黒き少女の旅立ち
タイトル・あらすじを微修正しました。
——黒きを虐げし者には、黒き罰が与えられるだろう。
十五年前、神殿が運営する孤児院の前に、大量の金貨と共に捨てられた赤子がいた。
その国では見ることがない、漆黒の髪と瞳。そして、添えられていた手紙に書かれた文字に、赤子を見つけた神殿長は驚きを隠せなかった。
「……この子は過酷な運命を背負っているのだな」
負の象徴とも言われている“黒”を纏い、生みの親に捨てられた不憫な赤子。
置き去りにされたというのに、泣きもせずに神殿長を見つめる愛らしい赤子。
この状況に似つかわしくない大量の金貨は、せめてもの罪滅ぼしか。それとも、ただの“保身”か。
得体の知れない恐ろしさを感じながらも神殿長は誓う。
この赤子を不幸にはさせない、と。
「儂の命があるうちに、この子の居場所を見つけてやらねば——」
*
それから十五年の月日が経ち、「アイラ」と名づけられた赤子は孤児院ですくすくと育っていた。
ただ、その顔には表情がない。
この十五年、アイラが育った孤児院は規律が厳しかったために表立って迫害されることはなかったが、人の意識というのは簡単に変えられるものではなく。
「ほら、食事だ」
「今日の仕事はこの倉庫の整理だ。終わるまで外には出ないように」
孤児院の職員や神官たちは、極力関わらなくて済むように。
「ちっ、こっち来んなよ。気味わりぃ」
「本当に、いつ見ても不気味ね」
それなりの年齢になってから孤児院に入ってきた子供たちは直接的に。
アイラは、その“色”が原因で、孤児院内で孤立していたのだ。
『アイラ。お前の名前には「強さ」への思いを込めている。辛いこともあると思うが、どうか強く生きて自分の幸せを見つけてほしい』
五年前、アイラにとっての恩師だった前神殿長のシバが、老衰で亡くなる前に遺した言葉。
シバが亡くなってから、より顕著になった己への視線や暴言を、アイラはこの言葉を胸に耐え続けていた。
「強さって何だろう……」
今となっては誰も答えてくれない問いを、ポツリとこぼす。
倉庫の整理をしている間に、外からかけられた鍵。
廊下の拭き掃除をしている時にこぼされたバケツの水。
少し遅れるだけで食事は食べられてしまい、固くなったパンと薄いスープしか与えられない日もあった。
「私は……何で他の子と違うの……?」
アイラを抱きしめてくれたことがあるのは、シバだけだった。
職員たちは、他の子にするようにアイラに触れようとしない。
赤子の時から共に過ごしてきた子供たちですら、いつからかアイラを避けるようになった。
「私は……何?」
いつからか胸に宿る、説明のできない何か。
ムカムカして、モヤモヤして、心が落ち着かない。
「これは、何なんだろう」
自分でも理解できない“何か”を抱え、遺された言葉を辿る。
「強く、生きたい」
自分を優しく包んでくれた人へ、報いることができるように。
*
「なぁ、お前って呪われた子なんだろ?」
そんなある日、アイラにその言葉をぶつけたのは、最近入ってきたばかりの男の子だった。
黒を纏うアイラとは違う、綺麗なオリーブブラウンの色がよく似合っている。
「……なぁに、それ?」
「お前のその黒い髪も、黒い瞳も、呪われてるんだろ?」
「んー、わかんない。そうなの? だから、みんな私を嫌いになるの?」
「まぁ、呪われてる奴はみんなやだよな〜」
アイラよりも三つほど年下の少年は、何でもないことのようにそう言う。年下のはずなのに、この五年間まともに人と会話をしていないアイラに比べて口調がしっかりとしている。
「……そう思うんなら、私と話さない方がいいんじゃない?」
「何で? だって俺、お前のこと怖いとか思わねぇもん」
怖がるでも、蔑むでも、避けるでもない、真っ直ぐな瞳。
——そんな風に見つめられるのは、初めてのことだった。
*
ガシャーンッ
いつも通りの、騒がしくも穏やかな孤児院のお昼時。
けたたましい音が食堂に鳴り響いた。
「うっわ、最悪じゃん」
「えー何してんのー。まじ迷惑なんだけど」
その騒動の中心にいるのは、膝をついたアイラと、周囲に散らばった昼食の残骸たちだった。
「……」
午前の作業が終わり、珍しく余裕を持って食堂に来ることができたアイラはお盆に載せた食事を手に、空いている席へと向かっていた。
だがその足に何かが引っかかり、転倒してしまったのだ。
「ご飯……」
『アイラ。食事っていうのはね、たくさんの人の思いとあらゆる命をいただいているんだ。感謝の気持ちを忘れずに、決して無駄にしてはいけないよ』
その時、アイラの脳裏に浮かんだのは、シバの言葉。
胸に込み上げる、熱い“何か”。
アイラはゆっくりと立ち上がり、自分が転んだ場所を見つめる。
そのすぐ傍にはいつもアイラを蔑んでいる少年がいて、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべていた。
「あなたがやったの……?」
「は? 何もやってねぇよ。変な言いがかりつけてねぇで早く片付けろや」
その少年の声に便乗するように、周囲から野次が飛ぶ。
食堂にいる職員たちは誰も止めようとせずに見て見ぬふりをしていた。
「……うるさい」
だが、そのアイラの一言で食堂は静まり返った。
その場にいた者たちは皆声を出すことができなくなり、職員たちに至ってはまったく身動きが取れなくなっていたのだ。
声が出せないことに戸惑い、顔面蒼白になってもがく者たちに目もくれず、アイラは少年の前に立ち、もう一度問いかけた。
「あなたがやったの?」
少年は口をつぐんだまま目を見開き、首を横に振っている。
十六歳になると孤児院を出て自立しなければならないため、ここでは十五歳のアイラが最年長だ。
この少年はそれに次ぐ十四歳。いくら悪ぶっていても、まだまだ子供だ。見開いた瞳からは涙がこぼれていた。
「あれ、違うの? ならあなた?」
次は少年の隣にいる少女へと問う。
だが、少年と同じく涙を流し震える少女もまた、首を横に振るだけだった。
「えー……じゃあ、誰?」
他に怪しい人間がいないか、アイラは周りを見渡す。
恐怖に歪んだ表情で首を振る子供たちの中に、興味深そうに目を輝かせる少年——以前アイラに「呪いの子なのか」と直接聞いてきた少年、オルがいた。
他の子同様、アイラによって声を封じられているオルは、自分の口元を指さし「話せるようにしてくれ」と声なく伝えてきた。
「ぷはっ、お前すごいな! 全然声出せなかったよ」
「……すごくなんかない。何か言いたいことがあったんじゃないの?」
オルの声を戻すと、満面の笑みで称賛の言葉をかけられた。
恐れられることはあれど、褒めてもらえたことなどないアイラは、一瞬高鳴った心を誤魔化すようにそっけなく言葉を返す。
「あ、そうそう。そいつら嘘ついてるよ」
「っ!」
続けられたオルの言葉に、息を呑む音が聞こえた。
「どういうこと?」
「足を引っかけたのはその男。隣の女はそれを見てずっと笑ってたぞ」
「……そう」
そう、アイラが呟いた瞬間。
椅子に座っていた少年と少女が突然床に膝をついた。
「!?」
「食べて。床に落ちた物、全部」
「嫌だ」というように、必死に首を横に振る二人の顔が、何かに押されているように床へと近づく。
「食べ物は無駄にしちゃいけないの」
自分の分の食事を食べられた時、アイラは怒らなかった。
悲しかったし、固いパンは美味しくなかったが、食べ物が“無駄”になったわけではなかったから。
だけど今回は違う。床に散らばってしまった料理は、もうまともに食べることができない。それに、いくら恩師の言いつけであろうとさすがにこれはアイラも口に入れたくない。
「自分たちでやったことの後始末は、自分たちでしないと」
更に強く頭を押され、顔が床につきそうになった時。
食堂の扉が開き神官たちが入ってきた。
「何をしている!」
どうやら一人の少女が呼びに行ったらしい。ぞろぞろとやってきた神官たちの後ろで、その少女は隠れるように震えていた。
「これはどういうことだ?」
一人の神官が高圧的にアイラに詰め寄ってくる。
「足をかけて転ばされたので、床に散らばったご飯を片付けてもらおうとしてました」
「皆の声を出せなくしたのもお前か?」
「はい」
「何故そんなことをした」
「何故」と問われ、アイラは考える。
何故? なぜって——
「うるさかったから?」
ブッ
首を傾げながら答えるアイラの声に被せるように、誰かが吹き出す声が聞こえた。
声の主を探すようにアイラが振り向くと、オルが顔を隠して肩を揺らしている。
「何で笑ってるの?」
「だって、お前……っ、くくっ」
「笑いごとではないだろう!」
場にそぐわない二人の態度に先ほどの神官が怒鳴り声をあげた。
「くそっ! これだから忌み子は……っ」
「そこまでですよ、クロード」
神官が憎悪の視線をアイラに向けた時、後ろから現神殿長——クラウスがやってきた。
「アイラ。その力は使わない約束だったのでは?」
「……神殿長」
「何がそんなに“気に入らなかった”のです?」
いつもと同じ、落ち着いた声色と優しい笑顔で投げられた問いに、アイラはまた考えを巡らせる。
「何がって——」
「いやいやいや、神殿長さん。この状況でその質問は無いんじゃない? どう考えたって悪いのはそこの二人じゃん。気に入らなかった、とかじゃなくない?」
だけど、アイラが答える前にオルが言葉を被せてきた。
「あなたは——オルくん、でしたね。『この状況』とは、どういうことです? 私の目には、地面に這いつくばり散らばった料理に顔をつけようとしている二人の様子しかわからないのですが」
「だーかーらーぁ。その散らばった料理は、こいつらがアイラを転ばしたせいだって言ってんじゃん。アイラがそれを“気に入らない”って何なの? 逆に自分が転ばされた挙句に一食分の料理を台無しにされて、気に入る人間なんていんの?」
あまりにも無礼で率直なオルの言葉に、先ほどまでとはまた違う緊張が食堂に走る。
表面上は優しそうに見えるクラウスが、以前の神殿長のような「善人」だと思っている子供は少ない。皆、その笑顔の裏にある冷酷さに気づいているのだ。
「それは……確かにそうですね」
「だろー? 大体さぁ、ここの奴らってみんな酷くね? アイラへの嫌がらせとか、大人たち誰も助けてくれないじゃん」
「ほう……?」
オルのその言葉に、クラウスはクロードへと目を向ける。
「それは本当のことですか? 私には何も報告が上がっていませんが」
「そ、それは……っ」
先ほどまでの勢いはどこにいったのか、クラウスに問い詰められて狼狽えるクロードを横目に、オルは呆けた顔で成り行きを見守っていたアイラに声をかけた。
「アイラも、ようやくやり返したな。すげぇじゃん」
「え……?」
「やっぱりお前は強いな」
まだ幼い頃、感情のままに傷つけてしまった人たちがいた。
少し意地悪されただけで、少し冷たい目で見られただけで、悲しくて、泣いて。
周りの物が壊れたこともあった。
怪我をさせた人もいた。
その人たちとはそれっきり会えなくなって、謝ることもできなかった。
『アイラ。悲しいよな、辛いよな。守ってあげられなくてすまなかった。だけど、これから先、こういったことはたくさんあると思う。どうか、心を強く持っておくれ。お前の能力は特別だからね、使い道を誤ってはいけないよ』
その度に、シバがアイラを抱きしめながら宥めてくれていた。
その悲しい笑顔が見たくなくて、少しずつ感情を制御することを覚えた。
悲しませるのも、怯えられるのも、悲しいから。……それなのに。
「私、強いの?」
「ああ、すっげぇ強い!」
「私、怖くない?」
「怖くねぇよ。悪いの、あいつらじゃん」
自分の持つ能力を見せても、離れて行かない子がいた。
ずっとなりたかった「強い」をくれた。
嬉しくて、何だかむずがゆくて。
アイラは、自分でも知らずに微笑んでいた。
「……っ!」
周囲にいた誰もが驚いた。
黒い髪と黒い瞳で、いつも無表情のまま俯いていたアイラの笑顔を見たのは、初めてだったのだ。
漆黒だと思っていた瞳は、少しだけ浮かんだ涙の反射でキラキラと。普段は青白い肌が紅潮していて、頬がほんのりピンク色に。
少しの照れと喜びが浮かぶアイラの笑顔は、決して「忌み子」などではなく、愛らしい十五歳の女の子だった。
「アイラ、お前笑えるじゃん! 笑ってた方が絶対いいぞ!」
「え、そ、そう?」
「ゴホンッ」
そんな、ほのぼのとした甘い空気が漂いそうなところに、クラウスの咳払いが響く。
「一旦話を戻そうか。まず、そろそろ皆を自由にしてもらってもいいかな?」
すっかりと忘れていた周りの状況を思い出し、アイラの顔から表情が消えた。
いつも通りの淡々とした無表情のまま、「もういいよ」と解放する。
「さて、もう話せるようになりましたね? 二人とも、何か言いたいことはありますか?」
「……っ、神殿長! あいつがいきなり……!」
「そうよ! あの“呪われた子”が……っ」
「黙りなさい」
話せるようになった途端、アイラを罵倒し始めた二人の言葉をクラウスが遮る。
「あの子があなたたちに何かしましたか?」
「……何にもされてねぇけど」
「でも、気味が悪いじゃない」
「そうですか」
クラウスはそこで一旦区切り、ひとつ息を吐くとアイラへと向き直った。
「アイラ、申し訳ありません。私は君に随分と我慢を強いていたみたいです」
「え……?」
「シバ様から引き継いだ君のことを、見ているようで見ていなかった。その能力をただ抑えつけるだけで、君の心を蔑ろにしていたのですから」
突然の謝罪に戸惑うアイラに、クラウスは弱々しい笑顔を見せる。いつもの胡散臭い笑顔とは違うその表情に、アイラは初めて温度を感じた。
「では、今回の件を含む、孤児院の風紀問題についての聞き取りをします。クロードはこのままついて来なさい。君たち二人は、汚したところの清掃を終えたら私のところまで。食堂の職員たちも、仕事が終わり次第来るように」
「解散」と言うように、手を二回叩いてクラウスは食堂を後にした。
ぶつぶつと文句を言いながらも、ぞうきんを持ってきて清掃を始めた二人を一瞥し、オルがアイラの手を取る。
「ご飯もらいに行こうぜ」
「え、でも私の分は……」
「大丈夫だって。ね、おじさん?」
「あ、ああ」
以前は蔑むような視線を向け、固いパンと薄いスープしかくれなかった職員が、目を逸らしながらも温かな料理を出してくれた。
「ありがとうございます……」
「さ、座って食べようぜ。俺、すげぇ腹減ってんだよね」
「! うん!」
この五年間、アイラが誰かと食事を共にしたことはない。
同年代の子と、まるで友達のように一緒に食事を摂れることが嬉しくて、アイラの口元がまた緩んでしまう。
既に食事を終えていた者は早々に食器を下げ、食事中だった者は早く立ち去りたいとばかりに急いで残りを頬張る。そして、床には清掃をしている二人の少年少女。
決して穏やかとは言えない空気の中で、微笑んでいるのはアイラとオルだけだった。
*
その頃神殿長室では、クラウスが椅子に腰をかけ、目の前に立つクロードへの聞き取りをしていた。
「それで、どういうことなんです?」
「どう、とは……?」
「あなたたちは、アイラを虐げていたのですか?」
煮え切らない返答に苛立ち、一層低くなったその声にクロードの肩が大きく跳ね上がる。
「い、いえ! 虐げてなどおりません!」
「そうですか。では、アイラが他の子供たちに嫌がらせを受けていたことは知っていましたか?」
「それは、その……」
「知っていたのですね?」
みるみるうちにクロードの顔から色がなくなっていくのを見ながら、クラウスが詰めていく。
「何故止めなかったのです?」
「……っ、あの子は……忌み子なので……」
「嫌がらせを受けても仕方がない、と?」
「……はい」
クラウスはため息をついた。
神官という立場でいながら、迫害を赦してしまう意識の醜さに。
“黒”に関する根深い忌避の概念に。
……院内の歪みに、気づくことができなかった自分自身に。
「——黒きを虐げし者には、黒き罰が与えられるだろう」
「何ですか? それは……」
「アイラが捨てられた時に、添えられていた手紙に書かれていたそうです」
「!」
クロードは息を呑む。
その一文にある“黒”とアイラが瞬時に繋がったのだろう。冷たい汗が、背中を伝った。
「元々、この文が書かれていたのは歴史書の一節なんです。この国には魔法がないので歪んだ認識が根づいていますが、魔法のある国では黒髪や黒い瞳は魔力量が多い証とも言われているんですよ」
「では、“黒き罰”とは……」
「ええ。簡単に言うと、魔法の暴走ですね」
「そんなことって……」
そう。アイラは“忌み子”なのではなく、ただこの国には珍しく“魔力を持って生まれた”だけの普通の子供だった。
その魔力量が膨大だったことで両親に捨てられてしまった不憫な子供を、よりにもよって孤児院の関係者が蔑ろにしてしまっていたのだ。
「我々には……“黒き罰”が下るのでしょうか……」
「——いえ、それはないでしょう」
すっかりと色を失った唇を震わせながら紡ぐクロードの問いを、クラウスが否定する。
「シバ様は、幼い頃より何度も何度もアイラに言い聞かせていました。『心を強く持つように』と。昔は感情を上手く制御できずに何度か暴走していたようですが、シバ様が亡くなる二年ほど前には落ち着いていたみたいです。——なので、今回は本当に久しぶりでしたね。暴走、という感じでもなかったのでよっぽどアイラを怒らせてしまったんですね」
滅多なことでは感情を乱さなくなったアイラを怒らせた所業。もちろん直接的な発端はあの二人だが、そこまで助長させてしまったのは間違いなく大人たちの責任だ。
「ですが……っ、そんな事情があったのなら何故我々にも教えてくれなかったのですか! わかっていればもっとしっかりと……っ」
「黒きを蔑む者は黒きに縋ります」
「え、……?」
「これもまた歴史書に書かれている言葉です。きっと手紙を残したアイラの両親は“罰”の部分しか知らなかったのでしょうけれどね。……黒きは、その能力ゆえに悪用されてきた過去もあったんですよ」
そこで言葉を区切り、顎の前で手を組みながらクロードを上目で見る。
「“黒”というだけでアイラを蔑んでいた者が、“黒”を悪用しないと思いますか?」
クロードは何も答えられなかった。
浅はかな自分たちの浅ましい思考など、信用には値しないのだと言外に言われているのだ。
「——まぁ、分不相応にも与えられたこのポストの重圧で手一杯になってしまった挙句、シバ様との大切な約束を守れなかった私には……誰を責める資格もないんですがね」
自嘲するような表情を見せ、クラウスは目を閉じる。
「幸いにもシバ様は、ここを出た後のアイラの行き先を考えていらした。どうなるかと思っていたが……上手くいっているみたいで良かったです」
*
あの騒動の後、アイラは今までになく穏やかに過ごしている。
嫌がらせをする者はいなくなり、アイラへの当たりが強かった神官や職員たちはそのほとんどが姿を見せなくなっていた。
今まで経験したことのない、友人との時間はあっという間に過ぎていき——間もなく、アイラの十六歳の誕生日がきた。それは同時に、孤児院を卒業する日でもあった。
「アイラ、準備はできましたか?」
「はい、神殿長。長い間、お世話になりました」
ボストンバッグひとつを手に、見送りに来たクラウスへと別れを告げる。
「いえ……。私は、君に何もしてあげられませんでした」
——その悲しそうな笑顔は、昔シバがよくしていたものと同じだった。
懐かしさと共に浮かぶ形容しづらい感情に、アイラの心が揺れる。
「そんなことないです。神殿長は、私を見ようとしてくれました。……あの子たちにも、何か言ってくれたんですよね?」
アイラへの嫌がらせを率先して行っていた少年と少女は、その後すっかりと大人しくなっていた。何かをしてくることは無くなり、むしろアイラと目が合うことすらも避けるようになったのだ。
「ああ……まぁ、ちょっとしたお説教と、歴史書のお話を聞かせただけですよ」
ふふ、と顔を見合わせて笑い合っていると、「おーい」と誰かを呼ぶ声が聞こえた。
「アイラ、準備は終わったのか?」
「うん、終わったけど……わざわざ見送りに来てくれたの?」
「ん? まだ聞いてなかったか? 俺も一緒に行くんだよ」
「え?」
いつも着ている質素な服とは違う、上等そうな服に身を包んだオルが、「行くぞ」とアイラの手首を掴む。
「え、どこに行くの?」
「俺の国だよ。じぃさんからの頼まれごとだ」
「リオル様、少々お待ちください。アイラが混乱しております」
状況がまったく把握できていないアイラへ助け舟を出すように、クラウスは苦笑しながらオルを引き止めた。
「リオル様……?」
「アイラ。この方は、ここからずっと南にある魔法国、ケシェヴィアの第三王子・リオル様であられます。シバ様がケシェヴィアの前国王と旧知だったようで、あなたのことを相談していたそうで」
「え、王子様……? シバ様が……?」
アイラの恩師であるシバが、自分の行く末を心配してくれていることは知っていた。だが、情報が多すぎてアイラの頭は益々混乱してしまう。
「えっと、オルの本当の名前は『リオル様』? 王子様?——私、たくさん失礼な態度を……っ」
それでも、ひとつひとつ理解していくと同時に、ここ数ヶ月の自分のオルへの態度を思い出し、慌てて謝罪しようとしたところをオルによって止められる。
「失礼なことなんて何もされていないぞ。俺はさ、正直最初は面倒でしかなかったんだ。“黒”は確かに稀少だけど、わざわざ他国から保護する? って。だから、ちょっと意地悪しちゃった。ごめん」
「意地悪なんてされてな——……ませんよ?」
謝罪はできなかったが、せめて失礼がないように敬語に直したアイラを見て、オルがハハッと笑った。
「そういうとこだよ。わざわざ“呪われた子”なんて嫌な言葉をかけたのに、本当に気にしてないんだもんな。そんなお前だから、一緒にいてすげぇ楽しかった」
「私も、オルがいてくれて嬉しかったよ」
「だろ? だから、これからも一緒だ。じぃさんに頼まれたからでも、祖父様に言われたからでもなく、俺がお前と一緒にいたいから国に連れて行く」
オルの言葉が嬉しくて、だけど何て答えるのが正解なのかがわからず、アイラはすぐに返事をすることができなかった。
両親に捨てられ、周囲から忌み嫌われてきた自分が、王子様の傍にいられるわけがない。自分のせいでオルに迷惑がかかったら——そんなことを考えていると、オルが「アイラ」と名前を呼んだ。
「お前の力は、“呪い”なんかじゃない。“魔法”なんだよ。ケシェヴィアに行けばその力について勉強もできるし、上手く使えるようになったらもっと強くなれるぞ」
「強く、?」
「ああ! できることも増えるし、それを仕事にすることだってできるんだ」
それは、アイラにとってはこの上ない誘い文句だった。
「……私が一緒に行って、リオル様の迷惑にはなりませんか」
「なるわけないじゃん。あと、他に人がいない時は敬語もいらないぞ。普通に話してくれた方がいい。呼び方も、オルのままで」
オルが、いつもと同じようにニカッと笑う。
その笑顔に安心して、ようやくアイラは頷くことができた。
「……うん、行きたい」
「よし! まぁ、やだって言っても連れてったけどな」
そう、笑いながら伝えるオルを見て、アイラにも笑みが浮かぶ。
二人のやり取りをずっと見守っていたクラウスも、安堵の息を吐いた。
「良かったです、アイラが自らの意志で『行きたい』といってくれて。……この国は正直、アイラには生きづらいでしょう。ケシェヴィアならばきっと、今までよりもずっと息がしやすいと思いますよ」
「神殿長……」
「リオル様、どうかアイラをよろしくお願いいたします」
「ああ、任せてくれ。アイラが幸せに生きられるよう、尽力すると誓おう」
姿勢を正し、頭を下げる神殿長と、それに応えるオルの姿にアイラの瞳に熱が集まる。それは一粒の涙になり頬を伝い落ち、次第に止まらなくなってしまった。
「え!? どうしたアイラ! どっか痛いのか!?」
「アイラ? どうしました? 本当は行きたくないのですか?」
初めて見るアイラの涙に、慌てふためく二人が何だか可笑しくて、だけど涙が止まらなくて。
アイラは涙を流しながら笑い、「違うんです」と答える。
「二人の優しさが、嬉しくて。悲しいんじゃないのに、何でか涙が止まらないんです」
どんなに悲しくても涙などほとんど流したことのないアイラは、喜びに流す涙など知らない。
心に宿る温かな感情も、それがこみ上げてくる感覚も初めてなのだ。
「そ、そうか。嬉しい涙ならいいな」
「……ええ。最後にその表情が見られて、私も嬉しいですよ」
安心したように笑みを浮かべる二人に、アイラも笑顔で返す。
もうそこには、「無表情」と言われたアイラはいなかった。
「よし、じゃあそろそろ行くか。馬車も待たせてるしな」
「馬車、乗ったことない」
「これからは嫌になるほど乗ることになるぞ。船もな」
「船! 本でしか見たことないよ」
「ケシェヴィアがあるのは海の向こう側だからな。行きはつまんなかったけど、帰りはアイラがいるから退屈しなそうだな」
この後始まる、初めての旅への期待に、アイラの瞳がキラキラと輝いている。
「アイラ。……お元気で」
クラウスが、最後の声をかけた。もう二度と会うことはできないだろう娘に、最後の祈りを込めて。
「はい。神殿長も、お元気で」
そこで一旦言葉を区切ったアイラの耳元で、オルが何かを囁く。
するとアイラは少し照れたように、「あの」と言葉を続けた。
「いって、きます」
アイラが発した言葉にクラウスは一度息を呑み、「……いってらっしゃい」と返す。
その表情は、これまで見せたことがないほどに慈愛に満ちた、優しい笑顔だった。
そうして、二人はクラウスに背を向け、歩きだした。
「な? 言って良かっただろ?」
「うん!」
『嫌な思い出もたくさんあるだろうけど、もしここがお前にとっての“家”だったら、神殿長にはこう言ってみな——』
初めて言った、“家”を出る時の挨拶。
初めてかけられた、見送りの言葉。
「嬉しかった」
ふふ、と笑うアイラの笑顔に、オルも自然と笑顔になる。
「これからは楽しいことだらけだぞ、きっと」
「! 楽しみっ」
——十五年前、神殿が運営する孤児院の前に、大量の金貨と共に捨てられた赤子がいた。
実の両親がどうしているのかはわからない。
だが、その赤子は確かな愛を持って育てられた。
だからこそ、理不尽な苦しみを味わっても決して闇に堕ちることはなかった。
「闇属性」の魔力を持つ少女は、迎えに来た王子様と共に故郷を離れる。
その先にある“幸せ”を夢見て——
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
もし楽しんでいただけましたら、ブクマや評価、リアクションなどをポチッとしていただけると嬉しいです。
今後の糧になりますので、ぜひ感想もお待ちしております。




