なんの波乱もない暮らし(2)
村人たちが「お山」と呼ぶ、高山に続く丘の上に、その小さな小屋はあった。
ずっと昔は重々しかったろう扉は塗りが剥げ、石積みの壁は風雨に晒されてところどころ脆く砕けている。
みるからにうらぶれた様子だが、雑草も枯れ葉もなく掃き清めておけば、とりあえず空き屋だとは思われまい。
その昔、里に降りているわずか3日の間に、打ち捨てられた猟師小屋と間違えて無宿人が住み着いていたことは、エッタにとって苦い思い出である。
壁の隙間にまで生えてくる雑草を、石組みを壊さないよう慎重に抜き、軒先にかかった蜘蛛の巣を小枝で払う。
高いところは小柄なエッタではとりきれなくて、無闇に飛び上っていると、後ろの方から嗤うような羊の声がした。
「マノー、あんまり馬鹿にしてばっかりだと、今度の毛刈りで尻尾までむしるわよ」
振り返りついでに睨むと、軽やかに鈴の音を立てる羊をたしなめながら、赤い髪の男が笑った。
「さすがに尻尾は残しておいておやり。どれ、かしてごらん」
ふしだった手で小枝を受け取ると、残った蜘蛛の糸を絡め取る。
日頃猫背気味の師匠は、エッタとそれほど変わらない背丈だが、そのわずかな差で届くところもある。
「空を飛べればいいのに」
口をとがらせた弟子に、ややかすれた笑い声が応えた。
「それは鳥に任せておくんだな。さあ、食事にしよう」
8匹の羊と1匹の山羊を柵に追い込んで、師匠が振りかえる。
「山の草場で、ホグに鹿肉を貰ったんだ。使えるかね?」
きれいに捌かれたひとかたまりの肉が差し出され、エッタは目を輝かせた。
「うれしい、干し肉が少なくなったから、今日は野菜のシチューだけだったの。すぐ作り足すわ」
ホグは腕のいい猟師だが、先月、猪に突き飛ばされて足を痛めたという。
ひと月で仕事に戻れたなら、師匠の治療が効いたのだろう。
往診の礼金のほかにも、こうして義理堅く礼をしてくれる村人たちのおかげで、エッタ達の生活は成り立っていると言っても過言ではない。
なにしろ師匠の受け取る礼金は、文字通りの「謝礼」でしかないのだから。
もっとも、都から遠く離れたこんな山の中では、銅貨や銀貨より肉や野菜の方がずっと価値がある。
年に何度も来ない行商相手にしかつかえない金銭よりも、とれたての肉の方がよほど食事の役に立つというものだ。
渡された肉を捧げ持ってほくほくと家に入るエッタを、濃い色の髭に覆われた顔が面白そうに眺めた。
「健全な光景だなあ」
「けんぜん?」
耳慣れない言葉にまばたく弟子の頭を、大きな手が軽く撫でる。
「いや、なんでもないよ」
肉を貰ったことを喜ぶのがなぜ健全なのか。
自分にとってはごく当たり前の状況に、首をかしげるエッタだった。