第6話 オカン、厨房に風を起こす
厨房の扉が閉まる音を背に、ランゼルは静かに歩き出した。
けれど心の中では、まだあの場所の熱気と空気の変化が、じんわりと残っていた。
(……彼女は、叱らなかった)
命令もしなかった。強く言い放つこともなく、ただ“問いかけた”。
それだけで、あれだけの者たちの意識を変えたのだ。
(あれが、上に立つ者の資質……なのか)
思えば、これまでの人生で、そんな人間を見たことがなかった。
自分の母国では、上に立つ者は命令し、従わせるのが当然だった。
贅沢を好み、場に応じて姿勢を変えることなく、ただ“望むもの”を口にする。
そういう貴族女性ばかりを見て育った。
他人の気持ちを察する必要も、理由もない。
自分が中心であることを疑わない――そんな在り方に、いつしか嫌気が差していた。
だからこそ、女性が少し苦手だった。
取り繕う言葉も、笑顔の裏の打算も、すべて見えてしまう自分にとっては、ただ息苦しかった。
けれど、ララは──違った。
あの問いかけは、支配するためじゃない。
相手が“自ら考え、動けるように”導くためのものだった。
誰の目も見ずに話す貴族が多い中で、
ララは一人ひとりの目を見ていた。
それが、どれだけの影響を与えるかを、彼女自身が知っていた。
(……王族として、あれほど現場に降りて、対話できる人間がいるなんて)
彼の中で、何かが崩れ始めていた。
硬く閉ざしていた心の一角に、ふと、風が差し込んだような感覚。
(なんなんだ……これは)
その正体がまだわからなくても、ただ一つ――
気づけば、彼の視線は、もうララから離れなくなっていた。
ララと護衛の騎士が厨房を後にした。
扉が静かに閉まると、そこに残ったのは、なんともいえない余韻と静けさ。
しばし沈黙が流れた――その中心にいた料理長が、ふっと息を吸い込む。
「……点火は1分で済む。なら、火は使うときに点ければ十分だ。よし、今からそれでいこう!」
ぱんっと手を鳴らし、明るく言い放ったその声に、場の空気が一気に動いた。
「かまどの火、消します!」
火元を任されていた若い調理人が、張りのある声で答える。
燃えていた炎が、音を立てて小さくなっていった。
それを合図にしたように、他のスタッフたちも動き出す。
「水道、止まってる? 点検しとくわ!」
「冷却器、温度下げすぎてたかも。少し高めで様子見ます」
「照明、昼間は窓際だけでよくない?」
誰かが命じたわけでもない。
けれど、厨房に“変わろうとする力”が芽生えていた。
昼前、書類を小脇に抱えて回廊を歩いていた宰相バロンは、厨房の前でふと足を止めた。
扉の向こうから、にぎやかな声が聞こえてきたのだ。
いつもなら、かまどの火がごうごうと燃え、水の音がじゃあじゃあと響いている時間帯。
だが今は、それらの音がない。代わりに、スタッフたちの明るい会話が耳に届く。
「さすが王女さま。俺たちが“正しい”って思ってたことが、実は違ったって……気づかせてくれたんだよな」
「“火は消す”ってあの料理長が言ったの、正直びっくりしたぞ。
あの人が意見を変えるの、俺……初めて見たかも」
「うちの母ちゃんなら、まず一言目が『こらー!』だからな……
“問いかける”っての、なんか優しいけど、効くんだな」
バロンは、そっと扉の方に目を向ける。
中を覗かずとも、様子はなんとなく想像できた。
火の落ちたかまど。自然光の入る窓。慌ただしさの中に、どこか穏やかな空気。
(なるほど。そういうことか)
バロンは、小さくため息をついた。
そしてハンカチで額をぬぐいながら、ぽつりと呟いた。
「……やっぱり、オカンだよ……」
それは、誰にも聞かれないような小さな声だった。
だがそこには、ほんの少しの感心と、確かな敬意が込められていた。