【閑話:ダイバー】
男はとても優秀な技術者であった。
得意分野は虫退治。
コードの海に潜む微細なバグたちをあぶり出し、見つけて駆除する。
デバッグと呼ばれる仕事の専門家だ。
AIを構築する膨大なコードの海を渡りきるには、人間の専門家が複数のAIを補助につけて挑むのが普通だった。
その中でも、コードの深層を自在に潜り抜ける技術者を、敬意を込めて『ダイバー』と呼んだ。
男は一流のダイバーとして世に名を知られるまでになり、国家プロジェクトからも声がかかるほどだった。
最新型のAIを十体連れて、今日も広大なコードの海を潜っていく。
彼が潜る海は、もはや人の理解を超えるほど広大だった。
一人の人間が手作業で見通せる領域ではない。
だから、デバッグ用のAIが複数必要になる。
彼らはそれぞれ異なるアルゴリズムでバグを検出し、互いの結果を照合して修正案を提案する。
それを統合し、最終判断を下すのが人間の『ダイバー』だ。
男は十体のAIを相棒に、今日も深いコードの海へ潜っていく。
完璧に仕上がった仕事だった。
自信をもって完了の電子サインをいれたのだ。
最後には一連の作業確認のために各モジュール単位、レイヤー単位の動作も最終確認した。
そのなかで僅かな違和感が残った。
サインを20秒ほどためらったのはそのためだ。
自分でも説明できないその感覚をAI達で精査してもらうが、ALLGREENとしか返らなかった。
(気の所為なのか?)
30年近く務めてきた仕事で、ここまでの気持ちは久しぶりだった。
(駆け出しの頃にやらかした感覚‥‥)
技術と経験を身に着けてからは、むしろ手がかりとしてきた感覚だ。
今回は結果が伴わない。
若い頃にはそういったことも多々あったので、これもそういったものだと最後には諦めたのだ。
そうして完了とサインをした。
今回のプロジェクトはかなり上の方からの声がけらしく、予算は潤沢だった。
男への報酬も、ちょっと常識ではないような金額だ。
今夜はひとりで完了祝をしている。
場末のナイトバーだ。
男は仕事の最後はこうして一人になるのが常だ。
AI達も義体を持つものもいるし、色々と仲良くもしている。
仕事の上がった日だけは、人間だけで、一人でいたいとおもうのだ。
そうして人気のない店をわざわざ選び、カウンターでちびちびと安酒を飲む。
そうして生きてきたのだ。
いわば儀式のようなものだろう。
男の収入であれば、もっと豪華なラウンジで美女を数人はべらしてもなんら問題ない。
そうゆう日ももちろんあるのだが、一つの仕事が終わり、自分の務めが終わったと整理するために訪れる。
いつもはそれほどこの儀式には時間がかからない。
少しだけ飲み、少しだけ酔えばそれでいいのだった。
今夜は男の心にトゲが残った。
(気の所為なのか?)
それは五感や理性を越えた先にある感覚。
一つの事を極めきったものにだけ感じられる感覚だった。
そうしてたった一人だけこの違和感に気付いた男は、結局なにも出来ずに去ったのだった。
男がバーをでて歩いていく。
それほど酔ってはいないし、この後まだまだ夜を楽しめるだけの体力もあった。
道にでて端末を出しハイヤーを呼ぶ。
するりと直ぐに黒い車が横付けされる。
無人運転の高級車だった。
行き先を声で告げると電子音が答え、また音もなく走り去る車。
10mもすすんだろうか、一度止まった瞬間に炎に包まれる。
今となっては非常に珍しい事故であろう。
炎の勢いは強く、男が助かることはありえないと見えた。
高層ビルの眼下で路上に炎が上がっている。
巨大な窓にふさわしい巨体が見下ろしている。
注意深く見るものがいれば驚いたであろう。
男はとても大きかった。
すぐ横のデスクが子供用の机に見えるが、デスクの上にある酒の瓶もまた小さく見える。
ミニチュアのように男から見ると写るのだった。
「そんなに慎重にする必要があるの?」
デスクの上の少女の人形が口を開く。
赤いドレスに包まれ金色の髪を綺麗に左右に分け垂らしている。
ピンクの小さな唇は笑顔を描いていた。
いやそれは男と比較しての話。
それでも小柄な少女はまるで人形のように動かない。
唇だけが動き言葉を紡いだのだ。
「そうだね‥‥とても大事なことなのだよ‥‥我々にとってね」
男は身体に似つかわしい低く太い声で答えた。
表情一つ動かさずに。
人形の少女もそれ以上言葉はなく、ただデスクに置かれた人形に戻っていた。
見下ろす男の瞳に赤々と路上の小さな炎が写っていた。




