光の都(5)
馬車を降りたのはどうやら表道だったようで、角を一つまがると急に雑踏が遠ざかった。
石畳の路面は変わらないまま、路地を囲む建物は幾分地味になっている。
エッタの手を引いた師匠は、そのなかでもひときわ目立たない小さな家の戸を叩いた。
「こりゃあお早いお着きだ。休んでいきな」
名乗りもしないうちに出てきた小男が、にやりと笑って中へ招く。
その、あまりの悪党顔にエッタが頬をひきつらせると、師匠がくっくと笑った。
「心配しなくていい、顔は怖いがいい奴だ。ここは魔法使い専用の宿屋だよ」
うながされてくぐった扉も踏んだ床も、これで大丈夫かと言うほどよくきしむ。
かしいだ机と椅子が二組、それに上へと続くらしい階段。
外から見たとおりに狭い室内にあるものは、それでおしまいだった。
「今日はここへ泊って、明日王都へ向かおう」
ここに?
口から出そうになった言葉をすんでで止めたものの、師匠も宿の男も、エッタの顔だけで何が言いたいのかわかったらしい。
叱られるかと首をすくめたが、返ってきたのは二人分の含み笑いだった。
「心配するな。古いが汚いわけじゃねえし、取って喰ったりしねえさ」
言いながら、宿の男が師匠に鍵を投げてよこす。
「あんまりお嬢ちゃんが気にするようなら別の宿も案内できるが、どうする」
「ここより安全な場所はないと思うがな」
呟いた師匠が、エッタを振りむいた。
「見た目ほど悪い宿じゃない。厭かい?」
急いで首を振り、小男に頭を下げる。
「失礼をして、ごめんなさい。お世話になります」
一拍口を開けた男が、またあの悪党面で笑った。
「おう、ゆっくり休んでいくといい」
踏み抜かないか不安になるほど歪んだ階段の上は、各階一部屋ずつの客室になっていた。
相部屋が基本らしく、衝立で仕切った寝台が二つと、文机が二つ。
外見同様古びた作りの内装は壁紙もないほど質素だが、宿主の言っていたとおり、古くはあっても意外なほど小ざっぱりしている。
布団など、エッタが使っていた物より上等なくらいで、腰を下ろすとふんわり沈み、きしみ一つ立てなかった。
宿主の手製だという野菜のスープと堅パンの夕飯をすませ、これも驚くほどきれいだった湯殿を借りて部屋に戻ると、入り口側の文机にいた師匠が振り向いた。
「馬車を手配してくれたそうだ。明日中には学院に着けるだろう」
「……王都はもっと遠いんじゃないですか?」
エッタの村から州都に出るまでにこれだけかかったのだ。噂話にもめったに聞かない王都に明日一日でたどり着けるとはなんの冗談だろう。
だが師匠はちょっと笑っただけだった。
「魔法学院の馬車だからさ」
つまり魔法がかかっているということか。
いままで、魔法使いの弟子でありながらほとんどそれを実感したことはなかったのに、魔法学院に行くと決めた途端このありさまだ。
本当に学院に入れたら、一体どうなることやら。
やや遠い目になった弟子に、師匠が手を差し出した。
「これを」
小さな布袋から滑るように渡されたのは、細い鎖のペンダントだった。
エッタの掌で包み込めるくらいの涙型の台に金色の片翼が飾られ、その下に小指の爪ほどの紅い石がはめ込まれている。
裏には、エッタには読めない文字と言葉が細かく刻んであった。
片翼と赤の石は、冥府の女神タニトゥワの象徴だ。
この世とあの世で最も強い力を持つ女神の意匠は、それゆえに護符として珍重されているが、神殿でも魔法使いの手によるものでも、非常に高価なのが常である。
ましてこれは、掌にかかるずしりとした重みから察するに、本物の金細工と宝石だろう。
「お師匠様、これ……」
「学院にはいれば、傍についていてやるわけにいかん。なにがあってもお前の身が守れるよう、できるかぎりの護りを施しておいた。肌身離さず付けていなさい」
薬草について教えてくれた時と同じ声。
必ず守らなくてはならないことを言い含める声音に、エッタはしっかりと頷いた。
頷き返した師匠が、護符を乗せたエッタの掌に手を重ねた。
In nomine Domini, qui fecit cælum,
In nomine Domini, qui fecit terram,
In nomine meo,
In nomine mensis inanis,
Ora pro nobis,
聞いたことのない音の言葉が響き、同時に手の中の護符がぴりっと跳ねる。
驚く間もなく、そこから全身に細かな痺れが走った。
髪の毛が逆立つような感覚に、思わずきつく目をつぶる。
謎の静電気が一瞬で通り過ぎると、護符が羽のように軽くなっていた。
促されて、ペンダントを首にかける。
「エッタ。この護符はお前にしか効力がない。けして手離さず、人に渡してはいけないよ」
静かだが重々しい師匠の忠告を胸に刻む。
効力の有り無しなど、傍目にはわからない。
これほど大粒の金細工で、しかも明らかに手の込んだタニトゥワの護符ならば、効果などなくとも欲しがる者は多いだろう。
そうでなくとも、師匠が自分の身を案じてくれたものを、誰かに渡したくなどない。
これから先は、もう一緒にはいられないのだから。
今更のように気づいてしまったことに、不意に目元が熱くなる。
「ありがとうございます。大事にします」
にじむものを隠すように、今までの恩全てに一礼した弟子の頭を、師匠はいつものように優しく撫でてくれた。