光の都(1)
そう長い旅にはならない、と師匠は言った。
携行していくのは、当座の着換えと、数日分の携帯食。
日用の細々したものと、自分にとって大切なものいくつか。
結局一度も使わなかった銀貨。
母親の遺髪を収めたブローチをいれた、父から貰った小さな木箱。
平たく言って、自分の財産すべて。
それらの入った革の鞄を抱えて、エッタは乗合馬車に揺られている。
行き過ぎるのは、青く霞む山を遠景にした、どこまでも続く緑の野原。
どうしてこうなったのか。
ガタガタと振動を伝えてくる馬車の壁に頭をもたせかけて、声には出さずに唸った。
あの夜。
師匠が家に入ってくるまでに、それほど時間はかからなかった。
そして、戻ってきた師匠は、いつもとそれほど変わらなかった。
里の人たちなら、おそらく気付かない程度に。
残念ながら、三年一緒に暮らしているエッタにはわかってしまったけれども。
機嫌が悪い、というのとは、少し違う。
シチューを盛り分け、食事の支度をする弟子に、食卓に座った師匠は少し笑った。
「すまないな、怖かったろう」
「ううん、驚いただけ。大丈夫です」
怖かったのは、あの人じゃない。
でも、なんとなくそれを師匠に言うのははばかられた。
母親の死をまだ引きずっていると心配させたくなかったし、それに。
―――子供じゃあるまいし、お師匠様がいなくなると思っただけで泣くなんて。
何がそんなに怖かったのか、自分でもわからないのだから、わざわざ言う必要なんてない。
やや上滑りする気持ちのせいでパンを切る手に力が入ってしまったけれど、師匠は気付かなかったようだ。
いつもなら、そんな些細なことでも話の種にして軽口を言うのに。
どっちもどっちな夕食だった、と思う。
一見、ごくごく普通の食卓。
なのに、どちらも意図的にそうしているような奇妙な違和感。
普段の師匠なら、謝罪と一緒に頭の一つも撫ででくれたはずだ。
あの奇妙な知り合いのことも、少しは話してくれたかもしれない。
エッタも、遅いから心配したんですよ、程度のことは言うべきだったのかもしれない。
それに、いつものエッタだったら、第一印象が最悪でも師匠の知り合いなら夕飯を勧めるくらいのことはしただろうし。
そんなことに気を配っている余裕はなかった。
師匠も、何も言わなかった。
どちらも平静を装って、かえってよそよそしかった。
そしてお互いそれに気づかないまま夜が明けて、師匠は朝食のあと、里に下りると言って家を出たのだ。
「村長のところへ行ってくるよ。遅くはならないから、心配しなくていい。それから、昨日の奴は来ないとは思うが、もし顔を見せたらマノーに言って踏んでもらいなさい」
知り合いを羊に踏ませろという師匠もたいがいだが、一も二もなく頷いたエッタも同類である。
「今度は狙っていいんですね?」
エッタが右手に掲げた火かき棒を見て、師匠は意を得たりと笑った。
「存分に退治して構わんよ」
朝食の片付けに掃除洗濯、いつものように働くエッタのあとを、仔羊たちが物珍しげについて歩く。
時々洗濯物を引っ張ったりして邪魔をするのは御愛嬌だが、薬草の束に近づいた時は謹んで進路変更していただいた。
羊たちが晴れた昼日中に家にいることはめったにないから、お互い物珍しくて少し楽しい。
昼が来て、昼が過ぎ、空の色が少し変わり始めた頃、マノーが低く鳴いた。
洗濯物を片づけた庭で薬草を干していたエッタが顔を上げると、急な斜面のむこうで師匠が手を振った。
「マノーは目ざといわね。さすがお師匠様の一番弟子だわ」
えらそうに振り返る黒い頭を撫で、全然気付かなかったとぼやくと、羊が得意げに歩き出す。
エッタもついていって、師匠を出迎えた。
「おかえりなさい、お師匠様」
「ただいま、日暮れ前には帰れたな。やあマノー、エッタをありがとう」
いつもどおりの気楽さで羊の背を叩く師匠を見ながら、エッタは内心息を吐いた。
顔を見るまで師匠の無事が心配だなんて、これまでなかったことだった。
「まだ夕飯の支度をしていないんです。お茶を入れますか?」
「うん……」
夕餉には早い時間だから聞いてみたのだが、師匠の返答は歯切れが悪い。
「先に、ひとつ話がある。中に入ろう」
促されて入った扉の外に、マノーがまるで見張りのように寝そべるのが見えた。