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悲しみよこんにちは、そして

作者: トミヤマ
掲載日:2026/02/08

第一章 図書館

 図書館で、サガンの『悲しみよこんにちは』を手に取った。手に取っただけだ。すぐ棚に戻した。


 「悲しみ」に「挨拶」をするとは一体どういう状況なのか。気にはなったが、読む気にはなれなかった。


 タイトルからして、悲しみを不本意ながら受け入れる話だろう、と思った。今は悲しい話は読みたくないな、と思ってしまった。


 悲しい時は、あえて悲しい話を読んで思いきり泣くのも良し、逆に楽しい話を読んで無理に元気を出そうとするのも良し。ただ今の私の気分が後者だったというだけだ。


 なのに何故、件の本を手に取ったのか。それは今の私が悲しいからだ。今の私が、「悲しみ」に「こんにちは」している状態だと思ったからだ。


 先日、職を失った。業績不振による「派遣切り」という名の突然の解雇だった。三年間勤めた会社から、わずか一週間前の通告。人事担当者は申し訳なさそうな顔もせず、事務的に書類を差し出しただけだった。


 両親を失った。これはずっと以前のことなので、もう気持ちの整理はついている。十年前、父が病気で、五年前、母が後を追うように。天涯孤独という言葉が、まるで私のためにあるかのようだ。


 友人や恋人は、はじめからいない。正確に言えば、いたことはある。学生時代には。でも今は、連絡を取り合う相手は一人もいない。私が疎遠にしたのか、向こうが離れていったのか、もう分からない。


 無性に悲しくて、ここに来た。無理にでも楽しい気分になりたい気分だった。


 楽しい気分になれるのなら、映画でもなんでも良かったのだが、あいにく近所の映画館で放映されているのは、悲しみを誘う映画と、ホラー映画だけだった。とても楽しい気分になれそうにない。


 それなら本を、と思ったが、なかなか見つからない。


 タイトルだけで本の内容を推測するのは難しい。かと言って司書さんに「楽しい気分になれる本はありませんか?」なんて聞く勇気はなかった。三十二歳の女が、わざわざ図書館に来て、楽しい本を探している。そんな姿を想像すると、惨めで仕方がなかった。


 楽しげな本、楽しげな本、そう心の中で呟きながら書架の中を歩き回った。


 気づけば一時間以上もそうしていた。足が疲れてきた。でも座る気にはなれなかった。座ってしまえば、また現実が押し寄せてくる。動いている間は、考えなくて済む。


 どれもこれも洒落たタイトルばかりで内容が書かれていない。せめてあらすじを書いて欲しい。私は文庫本より単行本派だ。大きな本の方が文字が大きくて読みやすいからだ。文庫本にはあらすじが載っているのに、単行本には載っていない。希望としては、単行本にもあらすじを載せて欲しい。


 そう心の中で文句を垂れながら、私の書架歩きは続いた。何冊か手に取り中身をパラパラめくっては棚に戻す。そうやって時間を潰し、気持ちを整理しようとしていたのかも知れない。


 窓の外では、春の雨が降り始めていた。傘を持ってこなかったことを後悔する。でも、濡れて帰るのも悪くないかもしれない、とも思った。


 そうしているうちに一冊の本が目に入った。

タイトルは『わたしは誰?』。記憶喪失の話かと思った。悲しい話なら読みたくない。パラパラとめくってみる。特に記憶喪失の描写は出てこないようだ。


 ますます内容が気になった。不思議と目に止まり、不思議と気になる本、というものは、常にあるものだ。まるで本の方から、私を呼んでいるかのように。


 その本を借りることにして、受付カウンターに向かう。司書さんは若い女性だった。私と同じくらいの年齢だろうか。彼女は笑顔で本を受け取り、手続きを進めてくれた。その笑顔が、少しだけ眩しかった。


 手続きを終えて帰宅し、早速その本を読んでみる。


 主人公の女性は、たまたま私と同い年だった。彼女は自分の気づかない欠点を様々な人々から指摘され、自分が何者なのか分からなくなっていく。自分が思う自分と、他人から見た自分との乖離に怯えるようになる。楽しい話ではなかった。


 読みながら、何度も胸が痛んだ。主人公の不安が、まるで私の不安のようだった。私は何者なのか。派遣社員だった私。両親を失った私。友人のいない私。その「私」を取り除いたら、何が残るのだろう。


 だが、主人公の友人が「誰だって自分のことなんて自分では分かっていない」と言い、主人公の父が「自分のことは一生をかけて知っていくものだ」と言う。最後に主人公が「自分は自分でいい」と思えるところで終わった。読後感は良かった。


 本を閉じて、窓の外を見た。雨は上がっていた。夕暮れの空が、少しだけ明るく見えた。

 この本を、借りて良かったのかといえば微妙だが。


 もっと楽しい話はないのか。私の図書館通いはそうして始まった。


 もっともっと楽しい話を求めて。楽しくて胸がすく話がいい。そんな本があればいい。


 次の日も、その次の日も、私は図書館に通った。失業中の身には時間だけはたっぷりあった。就職活動をしなければならないことは分かっていた。でも、まだ少しだけ、現実から逃げていたかった。


 思い切って司書さんに尋ねたら、ライトノベルの異世界転生ものを勧められた。


 「最近人気があるんですよ」と、笑顔の司書さんが言った。「冴えない主人公が一度死んで異世界に転生する。異世界では主人公はチート能力があり、主人公は異世界で無双状態になる。もしくは、同じく冴えない主人公が異世界転生して、美女に生まれ変わり、素敵な王子様と結ばれる話」。


 確かに、私が求めている内容と合致する。だが私は子どもの読む本ではなく、大人が読む本が読みたかった。ライトノベルは子どもの頃に卒業したつもりだ。


「ありがとうございます。でも、もう少し探してみます」


 そう答えて、また書架の間を歩き始めた。




第二章 出会い

 三週間が過ぎた。


 貯金は確実に減っていた。家賃の支払いが迫っている。ハローワークからは何通か求人の案内が届いていたが、どれも開封する気になれなかった。


 図書館は相変わらず私の避難所だった。朝、開館と同時に入り、夕方、閉館まで本を探し続けた。時には読書スペースで実際に本を読んだ。楽しい本、元気になれる本、そんな本を求めて。


 でも、見つからなかった。いや、正確に言えば、見つけてもそれは本当に私が求めているものではなかった。コメディは薄っぺらく感じ、ハッピーエンドの恋愛小説は現実離れしすぎていて、冒険小説は私には関係のない世界の話に思えた。


 ある日の午後、いつものように書架の間を歩いていると、誰かとぶつかりそうになった。


「あ、すみません」


 相手は男性だった。四十代くらいだろうか。少し猫背で、古びた茶色のセーターを着ていた。眼鏡の奥の目は優しそうで、手には何冊かの本を抱えていた。


「いえ、こちらこそ」


 彼は軽く頭を下げた。その拍子に、抱えていた本の一冊が床に落ちた。


 私は反射的にそれを拾い上げた。『孤独について』というタイトルだった。


「ありがとうございます」


 彼は本を受け取りながら、少し照れくさそうに笑った。


「あの……よくここにいらっしゃいますよね」


 突然の言葉に、私は驚いた。


「え?」

「いや、その、見かけたことがあるなと思って。失礼なことを言ってしまったかもしれません」


 彼は慌てて付け加えた。不審者ではないようだった。ただ、社交的ではない人なのだろう。それは私も同じだった。


「いえ、最近よく来ているので」


「そうですか。私も毎日のように来ているんです。定年退職して、することがなくて」


 彼はまた照れくさそうに笑った。

 沈黙が流れた。気まずい沈黙ではなかったが、かといって会話を続ける理由もなかった。


「それでは」


 彼がそう言って立ち去ろうとした時、私は思わず声をかけていた。


「あの、楽しい本を探しているんですけど、何かおすすめはありませんか?」


 自分でも驚いた。司書さんにさえ聞けなかったことを、見知らぬ人に聞いている。


 彼は立ち止まり、少し考えるような顔をした。


「楽しい本……難しいですね。楽しさにもいろいろありますから」

「そうですよね」


 私は諦めかけた。でも、彼は続けた。


「でも、一つ思い出しました。『夜は短し歩けよ乙女』という本はご存知ですか?森見登美彦さんの」

「いえ、知りません」

「京都を舞台にした、不思議で楽しい恋愛小説です。読むと元気が出ますよ。少なくとも、私はそうでした」


 彼の目が、少しだけ輝いて見えた。


「ありがとうございます。探してみます」

「いえいえ。それでは」


 今度こそ、彼は立ち去っていった。

私はその本を探した。すぐに見つかった。表紙は明るい色で、確かに楽しそうだった。借りて帰り、その夜、一気に読んだ。


 確かに楽しかった。不思議な世界観に引き込まれ、登場人物たちの奇妙な冒険に笑った。久しぶりに、本を読んで笑った。


 でも、読み終わった後、また寂しさが戻ってきた。楽しい時間は終わり、現実が戻ってくる。明日もまた、何もない一日が始まる。


 それでも、少しだけ前に進めた気がした。




第三章 繰り返す日々

 次の日も図書館に行った。あの男性に会ったら、お礼を言おうと思っていた。

 でも、彼の姿はなかった。

 代わりに、司書さんが声をかけてきた。


「何かお探しですか?」

「いえ、大丈夫です」


 そう答えながら、私は気づいた。彼女は毎日私を見ている。毎日同じ時間に来て、同じように本を探している私を。


「あの……」


 司書さんが少し躊躇いがちに続けた。


「もしよければ、読書会があるんです。月に一度、ここで開催していて。次回は来週の土曜日です」


「読書会……」


「参加者は五、六人くらいです。年齢層は様々で。一冊の本について語り合ったり、おすすめの本を紹介し合ったり。もしご興味があれば」


 人と話す。それは、この三週間で最も避けてきたことだった。でも、同時に、少しだけ惹かれる自分もいた。


「考えてみます」

「はい、いつでもお声がけください」


 司書さんは優しく微笑んで、カウンターに戻っていった。


 その日の夕方、また例の男性に出会った。今度は閲覧スペースで、彼は静かに本を読んでいた。


「あの」


 声をかけると、彼は顔を上げた。


「ああ、この前の」


「『夜は短し歩けよ乙女』、読みました。とても楽しかったです。ありがとうございました」

「それは良かった」


 彼は心から嬉しそうに笑った。


「森見登美彦さんの他の作品もおすすめですよ。『太陽の塔』とか、『有頂天家族』とか」

「探してみます」


 また沈黙が訪れた。でも今回は、私から話を続けた。


「あの、失礼ですが、毎日ここに来られているんですか?」

「ええ、まあ。家にいても、することがなくて。妻は三年前に亡くなりまして、子どもは独立して。一人暮らしなんです」


 彼は淡々と話した。悲しそうでもなく、寂しそうでもなく。ただ、事実として。


「そうですか……」


 私は何と言っていいか分からなかった。


「あなたも、毎日来られていますよね」

「ええ。今、仕事を探していて。時間があるので」


 嘘ではなかった。仕事は探さなければならない。ただ、まだ本格的には始めていないだけで。


「そうですか。大変ですね」


 彼は同情するでもなく、励ますでもなく、ただそう言った。その距離感が、心地よかった。


「来週、読書会があるそうですね」


 なぜそんなことを言ったのか、自分でも分からなかった。


「ああ、はい。僕も毎月参加しています」

「どんな感じなんですか?」

「和やかですよ。本が好きな人たちが集まって、好きなことを話す。それだけです」


 それだけ、か。


「参加してみようかな、と思っていて」

「それはいいですね。きっと楽しいですよ」


 彼はそう言って、また本に目を戻した。


 私はその場を離れ、書架の間を歩いた。読書会、か。人と話すのは怖い。でも、同時に、少しだけ期待している自分もいた。


 家に帰り、携帯電話を見た。着信はゼロ。メールもゼロ。SNSも開かなくなって久しい。


 窓の外を見ると、また雨が降り始めていた。春の雨は、いつも突然降る。


 ベッドに横になり、天井を見つめた。


 『悲しみよこんにちは』、か。

サガンの本を、いつか読んでみようか。そんなことを考えながら、目を閉じた。




第四章 読書会

 土曜日が来た。


 朝から何度も気が変わった。行こうか、やめようか。服は何を着ていこうか。いや、そもそも行くべきではないのではないか。


 結局、いつもと同じ紺色のカーディガンとジーンズを着て、図書館に向かった。特別な日ではない。ただの読書会だ。そう自分に言い聞かせた。


 図書館に着くと、二階の会議室に案内された。ドアの前で立ち止まる。中から笑い声が聞こえた。楽しそうな声。私はそこに入っていいのだろうか。

 深呼吸をして、ノックした。


「どうぞ」


 司書さんの声がした。


 ドアを開けると、六人の人たちがテーブルを囲んでいた。例の男性もいた。彼は私を見て、軽く手を上げた。


「初めての方ですね。ようこそ」


 六十代くらいの女性が立ち上がって、私を迎えてくれた。ふくよかな体型で、優しそうな笑顔だった。


「どうぞ、こちらへ」


 司書さんが空いている椅子を示してくれた。私は緊張しながら座った。


「自己紹介をお願いしてもいいですか?」


「あ、はい。えっと、三十二歳で、今は……仕事を探しています。本が好きで、よくこの図書館を利用しています」


 簡潔すぎる自己紹介だった。でも、それ以上何を言えばいいのか分からなかった。


「そうですか。私は田村と申します。主婦をしています」


 最初に話しかけてくれた女性が言った。


「私は大学生の鈴木です。文学部です」


 若い女性が続けた。二十歳くらいだろうか。長い黒髪を後ろで結んでいた。


「高校教師の佐藤です。国語を教えています」


 四十代くらいの男性。穏やかな雰囲気だった。


「井上です。定年退職して、毎日が日曜日です」


 例の男性が照れくさそうに笑った。


「会社員の山田です。営業をしています」


 三十代後半くらいの男性。スーツ姿だった。


「図書館司書の木下です。進行役を務めさせていただきます」


 いつもの司書さんだった。


「今日のテーマは『最近読んで心に残った本』です。一人ずつ紹介していただいて、それについて自由に話し合いましょう」


 木下さんがそう言って、読書会が始まった。


 最初は田村さんだった。


「私は『西の魔女が死んだ』を読みました。孫娘が祖母との思い出を振り返る話なんですけど、とても温かくて。祖母の言葉一つ一つが心に染みました」


 彼女は本を手に取りながら、目を細めた。


 「私も読みました」と鈴木さんが言った。「あの、『魔女』というのが比喩的な表現で、実際は普通のおばあちゃんなんですよね。でも、孫娘にとっては特別な存在で」。


「そう、そうなんです。特別な存在。誰にでも、そういう人っていますよね」


 会話が自然に流れていく。私は黙って聞いていた。


 次は佐藤さん。


「僕は村上春樹の『海辺のカフカ』を久しぶりに読み返しました。何度読んでも新しい発見がある。生徒たちにも勧めているんですが、難しいと言われますね」


「村上春樹は好き嫌いが分かれますよね」と山田さんが言った。「僕は『ノルウェイの森』は好きでしたけど、『海辺のカフカ』は途中で挫折しました」


 「分かります」と井上さんが笑った。「僕も何度か挑戦したんですが、あの独特の世界観についていけなくて」


 みんなが笑った。批判ではなく、ただの感想として。それが心地よかった。


 鈴木さんは『蹴りたい背中』を、山田さんは『下町ロケット』を紹介した。


 そして井上さんの番になった。


「僕は『ツバキ文具店』という本を読みました。代書屋さんの話なんですが、温かくて、優しくて。読んでいると、手紙を書きたくなります」


 「代書屋さん?」と私は思わず聞いていた。


「ええ、他人に代わって手紙を書く仕事です。今はメールやLINEの時代ですから、古い仕事ですよね。でも、この本を読むと、手書きの手紙っていいなと思えるんです」


 井上さんの目が輝いていた。


 「最近、手紙なんて書いてないですね」と田村さんが言った。「年賀状くらいかしら」。


 「でも、手紙をもらうと嬉しいですよね」と鈴木さん。「祖母から時々手紙が来るんです。メールもできるのに、わざわざ手書きで。それが嬉しくて」。


 会話がまた自然に流れていく。


 そして私の番になった。


「あの……私は『夜は短し歩けよ乙女』を読みました」


 井上さんが嬉しそうに顔を上げた。


「森見登美彦さんですね。どうでしたか?」


「とても楽しかったです。久しぶりに、本を読んで笑いました」


 そう言って、私は少し詰まった。


「最近、楽しい本を探していて。でも、なかなか見つからなくて。この本は……その、井上さんに教えていただいたんです」


 「そうでしたか」と田村さんが優しく言った。「楽しい本、いいですよね。私も辛い時は、楽しい本を読みたくなります」


 「でも」と佐藤さんが続けた。「楽しい本を探している時って、実は心が何かを求めているサインかもしれませんね」。


 「どういうことですか?」と鈴木さん。


 「楽しさだけじゃなくて、何か別のもの。安らぎとか、希望とか、繋がりとか」


 佐藤さんの言葉が、胸に刺さった。


 「そうかもしれません」と私は小さく言った。


「本当は、何を探しているのか、自分でもよく分からないんです」


 沈黙が訪れた。でも、それは気まずい沈黙ではなかった。


 「それでいいんじゃないですか」と井上さんが言った。「探しながら、見つけていけば」。


 「そうですよ」と木下さんが微笑んだ。「本を読むって、そういうことだと思います。答えを探すんじゃなくて、問いを深めていく」。


 私は頷いた。言葉にならない何かが、喉の奥にあった。




第五章 変化の兆し

 読書会は二時間続いた。


 最後にお茶を飲みながら、雑談をした。田村さんは孫の話を、鈴木さんは大学の話を、山田さんは仕事の愚痴を、佐藤さんは生徒たちのエピソードを話した。


 私は主に聞いているだけだった。でも、それが心地よかった。人の声を聞く。人の笑顔を見る。それだけで、何かが満たされていく気がした。


「また来月も来てくださいね」


 田村さんが帰り際に言った。


「はい、ありがとうございました」


 本当に、また来たいと思った。

 図書館を出ると、井上さんが待っていた。


「あの、よろしければ、少し話しませんか?」


 彼はそう言って、近くのカフェを指した。

 少し迷ったが、頷いた。


 カフェは小さくて、静かだった。窓際の席に座り、コーヒーを注文した。


 「今日は来てくださって、ありがとうございました」と井上さんが言った。


「いえ、こちらこそ。楽しかったです」


「本当ですか?」


「はい」


 井上さんは安堵したように微笑んだ。


「実は、読書会に初めて参加した時のこと、覚えているんです。一年前でした。妻が亡くなって半年くらい経った頃で」


 彼はコーヒーカップを両手で包みながら続けた。


「毎日が辛くて。家にいると、妻のことばかり考えてしまって。それで図書館に通うようになったんです。あなたと同じように」


 私は黙って聞いた。


「木下さんに読書会を勧められた時、最初は断ろうと思いました。人と話すのが怖かった。でも、参加してみたら……救われました」


「救われた?」


「ええ。本について話すって、自分について話すことなんだと気づいたんです。どんな本が好きか、どんな言葉に心を動かされるか。それを話すことで、自分が何を求めているのかが見えてくる」


 井上さんの言葉は静かだったが、確信に満ちていた。


「あなたは今、楽しい本を探している。でも、本当に探しているのは、楽しさじゃないかもしれない」


「じゃあ、何でしょうか……」


「それは、あなた自身が見つけることです。でも、一人で見つける必要はない。本が教えてくれる。そして、人が教えてくれる」


 彼はそう言って、コーヒーを一口飲んだ。


「僕が『ツバキ文具店』を読んで感じたのは、繋がりの大切さでした。人と人との繋がり。言葉による繋がり。それがあれば、人は生きていけるんだと」


 私は何も言えなかった。ただ、涙が出そうになった。


「失礼なことを言ったかもしれません」


「いえ、そんなことは」


 私は慌てて首を振った。


「ありがとうございます。考えてみます」


 井上さんは優しく微笑んだ。

 カフェを出て、別れ際、彼は言った。


「また図書館で会いましょう。そして、来月の読書会も」


「はい、必ず」


 そう答えて、私たちは別々の方向に歩いていった。


 家に帰り、本棚を見た。『わたしは誰?』と『夜は短し歩けよ乙女』が並んでいた。


 私は何を探しているのだろう。


 楽しさ?希望?それとも──。


 携帯電話を手に取った。ハローワークから届いていたメールを、初めて開いた。三件の求人情報。どれも事務職だった。


 すぐに返信する気にはなれなかった。でも、少なくとも開くことはできた。それだけでも、進歩だと思った。


 窓の外を見ると、夕焼けが広がっていた。春の夕暮れは、どこか切なくて、でも美しい。


 ふと、サガンの『悲しみよこんにちは』のことを思い出した。


 今なら、読めるかもしれない。


 そう思って、メモに書き留めた。次に図書館に行ったら、借りてみよう。


 悲しみに挨拶をする。それは、悲しみを受け入れることなのかもしれない。逃げるのではなく、無理に追い払うのでもなく。


 ただ、「こんにちは」と言ってみる。


 そこから、何かが始まるかもしれない。

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