第八話:愛の形
「もう一度、彼女に会ってみます。きっと手がかりがあるはずです」
「ああ。付き合おう」
放課後、結衣と高遠は理科室に来た。準備室に置かれた人体模型の前に立つと、結衣は改めてその顔を見つめる。そして、彼女の意識は再び、人体模型の中に吸い込まれていった。
「……助けて……」
薄暗い空間に、彼女の声が響く。
「今度こそ、あなたを助けに来ました!」
結衣がそう叫ぶと、女性の姿は、黒い糸に絡まれ、苦しそうに身悶えした。
「……憎しみが……私を……!」
女性の声は、悲しみと憎しみが混ざり合い、もはや、言葉を紡ぐことすらできないようだった。結衣は、そんな彼女の姿を、ただ見ていることしかできなかった。
「どうすれば、いいの……」
結衣の心臓が、恐怖で早鐘を打つ。その時、彼女の意識の中に、高遠の声が聞こえてきた。
「……大丈夫だ。君の信じる道を、まっすぐ進んでほしい」
高遠の声は、結衣の心に、深い安心感を与えた。
「憎しみは、君の五感を欺く。だが、君の、悲しみに寄り添う力は、その欺きを見抜くことができる」
高遠の言葉に、結衣は、人体模型の中で、もう一度、女性と向き合う。そして、彼女が苦しんでいる、憎しみの根源に、彼女自身の心で、触れようとした。
「……私に、できること……」
結衣がそう呟いた瞬間、彼女の意識は、全く別の場所へと引き込まれた。
それは、理科室だった。しかし、そこにいるのは、結衣ではない。一人の男子生徒が、白衣を纏い、何かを熱心に研究している。彼の顔は、苦しみに満ちていた。そして、その背後には、彼を嘲笑うように、悪意に満ちた影が、蠢いていた。
「この憎しみは、私を苦しめている……!」
少年の声が、結衣の心に響く。そして、結衣は、その少年の顔に、見覚えがあることに気づいた。
「……まさか」
その少年は、高遠が言っていた、この学校の過去の事件に関わる人物だった。
「高遠先生、あの女を捉えている原因はこの学校にいた男子生徒です。白衣を着ていて理科室で熱心に研究していました」
結衣の言葉に、高遠の表情がこわばった。その瞳には、深い驚きと、そして、かすかな希望が宿っていた。
「! ……名前は?」
「確か名札には……佐伯 悠真……と書かれていたような……」
結衣の言葉を聞いた瞬間、高遠の顔から血の気が引いた。彼は、まるで幽霊でも見たかのように、その場で立ち尽くした。
「……悠真……」
高遠の声が、震えている。結衣は、彼の様子に、ただならぬものを感じた。
「高遠先生、佐伯悠真って、知り合いなんですか?」
結衣の問いに、高遠は何も答えることができなかった。彼は、目を閉じ、深い悲しみに満ちた表情で、過去の記憶をたどっているようだった。
「……悠真は、俺の、大切な、親友だった」
そう言って、高遠はゆっくりと口を開き、過去の出来事を語り始めた。
「悠真は、この学校の理科室で、天才的な頭脳を持った研究者として知られていた。しかし、彼は、邪悪な力に魅了され、その力を使って、死者を蘇らせようとしていた」
高遠は、苦しそうに言葉を紡いだ。
「俺は、彼を止めようとした。しかし、俺の力は、悠真を蝕む邪悪な力には、及ばなかった。そして、悠真は……研究の最中に、命を落とした」
高遠の言葉は、結衣の心を締め付けた。
「あの時、俺は、悠真を助けることができなかった。そして、彼を蝕んでいた悪霊は、彼の死後も、この学校に留まり、悲しい魂たちを、憎しみで支配しようとしている。……そして、その魂の中には、美術室の絵に囚われていた、あの女性も含まれている」
高遠の瞳には、深い後悔と、そして、結衣に対する、強い使命感が宿っていた。
「この七不思議は、君が思っているよりも、ずっと根深いものだ。だが、君の力で、悠真の憎しみを乗り越えることができれば……」
高遠の言葉は、そこで途切れたが、結衣には、その先に続く言葉が、はっきりと聞こえた気がした。
「……悠真を、そして、この学校を、救うことができる」
「佐伯悠真くん……どうしたら、彼に会うことができるんだろう」
昨晩の高遠の様子を思い出す。人体模型の呪いの原因はわかったけれど、問題はどうやって佐伯悠真に会うかだった。
結衣は、人体模型が置かれた準備室で、一人考え込んでいた。悠真の魂は、この学校の理科室に、強い憎しみとなって留まっている。そして、その憎しみが、他の悲しい魂たちを、この場所に縛り付けている。
「……私の力で、彼に会うことはできないのかな」
結衣の心に浮かんだのは、高遠の言葉だった。
「憎しみは、君の五感を欺く。だが、君の、悲しみに寄り添う力は、その欺きを見抜くことができる」
結衣は、静かに目を閉じた。そして、心の中で、佐伯悠真の悲しみに、寄り添おうと試みた。
しかし、そこに悲しみはなかった。あるのは、冷たく、硬い、憎しみだけだった。彼の心は、誰にも触れられない、氷の壁で閉ざされているようだった。
「……無理だ」
結衣は、そう呟き、諦めかけた。
その時、彼女の脳裏に、高遠が言っていた言葉が蘇る。
「君の力が、この学校の、そして、君自身の、未来を決めることになる」
結衣は、もう一度、目を閉じた。
(憎しみを解くには、まず、その憎しみの根源を知らなければならない)
彼女は、佐伯悠真の心に、直接触れることはできない。しかし、彼の憎しみを理解することはできるはずだ。
「……私は、諦めない」
結衣は、そう心に決め、再び、人体模型に触れた。彼女の意識は、人体模型の中に吸い込まれ、そして、佐伯悠真の、過去の記憶へと、導かれていく。
彼が理科室で、一人、研究に没頭していた、あの日の記憶へと。
佐伯悠真がなぜ自ら命を絶ち、呪いとなりここに縛り付けられることになったか。それを知らなくてはならない。
結衣は理科室で佐伯の姿を探した。前に見たのと同じ席で、彼は熱心に実験を行っているところだった。
「佐伯くん……」
結衣は、彼の背中に、そっと声をかけた。
しかし、彼の耳には、結衣の声は届いていないようだった。彼の周りは、まるで結界が張られているかのように、結衣のいる世界から隔絶されていた。
結衣は、彼の研究を、静かに見守ることにした。彼の顔は、喜びと、そして、かすかな焦りに満ちていた。彼は、何かを完成させようと、必死になっているようだった。
やがて、彼は実験を終えると、満足そうに微笑んだ。しかし、その微笑みは、すぐに悲しみに変わる。彼の目の前には、白衣を着た、見慣れない男が立っていた。
「……佐伯くん、きみは間違っている。その研究は、この世の理に反している」
男の声は、冷たく、そして、厳しかった。
「そんなことない! 僕は、彼女を……僕の愛する人を、救いたいだけなんだ!」
佐伯は、悲痛な叫びを上げた。彼の瞳には、絶望と、そして、怒りが宿っていた。
「死者を蘇らせるなんて、できるはずがない。きみは、邪悪な力に騙されているんだ」
男はそう言うと、佐伯の研究資料を、すべて、床に叩きつけた。
「やめてくれ……! これは、僕の、たった一つの希望なんだ!」
佐伯は、必死に男に食い下がった。しかし、男は、佐伯の言葉を聞くことなく、彼の研究資料を、一つ、また一つと、燃やしていく。
「……許さない……」
佐伯は、燃え盛る研究資料を、ただ見つめていた。彼の瞳は、絶望と、そして、憎しみに満ちていた。
そして、彼は、自らの手で、命を絶った。
その瞬間、結衣の意識は、真っ暗な空間へと引き戻された。
「……これが、佐伯くんを苦しめていた、憎しみ……」
結衣は、高遠の言葉を思い出した。
「佐伯くんは、愛する人を救おうとしていた。でも、その希望を、あの男に……」
結衣は、自分が目にした光景を、高遠に伝える。高遠は、結衣の言葉に、静かに頷いた。
「ああ。あの男は、私の父だ」
死者復活。医学科学が進んだ現代でもなし得ない実験。それは往々にして禁忌とされている。佐伯の研究がそれならば、高遠の父が研究ノートを燃やしてまで止めようとするのも無理はない。
しかし、なぜ、佐伯はそんな実験にのめり込んでしまったのだろう?
結衣がそう呟くと、高遠は静かに口を開いた。彼の瞳は、遠い過去を見つめているようだった。
「……彼には、愛する人がいた。そして、その人は、理科室で起きた、ある実験事故で命を落とした」
高遠の言葉に、結衣は息をのんだ。
「彼女は、佐伯の実験を手伝っていた。そして、事故は、佐伯の不注意で起きた。佐伯は、自分を責め、彼女を蘇らせるために、死者蘇生の研究にのめり込んでいったんだ」
佐伯が研究に没頭していた理由。それは、彼の愛と、そして、深い後悔だった。彼は、愛する人を失った悲しみと、自分を責める憎しみから、抜け出せずにいたのだ。
「私の父は、彼を心配していた。佐伯の心に、邪悪な霊が入り込んでいることに気づいていたからだ。だが、佐伯は、父の忠告に耳を傾けなかった。そして、父は、佐伯を救うために、彼の研究を止めようとしたんだ」
高遠は、そう言いながら、結衣に、もう一度人体模型と向き合うように促した。
「佐伯の憎しみを解くには、彼に、自分の愛が、誰かを傷つけたことを、知ってもらわなければならない」
高遠の言葉に、結衣は頷いた。
「どうすればいいですか?」
「佐伯の心に、もう一度、愛を思い出させるんだ。彼が愛した人が、彼を、心から愛していたことを……」
高遠の言葉に、結衣は静かに目を閉じた。彼女の意識は、再び、人体模型の中に吸い込まれていった。
佐伯さんに「愛」を思い出してもらうには、彼の恋人しかない。
しかし、すでにこの世にいない人を、どうやって彼に合わせれば良いのだろうか。
結衣がそう呟くと、高遠は静かに口を開いた。
「彼女は、人体模型の中にいる。だが、君が会った彼女は、呪いと憎しみに囚われた姿だった。……君が、彼女の本当の魂に触れることができれば、彼女の愛を、佐伯に伝えることができる」
高遠の言葉に、結衣は息をのんだ。
「どうすればいいんですか?」
「君は、悲しみに寄り添う力を持っている。その力で、人体模型の中に隠された、彼女の本当の魂を見つけ出すんだ。そして、彼女の心に触れ、彼女の愛の記憶を、呼び起こしてほしい」
高遠の言葉に、結衣は頷いた。
「わかった。私、もう一度、人体模型に触れてみます」
結衣は、高遠の言葉を信じ、再び人体模型に手を伸ばした。彼女の意識は、人体模型の中に吸い込まれ、そして、彼女の魂と、佐伯の恋人の魂が、再び対面する。
「……もう一度、会いに来てくれて、ありがとう……」
彼女の声は、以前よりも、ずっと穏やかで、温かかった。
「佐伯くんは、あなたを救おうとして、苦しんでいる。彼に、あなたの愛を、伝えてあげてほしい」
結衣の言葉に、彼女は静かに頷いた。
「彼に、伝えて。……私は、彼の愛を、永遠に、信じている、と……」
彼女はそう言うと、結衣に、小さな光の粒を渡した。それは、彼女の魂の輝きだった。
結衣は、意識を現実に戻した。彼女の手の中には、あの光の粒が、確かに存在していた。そして、彼女は、その光の粒を、高遠に差し出した。
「これが、彼女の愛の記憶です」
高遠は、その光の粒を受け取ると、静かに目を閉じた。
「よし。これで、佐伯に、愛を届けることができる。……あとは、佐伯の心に、この愛を、届けるだけだ」
大切な思い出でできた光の粒を佐伯さんに届ける。そうすれば、彼は必ず、「愛」を思い出してくれる。
高遠は、光の粒を静かに見つめた。その小さな輝きには、佐伯を愛した女性の、切ないほどの想いが詰まっている。
「よし。行こう」
高遠は、結衣の手を引くと、再び理科室の準備室へと向かった。
人体模型は、静かに、そこに立っている。結衣は、人体模型に近づくと、その顔を見つめ、再び意識を人体模型の中へと吸い込ませた。
「佐伯くん……」
薄暗い空間に、結衣の声が響く。佐伯は、白衣を纏ったまま、顔を伏せて座っていた。その周りには、黒い憎しみの糸が、無数に絡みついている。
「佐伯くん! あなたを愛した人からの、贈り物よ!」
結衣は、高遠から受け取った光の粒を、佐伯に向かって差し出した。
しかし、佐伯は顔を上げない。彼は、ただ、静かに、憎しみに満ちた瞳で、床を見つめていた。
「どうして……どうして、僕から、彼女を奪ったんだ……!」
彼の声は、悲しみと憎しみに満ちていた。その声に、結衣は心を痛める。
「違うわ! 彼女は、あなたのことを、ずっと愛していた! 彼女がくれたこの光は、あなたの愛を、永遠に信じている、という彼女の想いなの!」
結衣は、佐伯に、そう訴えかけた。
すると、佐伯はゆっくりと顔を上げた。彼の瞳は、憎しみに満ちているが、その奥に、ほんの少しだけ、揺らぎが見えた。
「……愛……?」
結衣は、その一瞬の隙を逃さなかった。彼女は、光の粒を、佐伯の胸に、そっと押し当てた。
光の粒は、佐伯の胸に吸い込まれていく。すると、彼の周りに絡みついていた黒い憎しみの糸が、一本、また一本と、消えていった。
「……ああ……」
佐伯は、目を閉じ、静かに、涙を流した。彼の顔は、憎しみから解放され、安らかな表情に戻っていた。
「……ありがとう……」
彼の声は、心からの感謝に満ちていた。そして、佐伯の姿は、ゆっくりと、光の粒となって、消えていった。
結衣は、意識を現実に戻した。
「やった……」
結衣がそう呟くと、高遠は安堵の表情で頷いた。
「ありがとう、桜井先生。君のおかげで、ようやく、佐伯を、救うことができた」
高遠の瞳には、安堵と、そして、深い感謝が宿っていた。
理科室の七不思議は、解決した。
しかし、この学校に潜む悪意は、まだ消えていない。次の七不思議は、どんな姿で、彼らの前に現れるのだろうか?そして、その裏に隠された、本当の真実とは……。




