なんの波乱もない暮らし(3)
エッタが母親を失ったのは、11の冬だった。
大病どころか風邪さえ引いたことがない働き者だったが、ちょっとめまいがすると言った二日後には床から起き上がることもできなくなり、動転した父親が村はずれの魔法使いを呼びに行った間にこときれてしまった。
あまりにも唐突過ぎて、そのあたりのことは今でも靄の中に手を突っ込むような、おぼろげな記憶しかない。
ただ、部屋の隅で呆然と葬儀を見守る自分の頭を、そっと撫でてくれた人がいることは覚えている。
大きくて、ふしだって、少しざらざらした手のひらで、その温かさにふうっと力が抜けた。
氷がとけたようにぽたぽたこぼれる涙をぬぐってくれた手は、セージや薄荷や雛菊や、エッタの知らない薬草の匂いがした。
母親が倒れてから看病に3日。そこから葬儀に2日。
ほとんど眠れずにいたけれど、泣くだけ泣いて、その人の膝で眠ってしまったのだと、後から隣家の奥さんに聞いた。
父親はそこそこの木工職人だった。
山から切り出した木を選ぶ目も確かで、それらを組み合わせて作った家具で人を感嘆させることもできたけれど、仕事となると山や小屋にこもりっきりで他には目もくれない人だった。
それは冷たいわけではなく、単に不器用なだけで、まだ嫁にいけるわけでもない歳の娘を一人で家に置いておけないと悩むだけの分別はあったらしい。
妻の遺した娘をそばに置いておきたいという気持ちと、自分の性分とのあいだで思案すること幾月か。
父親が選んだのは後妻を娶ることではなくて、娘が手に職をつけられるよう、人に頼むことだった。
誕生日を超えて12になっていたエッタが連れて行かれたのは、「お山」の中腹より少し下にある、「大魔法使い」の小屋だった。
「無理なお願いを、聞いて頂いて」
両手の間で帽子をこねくり回して恐縮しきりな父親の横で、エッタはぽかんと口を開けた。
朝靄の消えきらないなか、微妙に傾いている小さな家の扉を開けたのは、あの日エッタの頭を撫でた、薬草の匂いのする人だった。
当時はまだエッタが見上げるほど背丈の違った「大魔法使い」に、父親が深々と頭を下げる。
「ですが、アーデレオン様が、この娘にはちっと魔力があるようだとおっしゃったと、村長から聞きまして」
日頃着慣れない一張羅を着こんだ父親は、今思えば相当に緊張していたのだろう。
そのときは、そんなにひねくったら一つしかない帽子がこれっきり使い物にならなくなるんじゃないかと、見当違いな心配をしていた。
「もし使い物にならなそうなときは、お返しくださって結構です。ですが、もし見込みがあるようでしたら、なんとか弟子にしてやってください」
もう一度頭を下げる間も帽子をねじっている父親から、「大魔法使い」に目を移す。
大柄な父親より頭一つは低い背丈。
ぼさぼさでくすんだ赤茶の髪は、目元を隠すほど長い。
顔も半分は髭に覆われて、どんな顔をしているのかよくわからない。
そういえば、頭を撫でてくれた人の顔もそんなふうで、ただ手の大きさと不思議な匂いだけを覚えていた。
その手が、またエッタの頭に乗った。
「この子の魔力はそれほど強くない。教えられることも少ない。それでもいいかね」
低い、少しかすれた声に、父親は今までで一番深く頭を下げた。
家にあるだけの銀貨をかき集めた小さな袋を、「大魔法使い」はもの柔らかくながら頑として受け取らなかったから、父親はエッタの手にそれを握らせた。
夫婦で少しずつ貯めた金銭は将来娘の持参金にするつもりだったが、魔法使いに弟子入りした娘が嫁入り先を見つけられることは少ない。
どういう将来にせよ、金があって困るということはないはずだからという、せめてもの親心だったのだろう。
その銀貨は、使い道もないまま、いまもって暖炉の隅の隠し場所にしまわれたままである。
長い坂を振り返り振り返り父親が村へ帰って行くのを最後まで見送ったエッタが振りむくと、同じように黙って横に立っていた「大魔法使い」は、その大きな手でまたエッタの頭を撫でた。
「とりあえず、お前さんの寝床を作ろうな」
その他愛ない一言が、彼女が魔法使いになる最初の一歩だった。