光の都(2)
まだ日の高い時刻。
こんな時間の明るい部屋に師匠と二人で家にいることは、久しぶりだった。
師匠が、暖炉の灰をおこす。
もぐっていた熾がぱっとはじけた。
そういえば、火をおこすにしても、師匠が魔法を使ったことはなかったな、と思い返す。
魔法を使うのは、薬を精製する時と傷を癒す時だけ。
普通の人ができることに、魔力を使うことは一度もなかったと思う。
炎が安定したのを見届けて、師匠は暖炉の前の敷物に―――師匠の定位置に腰を下ろした。
手招かれて、エッタも相向かいの自分の敷物に座る。
山深いエッタの里よりさらに高地にあるこの家では、一年を通して暖炉に火が欠かせない。
自然、師匠と一緒にいるのは、この暖炉のそばが一番多かった。
さて、と吐息をついた師匠が、エッタを見る。
「王都にある魔法学院から命令があって、あちらに戻らなければならなくなった。数日中に、ここを発たなければならない」
王都。
一瞬何を聞いたかわからなかった。
王の都、国の中央、王様の住むところ。
こんな山の中では、遠い異国かおとぎ話のなかのような言葉だ。
そこに、師匠が行く、いや師匠にしてみれば帰るのか。
どちらにせよ、ここからいなくなるのだという。
あと、ほんの数日で。
あまりに唐突な話で、ただ瞬きしかできない。
「後任もそれまでには来てくれるから、里のことは心配いらない。優秀で、腕のいい医師でもある」
話について行き切れないまま、こくんと頷く。
急に師匠がいなくなってしまったら、里の人たちはさぞ心細いだろう。
あとの人を師匠が知っていて、腕も確かだというなら、すこしは安心できるに違いない。
里の人は。
たしかに自分も『里の人間』ではあるけれど、いまは師匠の弟子で、だから師匠がいなくなってしまったら自分は里に戻るのか、それとも新しい『師匠』に弟子入りするのか?
―――それはいや。
ふっと浮かびあがってきた言葉を、自分で不思議に思う。
いやもなにも、わたしが選ぶことじゃないのに。
でも、家に戻れと言われるのも、次の師匠から学べと言われるのも、いやだと感じた。
「エッタ」
「はい」
自分をそう呼ぶのは、この『師匠』だけなのに―――。
「魔法学院へ行って学ぶ気はあるか?」
疑問形が来た。
「国中の、いや大陸中の魔法使いの学び舎だ。肌に合わないと思ったら、戻ってくることもできる。一緒に王都に行くかい?」
「でも……わたし、魔法の才能ない、ですけど……」
家でも次の師匠でもない、予想外の選択肢にエッタはやっとのことで返事をする。
そう、自分には魔法が使えない。
そんなこと、誰より師匠が一番よく知っているくせに。
「薬は精製できるだろう、使える魔法の種類が違うだけだ。学院なら、そちらを専門にした勉学もある。ここにいるよりもっと高い技術を学べる」
王都の魔法学院。
そこで師匠が学んだという話を、最初の頃に聞いた気がする。
でも、憧れるより先に、自分に才能がない事がわかってしまったから、今までほとんど関心を持っていなかった。
「わたしくらいの魔力でも、入れるんですか?」
「魔法学院は、一つでも秀でた魔法の才があれば受け入れる。エッタなら大丈夫だろう」
魔法学院に入る。
魔法使いの見習いとして。
たとえ薬師としてであっても、師匠のようになれるのかもしれない。
そう思うと胸の中がわき立つようだったが、エッタは唇を噛んだ。
「でも、父が」
ここには、エッタのただ一人の肉親がいる。
師匠に弟子入りはしたけれど、里は山のすぐ下だ。その気になればお互いいつでも顔を見ることができる。
王都に行くとなれば、何かあっても会うどころか連絡すらおぼつかないだろう。
それに、父親が否と言えば自分は逆らいきれない。
どちらとも選びがたくうつむいてしまったエッタの前に、師匠が小さな箱を置いた。
樫の木で作られたその箱は掌に乗る程度で、角も表面もよく磨き込まれている。
「お父さん……」
縁の飾り彫りから、表面を彩る細かな装飾まで、誰のものか言われなくてもわかる。
間違いなく、エッタの父親の手による細工だった。
開けてごらん、とうながされ開いた小箱の中には、古めかしいブローチが入っていた。
錫の地に小さな花がたくさんあしらわれた、地味だけれどかわいらしいブローチ。
生前の母もめったに取り出すことはなかった、祖母のそのまた祖母から伝わるという古いもの。
母が亡くなった時、父がこのブローチの隠しに母の髪をひと房しまっていたことを、エッタは覚えていた。
「エッタが望むなら、王都へ行くよう伝えてくれと言っていたよ」
師匠の言葉に顔を上げた瞬間、浮かび上がっていた物が睫毛の先からぽろりと落ちた。
行っていいと。
自分の作った小箱に、妻の形見を入れて。
これを持って、行って来いと。
―――そばにいる。遠くたって、いつもいっしょにいる。
不器用な人だったけれど、いつだって父はエッタのことを考えていてくれた。
師匠に弟子入りさせてくれたのも父だった。
だったら、今度だって。
「行きます」
小箱を掌で包み込んで、頷く。
「魔法学院で、もっと学びます」
いつかこの里に戻って、師匠みたいにみんなを守れるように。
しっかりと見つめ返した弟子の頭を、師匠は笑って撫でた。