第十五話:放送室と言葉の刃
学校は平穏を取り戻したかに見えた。しかし、その平和は長くは続かなかった。生徒たちの間で奇妙な噂が広まり、結衣は、その静かな変化に気づき始めていた。
「ねぇ、聞いた? 最近、夜の放送室から変な声が聞こえるんだって」
「誰かの悪口を言ってるみたいだよ。まるで、呪いみたいに」
その噂は瞬く間に広がり、生徒たちの間に不信感や疑念を植え付けていった。些細なことで言い争いが起き、仲の良かった生徒同士がお互いを疑うようになったのだ。
ある日の放課後、一人の生徒が怯えた様子で保健室へ駆け込んできた。
「先生、助けてください! 昨日の夜、放送室から私の名前を呼ぶ声が聞こえて……まるで、呪いの言葉みたいで、怖くて……」
結城先生は、その生徒を落ち着かせると、すぐに結衣と高遠にこの話を伝えた。
「これは、間違いなく七不思議の類だな」
高遠は冷静に分析した。
「でも、これまでの七不思議とは少し違う気がします。悲しい魂の願いというより、誰かの悪意が関わっているような……」
結衣はそう感じていた。彼女が言葉を紡いでいると、廊下から律が駆け寄ってきた。彼の顔には、普段の穏やかさとは違う、緊迫した表情が浮かんでいる。
「結衣先生! 放送室に、とても嫌な気配を感じる。これは、俺だけでは手に負えない……」
律の言葉に、結衣、高遠、結城の顔に緊張が走った。それぞれの専門分野から得た情報が、一つの結論へと向かっている。
「放送室の七不思議」
それは、これまでの七不思議とは一線を画す、悪意に満ちた存在が引き起こす事件だった。
四人は、誰もいない夜の放送室へ向かった。重い扉を開けると、中はひんやりとしていて、不気味な静けさが漂っている。
「……何かが、いる」
結衣がそう呟いた瞬間、どこからか不気味な囁き声が聞こえてきた。
「……アイツが、お前のことを、悪く言ってたぞ……」
「……信用するな……アイツは、嘘をついている……」
その声は、聞く者の心に不信感や疑念を植え付ける。結衣は、その声に惑わされないように、強く心に念じた。
「この声の主は、誰なんだろう?」
結衣の問いに、高遠は静かに答える。
「恐らく、過去に、この放送室で、言葉によって傷つけられ、絶望した生徒の魂だろう。……その魂が、邪悪な霊に利用されている」
高遠の言葉に、結衣は息をのんだ。彼女は、この七不思議を解決するには、ただ霊を祓うだけでなく、その魂の悲しみに向き合わなければならないことを悟っていた。
「……私、この声の主と、話してみます」
結衣は、そう言ってマイクの前に立った。
結衣がマイクの前に立つと、高遠が静かに声をかけた。
「君は、その声に惑わされるな。彼らは、君の心に潜む疑念や恐怖を、増幅させようとするだろう」
高遠の警告に、結衣は頷いた。隣で、結城先生は心配そうに結衣を見つめている。一方、律は、目を閉じ、集中しているようだった。
「……いる。彼女は、まだ、ここにいる」
律は、そう呟くと、静かにマイクの前に立った。
「結衣先生。彼女の言葉は、悲しみから生まれたものです。でも、彼女の本当の想いは、言葉にできない……言葉にすることができなかった、悲しみが、この声となって、聞こえてくるんです」
律の言葉に、結衣は頷いた。彼女は、マイクの電源を入れた。そして、はっきりと、しかし優しく、語りかけた。
「貴方の悲しみは、きっと、本物。でも、その言葉は、誰かを傷つけている。貴方の心は、本当に、それが望みなんですか?」
結衣の問いかけに、放送室に響いていた囁き声が、一瞬だけ止まった。
そして、震えるような声が聞こえてきた。
「……私は……いじめに耐えられなくて、ここで死にました……」
悲しみに満ちたその声は、過去の記憶を語り始めた。
「最初は『悪口』を言われて…教科書に『落書き』をされて…」
声が紡ぐ言葉は、聞いているだけで胸が締め付けられるほどに痛々しい。その悲しみは、確かに本物だった。
「最後は『嘘』を言いふらされました……」
そこまで語ると、声は再びか細くなり、苦しそうに歪んだ。その声が、彼女の悲しみの根源なのだろうか。
「私を助けてくれると思った先生も……いじめた子たちの言葉を信じて……」
その言葉を聞いた結城先生の顔が、わずかにこわばる。彼は、坂東先生の件を思い出していた。教師として、生徒を救えなかった後悔。それは、この学校に蔓延る、もう一つの七不思議だった。
その声から伝わってくる感情が辛かった。どれほど辛く、淋しく、苦しかったんだろう。
「……ごめん、ごめんね……」
結衣の目から涙が溢れた。
「……辛かったね、寂しかったよね……信じてあげられなくて、ごめんね……」
彼女の心からの言葉に、霊の声が震えた。
「先生、ありがとう。わかってくれて、嬉しい」
その瞬間、放送室を満たしていた淀んだ気配が、ほんの少し和らいだのが分かった。しかし、それだけでは、まだ不十分だった。
「ここにいるのは、一人や二人だけの霊じゃない」
律が息苦しそうに言った。
「それだけじゃない、いじめられて苦しんだ『気持ち』が集まってきてるんだ」
律の言葉に、結衣は息をのんだ。この放送室には、過去にこの学校でいじめに遭い、言葉の暴力に苦しんだ、数え切れないほどの生徒たちの悲しみと絶望が、澱のように溜まっているのだ。
「その『気持ち』が、この七不思議を引き起こしているんだ」
高遠が静かに言った。
「この淀んだ空気を祓うには、彼らが抱えているすべての悲しみに、向き合わなければならない」
高遠の言葉に、結衣は頷いた。しかし、どうすれば、この無数の悲しみに向き合うことができるのだろうか。
「少し、性急に事を進めすぎじゃないかな」
後ろで事の次第を見つめていた結城が、結衣の隣に立つ。
「結衣先生、一度、落ち着いたほうがいい。事が解決する前に君が倒れてしまいそうだ」
結城はそっと結衣の肩に手を置いた。伝わってくる体温の温かさにほっとして、結衣は泣き腫らした目で結城を見上げた。
「結城、先生……」
「うん。ちょっと休もうか」
「……はい」
優しい声に、結衣は意識が遠くなっていくのを感じた。
結衣は眠りについたまま、カーテンの向こうから聞こえる声に耳を澄ませていた。
「あのまま続けていたら、どうなってたことか」
結城のため息混じりの声に、高遠が静かに答える。
「すまない。俺の監督不行届きだ。……俺は、霊の専門家として、この七不思議が悪意で満ちていることに気づいていた。だが、その悪意が、生きている人間の悪意と結びついているとは、想像していなかった」
高遠は、己の知識や経験だけで判断したことを後悔しているようだった。
「榊原くん、君の霊感では、どんなふうに感じたんだ?」
結城が律に問いかける。
「はい。俺の霊感は、死者の悲しみだけでなく、生きている人の悪意も感じ取ることができます。放送室に満ちていたのは、言葉によって傷つけられた死者の悲しみと、そして、現在、言葉で誰かを傷つけている、生きている生徒たちの、悪意の念です」
律の言葉に、二人は静かに息をのんだ。
「つまり、死者の霊を祓うだけでは、この七不思議は解決しない。生きている生徒たちの心を変えなければ、この悪意は、いつまでもこの学校に留まり続ける、ということか」
高遠が結論を出す。
「ですが、どうやって生徒たちの心を変えるんでしょう? 私たちは、彼らの心に直接介入することはできません」
結城が言う。彼は、教師として、生徒たちの心に寄り添うことの難しさを知っていた。
議論が行き詰まったその時、結衣は静かにカーテンを開けた。
「私、……みんなで、解決できるって信じています」




