なんの波乱もない暮らし(1)
わたしの師匠という人は、とにかく規格外な人だった。
衣食にはさほど不自由はなかったし、弟子としてはほぼ無能に近いわたしを可愛がってくれてはいたけれど、生まれ持っての性格か、それとも天才たるゆえんか、生半可な人物ではなかったと思う。
エッタ、とニ音でわたしを呼んだ赤い髪の師匠は、柳の枝で羊を追いながら、自分にくっついて歩く子供を振りかえった。
「人を呪わば穴二つ、と言うね。人を呪えばその呪いはいずれ自分に返ってくる、という意味だが」
当時、師匠の言うことを委細漏らさず頭に叩き込もうと、常に羽根ペンと羊皮紙の切れっぱしを握り締めていたわたしは、はい、とかなんとか真剣に頷いた気がする。
そんな弟子に、
「ということはさ」
師匠はいつものとらえどころのない視線を、わたしから、彼方にかすむ青い峰のほうに投げた。
「穴二つ掘る覚悟があれば、呪ってもいいんじゃないかなあ」
万事、そういう人だった。
弟子入り1ヶ月半目のその一件以来、師匠に対する尊敬の念というものをうっかり取りこぼしてしまったわたしは、それ以降の3年を世話係兼弟子、という半端な立場で過ごしていた。
師匠は家事に対する器用さを世間並ほどには持ちあわせていなかったから、恩師を差し置いて働くわたしをむしろ重宝がってくれたのだが、教えてもらった幾ばくかの知識が実は給金がわり、という実態なのだとしたら、さすがにちょっと物悲しい。
朝は日の出から、水汲みと掃除。
大麦のパンとチーズで朝食を取ったら、羊と山羊を山に追っていくのは師匠の仕事。
わたしは羊の毛を梳いて、紡いで、洗濯や繕いものや、食事の支度。
夕方近くなって師匠が帰ってきたら食事を摂って、師匠が道々摘んできた薬草をより分ける。
他愛もない話をしている間に夜になるから、明かりを使いすぎないように早々と就寝。
時々、わたしはどこに弟子入りしたのかと自問する。
「近在一の大魔法使い、アーデレオン様、よねえ」
わたしが預けられた『大魔法使い』は、子供の怪我や羊の乳腺炎を治したりはするものの、川を逆流させたり山を砕くような大魔法を使ったことはない。
一度だけ、大嵐で氾濫しかけた川を、村に来たばかりの師匠が鎮めたという話も聞いたけれど、わたしは死んだ母と一緒に避難していたからよく覚えていないし。
物語に出て来るような大魔法を使わないのか、と、師匠に聞いたことがある。
返答は、ちいさな笑みだった。
「川を逆流させたり、山を砕いたら、そこの生き物はどうするんだい?」
濃い青の目は静かだったけれど、あれは明らかに叱責だったと思う。
それ以降、わたしが師匠に魔法をねだったことはない。
わたしの魔法使いとしての能力が壊滅的で、薬草を煎じる程度しかできなかったことも、理由の一つではあるけれど。
羊を追って、野菜を作って。
時々訪ねてくる村の人たちに薬を渡す。
まれに師匠が急病人を診るために村に行くこともあるけれど、ほとんど二人きりの暮らし。
それがずっと、少なくとも、まだしばらくは続くと思い込んでいた。
変わることなど、想像もしなかった。