第一話:誰もいない音楽室のピアノ
放課後、早速、音楽室に向かった。
廊下はしんと静まり返っていて、生徒たちがいた昼間のにぎやかさが嘘のようだ。窓から差し込む夕日が、廊下の床に細長い影を落としている。
「……今日はピアノ鳴らないといいなー」
そう呟いて、音楽室の重い扉に手をかけた。
扉を開けると、ほのかに埃っぽい、懐かしい匂いがした。
部屋の中には、中央に置かれたグランドピアノがひっそりと鎮座している。
ピアノの鍵盤は、夕日の光を受けて鈍く光っていた。
結衣は、一歩ずつ部屋の中へ足を踏み入れた。生徒を心配して来たはずなのに、心臓は早鐘を打っている。
幼い頃のトラウマが、脳裏をかすめた。
あの時見た絵画の不気味な顔が、ピアノの影に潜んでいるような気がして、思わず身震いする。
「大丈夫、大丈夫。ここにいるのは私だけ……」
そう自分に言い聞かせた、その時だった。
誰かが、背後から声をかけてきた。
「君は……誰だい?」
思わず息をのんで振り返る。
そこに立っていたのは、見慣れない男の人だった。
彼の端正な顔立ちには、どこか影があり、何を考えているのか読み取れない。
その手には、白衣がかけられていた。
「えっ……あっ、私は教育実習生の、桜井結衣です。あなたは…?」
言葉を詰まらせながらそう答えると、男は静かに微笑んだ。
「この学校の保健医をしている、結城柊だ。……こんな時間に、ここで何をしているんだい?」
彼の言葉は穏やかだったが、その瞳は、結衣の心を見透かしているように感じられた。
そして、結城が立っていた場所のすぐ後ろには、ピアノの鍵盤が、微かに揺れていた。
「えっと……この音楽室のピアノが誰もいないのに鳴っていると生徒が言ってまして……」
とっさに良い言い訳が思いつかず、正直に答えてしまった。
結城は表情を変えることなく、「ふぅ――。『七不思議』のことかな」と淡々とそう言った。
「誰もいない音楽室のピアノ」、私の生徒を悩ませる『七不思議』を彼も知っているようだった。
結城の視線がピアノに向けられる。その横顔は、穏やかながらもどこか遠い過去を見ているようだった。
「この七不思議は、俺がまだ学生だった頃からあった噂だよ」
そう言って、彼はピアノに近づいていく。
そして、鍵盤にそっと指を置いた。静かに、しかし流れるように奏でられるメロディは、どこか物悲しく、結衣の胸に響いた。
「不思議だと思わないか? 生徒を怖がらせるだけの怪談にしては、このピアノの音は、あまりにも……哀しい」
彼の言葉に、結衣は息をのんだ。
彼の目に宿る哀しみの色が、ただの噂話ではない何かを物語っているようだった。
「……先生は、この七不思議の、何かを知っているんですか?」
結衣の問いに、結城は微笑む。
その微笑みは、昼間に見たどの笑顔よりも、複雑で、そして何かを隠しているように見えた。
「ああ、そうだね。――知っているよ」
結城先生の意外な答えに、結衣は息をのんだ。
誰もいないのにピアノが、何故、鳴るのか。その理由を彼は知っている?
「……誰もいないのにピアノが、何故、鳴るんですか?」
するりと、質問が口からこぼれ落ちた。
結城は、まるで結衣の問いを待っていたかのように、再びピアノに目を向ける。
「それはね……」
彼の言葉は、まるで鍵盤を撫でるようにゆっくりと紡がれた。
「――このピアノを弾きたい、と願った生徒がいたから、だよ」
結衣は、その答えに戸惑いを隠せない。しかし、彼の瞳は真剣で、嘘を言っているようには見えない。
「その生徒は、もう……この学校にはいない。でも、彼女の想いが、今もこの音を奏でているんだ」
彼の言葉に、結衣は恐怖よりも、胸が締め付けられるような切なさを感じた。
それは、まるで、七不思議の裏に隠された、悲しい物語の断片を垣間見たかのようだった。
「その生徒さんは、今、どうしているんですか?」
結衣の声は、恐怖からか、それとも哀しみからか、かすかに震えていた。
結城は一瞬、答えをためらうように目を伏せた。
「彼女は、もうこの世界にはいない。……数年前、この音楽室で、命を絶ったんだ」
穏やかな口調とは裏腹に、その言葉は重く結衣の胸に突き刺さった。
七不思議はただの怪談ではなく、悲しい現実だった。
「どうして……?」
結衣の問いに、結城はピアノから視線を外すと、結衣の目を見て答えた。
「彼女は、ピアノの才能に恵まれていた。でも、とある理由で、もう二度とピアノが弾けなくなってしまった。絶望の果てに、ここで……」
そこまで話すと、彼は言葉を区切った。
結衣は、絶望のあまり命を絶った少女の痛みが、ピアノの音色となって、この音楽室に響いているのだと理解した。
そして、その音が、少女の存在を今もこの場所に留めているのだと。
結城は、まるで自分の過去を語るかのように、静かに続けた。
「彼女は、本当は誰かに、自分の弾くピアノを聴いてほしかったのかもしれない。…だから、今もこうして、時々メロディを奏でているんじゃないか、と俺は思うんだ」
結城がピアノの鍵盤を軽く叩くと、ポーンと綺麗な音が鳴った。
高校生で、これからという時に夢を失い、命を絶ってしまうなんて、どれほど辛く、悲しかっただろう。
「桜井先生、彼女のために泣いてくれるの?」
結衣の頬を涙がつたう。ゆっくりと近づいてきた結城が、それをそっと拭った。
「……だって、そんな、悲しすぎるじゃないですか。まだこれからという時に、自分で全てを諦めちゃうなんて」
「君は優しいね」
結衣の言葉に、結城は穏やかに微笑んだ。
その表情には、同情や憐れみとは違う、深い理解が宿っているように見えた。
「その子のピアノの音は、誰かに聞いてほしいという願いがこもっているのかもしれない……。だったら、その願い、叶えてあげたいです」
結衣の言葉は、悲しみを乗り越え、決意に満ちたものだった。
もう怖いだけではない。この七不思議の謎を解き明かすことは、生徒の恐怖をなくすだけでなく、この場所に留まる悲しい魂を救うことでもあるのだ。
結城は、結衣の言葉に静かに頷いた。
「そうだね。もし君が望むなら、協力しよう。……でも、一つだけ約束してほしい」
彼は、結衣の瞳をまっすぐに見つめた。
「危険なことは、絶対に一人でやらないことだ。いいね?」
「はい。わかりました」