摯だった師匠の言葉を、薬草を手にするたびに思い返す。
弟子入りはしたものの、小さな魔法の明かりを作ることさえできなかったエッタに、師匠が与えてくれたたった一つの魔力の使い道が、薬作りだった。
落ち込む自分を膝に抱えて、一つ一つ薬草の種類や見分け方、使い道とそのための作り方を教えてくれたのだ。
エッタの生まれた里には、医師がいない。
隣の町は山一つ越えた向こうで、往診などしてはもらえない。
代々伝わる古いやり方で熱を下げたり、知る限りの薬草で気休めていどの煎じ薬を作る以外は、めったに来ない行商から、高価な薬を買うしかないのだ。
だから、この村に来た魔法使いが熱病の子供を直してくれた時、大人たちは泣き伏して喜んだという。
村に子供が少ないのは、子供が育たないからだ。
大人になる前に、まだ乳飲み子のうちに、ひとりまたひとりと失われていく。
そのこどもたちを守ってくれる人が現れたと、この小さな庵には人が溢れたのだそうだ。
村人たちはめったなことでは師匠を頼らないが、それは師匠を信頼していないのではない。
子供の命を救ってくれる『大魔法使い様』を軽々しく使うことなどできないのだ。
エッタの父が母の臨終に間に合わなかったのも、ぎりぎりまで師匠を呼ぶことをためらったからで、その後、弟子にしてやって欲しいとエッタを預けたのと同じ理由。
あれから三年を経て、なお村人たちを癒すことを怠らない師匠に対する村からの信頼は、神殿への祈り以上になっている。
エッタの作る薬草は、師匠を頼る人たちの気持ちにこたえるものだ。
万に一つの間違いがあってもならない。
薬草の束を抱えて、エッタは気合を入れた。