第十話:屋上の少女の影
学校は平穏を取り戻したかのように見えた。
しかし、平和の裏で静かな悲しみが学校を包み込もうとしていた。
結衣は、最近、指導教員の坂東の様子がどうもおかしいことに気づいていた。彼は常に疲れていて、特定の生徒を気にしているようだった。その生徒は、いつも屋上で一人、空を見上げていた。
ある日の放課後、結衣は、その生徒が屋上で一人、誰かに話しかけているのを見かける。しかし、そこにいるのは彼女だけ。結衣が屋上へ向かうと、生徒は彼女に、「私にしか見えない、屋上の少女の影がいるんです」と打ち明けた。
「……屋上の少女の影?」
結衣の脳裏に、この学校の七不思議の一つ、「特定の生徒にしか見えない屋上の少女の影」が浮かんだ。
しかし、この七不思議は、これまでのものとは少し違っていた。生徒たちは、恐怖を感じていない。ただ、寂しそうな影に、話しかけているだけなのだ。
結衣は、生徒の言葉に、坂東との関係を確信した。彼は、過去にこの学校で起きた、ある悲しい出来事を隠しているようだった。その出来事は、彼が教師として、そして人間として、深い後悔を抱える原因となっていた。屋上の少女の影は、その悲しい出来事と関係しているのだろう。
「先生、どうして、私にしか見えないんだろう?」
生徒の問いに、結衣は答えることができなかった。しかし、彼女は、この七不思議を解決するには、坂東先生の隠された過去と向き合わなければならないことを悟っていた。
「坂東先生、お話があるんですけど」
職員室の奥、自分のデスクで書類を整理していた坂東先生に、結衣は声をかけた。坂東は疲れた表情で顔を上げた。
「ああ、桜井か。どうかしたのか?」
結衣は周囲に他の教員がいないことを確認してから、静かに言った。
「先生、屋上の七不思議についてです。……特定の生徒にしか見えない、屋上の少女の影」
結衣の言葉を聞いた瞬間、坂東先生の表情から血の気が引いた。彼は書類を持つ手を止め、結衣を真っ直ぐに見つめた。その瞳は、何かを隠そうとするかのように揺れている。
「何を言っているんだ。そんな話、私は知らない」
坂東はそう言って、再び書類に目を落とした。しかし、その手は微かに震えている。
「その少女の影が見える生徒が、先生の教え子だって、私、知ってるんです」
結衣は、坂東の瞳をまっすぐに見つめ、そう告げた。彼女の言葉に、坂東先生はついに観念したように、深くため息をついた。
「……どこで、その話を聞いた?」
「屋上の七不思議について、生徒から聞きました。そして、先生が、その生徒のことを心配していることも」
結衣の言葉に、坂東は、苦しそうに顔を歪めた。
「……わかった。話をしよう。だが、ここではまずい。……放課後、理科室に来てくれ」
坂東はそう言うと、再び書類に目を落とした。彼の表情は、結衣が今まで見たことのない、深い悲しみに満ちていた。
「坂東先生、いらっしゃいますか?」
放課後、言われたとおりに結衣は理科室を訪れた。
「いるよ。入ってくれ」
理科準備室に足を踏み入れると、坂東が一人、人体模型をじっと見つめて立っていた。その背中は、以前よりもずっと小さく、寂しげに見えた。
「……こんな場所で、すまないな」
坂東先生は、結衣に背を向けたまま、静かに言った。
「この七不思議は、俺が原因で起きたんだ」
彼の言葉に、結衣は息をのんだ。
「その生徒は、俺の過去の教え子だった。……彼女は、屋上から、身を投げたんだ」
坂東先生の声は、震えていた。
「彼女は、いじめを受けていた。俺は、そのことを知っていた。だが、見て見ぬふりをした。教師として、彼女を守ってやることができなかった。…彼女は、俺に、助けを求めていた。なのに……」
彼の言葉は、そこで途切れた。しかし、結衣には、その後の言葉が、はっきりと聞こえた気がした。
「……屋上の少女の影は、彼女の魂だ。そして、彼女は、俺を許せないでいる。だから、俺にしか見えないんだ」
坂東の瞳には、深い後悔と、そして、彼自身を責める憎しみが宿っていた。
「……俺は、彼女に、どう謝ればいいのか、わからない」
坂東は、そう言って、その場に崩れ落ちた。彼の心の中は、絶望と、そして、深い悲しみに満ちていた。
「坂東先生、よろしければ、詳しいお話を聞かせてくれませんか?」
結衣は、静かに、しかし力強く言った。彼女の言葉は、坂東の心に深く響いた。彼は、顔を上げ、結衣を、そして人体模型を、交互に見つめた。
「……話したところで、どうなるというんだ。もう、どうすることもできないんだ」
彼の声は、絶望に満ちていた。
「どうすることもできない、なんてことはありません。悲しみに満ちた魂は、きっと助けを求めているはずです。先生が、彼女の悲しみに、向き合ってあげなければ」
結衣の言葉に、坂東は、静かに涙を流した。彼の瞳には、深い後悔と、そして、結衣への感謝が宿っていた。
「わかった。……全て、話そう」
坂東は、震える声で語り始めた。
「彼女の名前は、水野 葉月。俺が初めて担任を持ったクラスの生徒だった」
彼は、葉月との出会い、そして、彼女が抱えていた苦しみを、結衣に語った。
「葉月は、とても真面目で、優しい子だった。しかし、彼女は、クラスメイトから、陰湿ないじめを受けていた。俺は、そのことに気づいていた。だが、教師として、どう対処すればいいのかわからなかった。見て見ぬふりをすることが、彼女を救うことになると、信じていたんだ…」
坂東の声は、苦しみに満ちていた。
「ある日の放課後、俺は、葉月を屋上に呼び出した。そして、教師として、いじめを解決することを約束したんだ。だが、彼女は、俺の言葉を信じなかった。そして……」
坂東は、言葉に詰まった。しかし、結衣には、その後の言葉が、はっきりと聞こえた気がした。
「……教師として、彼女を守ってやることができなかった」
坂東の心に、深い後悔と、そして、彼自身を責める憎しみが宿っていた。
「……彼女は、俺を許せないでいる。だから、俺にしか見えないんだ。そして、彼女は、俺と同じように、教師として、誰かを救うことができなかった、悲しい魂を、屋上に引き寄せているんだ……」
坂東の言葉は、結衣の心臓を、深く、そして冷たく、凍りつかせた。




