第六話:理科室で動く人体模型
美術室の七不思議を解決してから数日。結衣の毎日は、再び平穏なものに戻っていた。生徒たちは、七不思議の恐怖から解放され、部活動や学園祭の準備に夢中になっている。
しかし、結衣の身には、少しずつ異変が起きていた。
誰もいないはずの廊下から、微かな声が聞こえる。風もないのに、カーテンが揺れる。最初は気のせいだと思っていた。疲れているだけだと、自分に言い聞かせていた。
そんなある日の放課後。美術室の近くを通った結衣は、一瞬立ち止まった。美術室の窓から、誰かの視線を感じたからだ。恐る恐る中を覗き込むと、そこには誰もいない。しかし、結衣は、何かがそこにいることを、はっきりと感じた。
そして、その日の夜。職員室で残業をしていた結衣は、ふと、窓の外に目をやった。真っ暗な校庭の向こう、理科室の窓に、微かな光が灯っている。それは、まるで、何かが蠢いているかのような、不気味な光だった。
「まさか……」
心臓が早鐘を打つのを感じる。結衣は、もう、これが気のせいではないことを悟っていた。
好奇心と、もう一人の先生がそこにいるのではないかという微かな希望を胸に、結衣は、理科室へと向かった。
理科室の扉を開けると、そこはひんやりと冷たい空気に満ちていた。薄暗い部屋の中央に置かれた人体模型が、結衣の目に飛び込んでくる。そして、そのすぐそばに、一人の男が立っていた。
男は、結衣と同じくらいの年齢に見える。しかし、その瞳には、彼女とは違う、見慣れない光が宿っていた。
「……君も、見えているのか?」
男は、結衣にそう問いかけた。その手には、結衣が今まで見たこともない、奇妙な道具が握られていた。
「多分、嘘はこの人には通用しない」そう感じ、結衣は威圧感に気圧されながらも頷くのが精一杯だった。
「理科室に不気味な光が見えたので来ました……」
結衣の言葉に、男は警戒を解くことなく、しかしどこか見定めようとするように問いかけた。
「……君は、この学校の七不思議を解決したという教師なのか?」
彼の問いに、結衣は少しだけ言葉を詰まらせる。
「ああ、はい。――教師ではなく、教育実習生です」
「そうか……」
男はそう言うと、持っていた奇妙な道具を懐にしまった。その動きは、無駄がなく、流れるようだった。
「俺は、高遠 響。この学校のOBだ」
彼はそう名乗ると、一歩、結衣に近づいてきた。彼の周りから漂う張り詰めた空気に、結衣は思わず身を固くする。
「ここには、君が想像しているような、単なる霊はいない。……邪悪な悪霊が、この場所で、何かを企んでいる」
響の言葉に、結衣の心臓が早鐘を打った。これまでの七不思議とは、何かが違う。恐怖とはまた違う、本能的な危機感を、結衣は感じていた。
「このまま放っておけば、君の身に危険が及ぶ。俺は、それを祓うためにここに来た。だが、君もこの七不思議に関わっているのなら、俺の邪魔はしないでほしい」
彼の瞳は、結衣をまっすぐに見つめていた。その瞳の奥には、彼女が知るはずのない、深い闇が潜んでいるようだった。
これまでの七不思議とは違って、理科室の現象は生徒たちの間で噂になることはなかった。夜の理科室にいた男性――高遠の言っていたように、これまでの七不思議とは違う何かがいるのだろうか。
結衣は、高遠の言葉を思い返していた。彼の放つ張り詰めた空気、そして「邪悪な悪霊」という言葉。それは、これまで結衣が触れてきた「悲しい魂」とは、明らかに違うものだった。
もし本当に邪悪な存在がいるのなら、生徒たちがその噂にすら気づかないのはなぜだろう?それは、その存在が、生徒たちを恐怖に陥れることを目的としていないからだろうか?それとも、その存在が、ごく一部の人間にしか認識できないものだからだろうか?
結衣の脳裏に、高遠が持っていた奇妙な道具が浮かぶ。あれは、邪悪な霊を祓うための道具なのだろうか。
――自分にできることは何だろう。
これまでは、先生として生徒の恐怖を取り除くことが目的だった。だが、今回は違う。自分の身に起きた異変。そして、理科室にいる邪悪な存在。結衣は、教師としての立場を超え、この謎に立ち向かわなければならないという使命感に駆られていた。
翌日。
結衣は、高遠に会うため、再び理科室を訪れた。しかし、そこに彼の姿はなかった。代わりに、人体模型が置かれた台の上に、一枚の紙が置かれていた。
紙には、こう書かれていた。
「これは、君が思っているよりも、ずっと危険なことだ。これ以上、関わるな」
彼の言葉は、結衣の決意を試すかのように、そこに置かれていた。
高遠に聞きたいことは色々あったのに、会えなかった。それどころか、理科室の件に関わるなとまで言われてしまうなんて。
「できることはないのかな……」
結衣は、理科室で一人、そう呟いた。
高遠の言葉は、まるで彼女を試しているようだった。彼は、結衣が教師としてではなく、一人の人間として、この七不思議にどう向き合うかを見極めようとしているのかもしれない。
そして、その日の放課後。結衣が教室で日誌を整理していると、廊下から生徒たちの悲鳴が聞こえてきた。
「先生、大変です!」
結衣が教室を出ると、生徒の一人が、顔を真っ青にして立っていた。
「人体模型が…動いてるんです!理科室から、誰かが歩いている音が……」
生徒の言葉に、結衣は心臓が凍りつくのを感じた。
「先生、お願いです! 助けてください!」
生徒の悲痛な叫びに、結衣は、迷うことなく理科室へ向かった。
高遠の警告を無視することになる。だが、生徒たちが恐怖に怯えている今、教師として、そして、七不思議の真実を知ってしまった人間として、もう後戻りはできない。
理科室の扉を開けると、そこはひんやりと冷たい空気に満ちていた。部屋の中央に置かれた人体模型が、ゆっくりと、そして不気味に、その場を歩き回っている。
「……やっぱり、いたんだ」
結衣は、震える手でスマートフォンを手に取り、人体模型を撮影しようとした。
その瞬間、人体模型の顔が、ゆっくりと結衣の方を向いた。そして、その口が、不気味な形に歪んだ。
「……助けて……」
その声は、どこか悲しげで、苦しげだった。そして、人体模型の顔が、一瞬だけ、誰かの顔へと変化した。
それは、結衣が、以前に、どこかで見たことがあるような、懐かしい顔だった。
「理科室で動く人体模型」――学校の七不思議は、やっぱりあった。
しかも、一瞬だけ顔が変わった。その顔は、美術室の呪いの絵の中にいた、あの女性だった。
人体模型は、再び不気味な形に戻ると、ゆっくりと、しかし確実に結衣に近づいてきた。
「……助けて……」
その声は、苦しみに満ちていた。そして、その声は、結衣が知っている人物の声に、酷似していた。
結衣は、一歩も動けなかった。彼女の頭の中は、疑問と恐怖で混乱していた。
どうして、あの人が? どうして、人体模型に?
その時、理科室の扉が勢いよく開き、高遠 響が部屋に入ってきた。彼は、結衣の姿を見ると、顔を険しくした。
「だから、来るなと言ったはずだ!」
彼の声は、怒りと焦りを含んでいた。高遠は、懐から奇妙な道具を取り出すと、人体模型に向かって何かを唱え始めた。彼の言葉は、結衣には理解できなかったが、その声には、強い力がこもっているようだった。
人体模型は、高遠の言葉に苦しむように、身悶えする。
「……やめて……」
その声は、結衣に助けを求めるように響いた。
結衣は、高遠の言葉に従えば、生徒の恐怖はなくなる。だが、人体模型の苦しげな声を聞くと、彼女の心は、悲しみに満たされた。
「やめて! ……お願いだから、やめて!」
結衣の叫びに、高遠は驚いて、動きを止めた。その一瞬の隙に、人体模型は、結衣に向かって、その手を伸ばした。
「……っ!」
結衣は、咄嗟に目を閉じた。彼女の脳裏に浮かんだのは、過去に美術室の絵画で見た、あの女性の悲しい記憶だった。
次の瞬間、結衣の意識は、真っ暗な空間へと引き込まれていった。
「……う……ん……ここは?」
気がつくと、周りは真っ暗だった。最後に覚えているのは、理科室で動く人体模型と、高遠の焦った声。そして、人体模型の顔が一瞬だけ、呪いの絵の女性に変わったこと。
「あの顔は、呪いの絵の人だった気がしたけど、なんで……」
彼女の願いは叶ったはずだった。愛する彼と、花の咲く庭で再会できた。もう、悲しみは終わったはずなのに、なぜ、今度は人体模型の中にいたんだろう?
結衣が混乱していると、再びその声が聞こえた。
「……助けて……」
声は、すぐそばから聞こえる。結衣が声のする方を向くと、暗闇の中に、うっすらと女性の姿が見えた。しかし、彼女の体は、透き通っていて、まるで今にも消えてしまいそうだった。
「どうして、ここにいるの? あなたの願いは、叶ったはずなのに……」
結衣の問いに、女性は悲しげに首を振った。
「私の願いは、叶った。でも、私は、呪いから、逃れられない。…呪いが、私を、この場所に、繋ぎ止めている」
彼女はそう言うと、震える手で、自分の胸を指差した。その手には、まるで何かが、彼女の心を締め付けているかのように、黒い糸が絡みついていた。
「どうすれば……」
結衣の言葉に、女性は静かに首を振る。
「私を救うには、私を、呪いから解放しなければならない。…でも、私を縛っているのは、もう、悲しみじゃない。……憎しみだ……」
女性は、そう言うと、再び姿を消した。
結衣の意識が、ゆっくりと現実に戻っていく。
「憎しみ……?」
彼女は、高遠が言っていた「邪悪な悪霊」という言葉を思い出していた。この七不思議は、ただの悲しい物語ではなかった。そこには、彼女を呪いから解放したいという、悲しい願いと、彼女を永遠にこの場所に繋ぎ止めようとする、邪悪な力が混ざり合っていた。
結衣は、この七不思議の、本当の真実を、まだ知らなかった。




