第3話 王太子と国の財布と、婚活の話。
朝の光が王都の屋根を照らすころ、城内はまだ穏やかな空気に包まれていた。
だが、王太子執務室の扉がノックもなく静かに開いたとき、その静寂はあっけなく破られる。
「おっと……ララ。いきなり入ってきて」
驚いた様子のリーゼルは、手にしていた書類から顔を上げた。
だが、妹の口元はいつものように真っ直ぐで、感情の色は見えない。
「先月より、ビスの採掘量が10%減っています」
「うん、それ……僕もちょうど見てたところだよ」
気まずそうに視線を逸らす兄に、ララは容赦なく言葉を重ねる。
「で、王太子として、どのような対応を?」
「いや……その、まだ有効な策は……模索中というか……」
ほんの一瞬、ララは目を細めた。
そして、静かに、しかしはっきりと釘を刺す。
「対応を後回しにするなら、半年後には“非常用”に手をつけることになります。
暖房どころか、水も止まりますよ?」
リーゼルの顔が引きつる。
「午後の会議までに、話を進めるための準備をお願いします。
中身のない言葉じゃ、議員たちは動きませんから」
その言い様は、まるで長年家計を管理してきた主婦が、
財布の残高を把握していない夫に向ける冷静な一言のようであった。
ララは机の上に積まれた報告書の束に目を落とす。
その中に、ひときわ目立つ赤線付きの帳票があった。
「……ところで、兄さま。港湾収入、昨年より二割近く落ちていますね。
特産品の出荷も減少傾向。魔導具の輸出も鈍っています」
「う、うん……それは、うすうす……」
「つまり、これからビス対策に資金を回すとすれば――」
ララは机に手を置き、静かに告げた。
「……今のところ、ビス対策に回せる財源はありませんね?
でも、ビスが確実に足りなくなるのは、もう見えている。
だからこそ、どの案を採用するのか――今のうちに決めておくべきです。
どの選択肢を取るかで、必要な予算も大きく変わってきますから」
「……どの案を採用って?」
「たとえば、他国から魔法使いを派遣してもらうなら、滞在費と謝礼が必要です。
水晶の技術を導入するなら、初期投資は莫大になります。
魔力素質のある子どもを留学させる案も、成果が出るのは数年後」
「う、うん……」
「王宮内に魔法学校を作るという話もありましたね。
教師、施設、カリキュラム――どれも簡単ではありません。
そしてもちろん、すべてに“予算”が必要です」
リーゼルは言葉に詰まり、無言のままブリオッシュを手に取ろうとして、ララの視線に気づいてそっと引っ込めた。
ララは視線を外さず、言葉を続けた。
「となれば、即効性のある手段として――」
少し間を置き、わずかに口角を上げる。
「その無駄にキラキラした外見、国のために活用してはいかがでしょう?」
「……えっ?」
「たとえば、資源の豊かな国の姫と縁を結ぶとか。
あるいは、兄さまの肖像画を貴族たちに売るとか。
ご希望があれば、王妃直伝の“映える見せ方”、伝授いたしますよ」
「いやいや、ちょっと待って!?
僕は……できれば好きな人と結婚したいんだけど……」
頬を赤らめ、夢見るように呟く兄を、ララは無表情で一蹴した。
「兄さまの希望を優先しても、国家予算は増えませんよ」
「……ララってやっぱ、こわ……。
ねぇ、やっぱり他の方法を考えたほうが…」
「……それなら、私が輿入れしても構いませんけど?
“見た目だけ”なら、私は完璧な姫らしいですし」
「ちょっ、まって!?」
兄が椅子からずり落ちかける中、ララはくるりと踵を返し、静かに言い放つ。
「ではさっそく、婚活の準備を――」
「お言葉ですが、姫」
そのとき、控えていた護衛騎士ランゼルの声が低く響いた。
「まずは、現実差し迫った問題の解決を優先すべきかと」
ララは立ち止まり、少しだけ振り返る。
「……そうね。まずは、ビス、よね」
その横顔に、ランゼルはわずかに息をつき、目を細めた。
けれど、胸の内に生まれた名もなき焦燥は、まだ形を持たないまま、静かに揺れていた。