共生
空はすでに更け、カーテンから差し込む光に無数のチリが姿を現す。見えなければ吸い込むところを考えなくて済んだのに。抗って息を止めてみる。耐えきれなくなって大きく息を吸う。眠ったときに冷たく体をなぞった空気はどこかへ消え、日が昇った今、僕はいつか握りしめた君の体温を見つけられないでいる。
「優衣、もう朝だよ。」何度声をかけて体をゆすっても眉一つ動かない。幸せそうに口元が緩んだ寝顔は挑発的で、それから吸い寄せられるように彼女の丸く柔い頬に触れた。さらりと白い首筋にはほくろがあやしく浮かびあがり、それがこの世の物とは思えないほどひどく美しかった。しばらくすると瞼をゆっくりと開き、彼女のカラメル色の目が姿を現す。その暴力的な視線はたちまち従いたくなってしまうほど甘美で欲望的だった。
おはようと言って彼女の胸に手のひらを埋めると、汗でしっとりと湿ったTシャツ越しに体温が伝わってくる。君は少し怒ったようにしてうなり声をあげたが振りほどこうとはしなかったから、からかうつもりが本気になってしまった。それでも薄赤の乳首を親指で触れるともうおしまい。と言って僕の頬を強くつまんでから部屋を出て行っていった。仰向けになり壁掛けの時計を見るといつもより10分ほど針が進んでいた。
君はいつもの制服を纏い、僕は丸首のシャツにジャケットを合わせる。シンプルなピザトースト一枚とキウイとバナナの入ったヨーグルトをそれそれ二人分用意しテーブルに並べ僕たちは向かい合って座る。
コーヒーを飲んでいると「なんか寝ぐせ付いてない?」とトーストを齧りながら君が言い、カバンから手鏡を取り出して「ん」と僕に見せた。ぼんやりと鏡に小さく映った自分の顔を眺め、作り笑いではぐらかす。君は平気な顔で朝食を平らげたが、僕は四分の一ほどトーストを残し、ゴミ箱へ投げ捨てた。
僕が先に家を出て車のエンジンをかける。君はドアに鍵を閉めてからやってきて、助手席に座った。もしかしたら近所の人たちから僕たちは兄弟に思われているかもしれない。出来ればずっとそう思ってて欲しかった。
彼女との出会いは約一年前に遡る。4月、僕の担当クラスの中に人一倍目立つ生徒がいた。容姿端麗で、いつも人の注目を集めている。その生徒はクラスの中核メンバ―として様々な舵切をしていった。それから数か月が過ぎたころ、僕は違和感を覚えていた。それはその生徒よりも容姿が良くそれでいて頭もいい、友人関係も広く、信頼を寄せられているが、不気味なほど隅にいる女子生徒がいることだった。だんだんとそのどこまでも影を掴むようで実体を掴めない生徒が気になり、彼女のことをもっと知りたいと思った。ことあるごとに話しかけに行き仲を深めて数多くのことを知っていった。そしてたしか夏休みの終り頃だったと思う。わからないところがあるからと質問をしに来た彼女に二人きりの自習室で思いを打ち明けた。その頃には手に負えぬほどに膨れ上がり、目を背けるにはとても心が持たなかったのだ。
彼女は今まで会った誰とも違い、僕の過去を受け入れてくれた。きっと最初から似た匂いを互いに嗅ぎつけていたんだろう。彼女も僕と同じく片親で、家ではほとんど一人で暮らしていた。うちに招いたときも親からは何も言われないどころかせっせとアパートを解約されたそうだった。
車窓から見える景色はだんだんと木々に埋め尽くされ、アスファルト舗装の道路にガードレールがぬっと沿って立っている。ホワイトノイズのような走行音が低く響き、それをかき消すように備え付けの安っぽいスピーカーからくぐもった音楽が流れている。
「たかちゃんなんか聞きたいのある?」と聞かれ、バックナンバーと答えると馴染みのイントロが始まった。
「時期全然違くない?」思わず口に出てしまう。冬が来るのはだいたい半年後だ。
気にする様子もなく、いいもんといって歌い始めたから僕も気にせずに歌うことにした。
昼になるとお腹もすいてきたのでサービスエリアに寄ることにした。僕は天ぷらそばで君はモスバーガーを選び、僕がポテトに手を付けると天ぷらそばの目玉のエビを持っていかれてしまった。
「優衣様、勝手にポテトを勝手に食べてごめんなさい、どうかご慈悲をください。」
バーガーの入ったバスケットの中にはしっぽだけになったえび天が転がっている。少し悩んだふうにすると、以後気を付けるようにとバーガーを一口くれた。
屋外に出ると左手に名物と書かれたソフトクリームを見つけ、食後のデザートにソフトを二つ注文する。君は写真を撮るために日に長くさらして、ポタポタと溶けてしまったソフトを服を汚すまいと顎を前に突き出して食べていた。その様子がなんだかおかしくて、写真を撮ってみせると恥ずかしそうに顔を赤らめて目線をそらし、それから食べ終わるまで意地でも見られまいとそっぽを向いたまま食べ続けた。
チャイム音―。「これで授業を終わります。」そういうと一気に張り詰めた緊張が四方に流れていった。四時間目も終わり、ようやく昼休みになったということもあって僕が教室を出る前なのにも関わらず弁当を取り出して食べだしている生徒もいた。
「なあ、お前今日カラオケ行く?」
「誰来んの?」
「今んとこ俺らだけ」
「なら女子誘えよ。ん―、例えば上田とか」
「上田か―、おまえ知ってる?上田の噂。男と遊んでるらし―ぜ。ゆうとが彼女とデートしてたら男と歩いてるの見かけたんだって言ってた。」
「うっそだ―、あの上田が?見間違いなんじゃね―の。」
「それがマジらしいの。」
「ほんとかなあ、だってあいつガセネタ多いだろ?この前だって…」
イブの夜、僕らはプレゼントを買いに出かけた。
歩行者天国になった大通りを行きかう人々を木々にくくりつけられた青の電飾が淡く照らしている。ガラス張りの自動ドア越しにはどこか非現実的に映り、駅からここへたどり着くまでの苦労をまるで他人事のように振り返った。蒸れたコートを脱いで店内の奥へ足を踏み入れると、だんだんと重く煌びやか匂いが鼻の粘膜に張りついた。ショーケースが並び、ガラス越しによく磨き込まれたアクセサリーが複雑な光を放ち、その下には金色で値段が書き込まれた黒いバーが添えられている。
夢中になってガラスケースを眺める君の背中を半歩ずつゆっくりと追いかける。
少しするとネックレスのコーナーで立ち止まってケースの中を指さし、スーツ姿の店員は滑らかな白い手袋で黒く毛羽立ったトレイに一本のネックレスを置く。花をモチーフにした装飾がつけられ、金色のチェーンが細く伸びているのが見えた。人のためにお金を使う喜びを教えてくれたのは君だったかもしれない。
僕が仕事から帰ると、ちょうど君は晩ごはんを作っていた。初めて君を僕の家に招き入れたときを思い返してみると、この部屋における君の存在は、前よりもずいぶん自然に見えた。
「もうちょっとで出来上がるよ」と少し張った声をドア前で聞いた。短い廊下を通り過ぎると、ふと君がどこかへ行ってしまう気がしてキッチンに立った君のお腹に腕を回す。
「何でもしてほしいことがあったら言ってね。」
「じゃあ、今は料理を作っているので腕を解いて準備を手伝ってもらおうかしら。」
君の後ろに立つといつも木の実のような甘い香りがする。言われた通りに腕を離し、カトラリーの準備を始める。
彼女は料理がとても上手だった。盛り付けられたお皿をテーブルに運びながらにおいを嗅ぐと、濃厚なビーフシチューの香りが胃袋をくすぐる。
「いただきます。」と言って、スプーンを持ち上げる。食べやすいようにと小さめにカットされた肉とコクのあるソ―ス。それに緑のブロッコリーをはじめ、色鮮やかな野菜が溶け込んでいる。彼女がパンをちぎっているのを見て、マネするように僕もパンを付けて食べた。彼女はいろんなことを僕に話し、ねだられて僕もたまに僕の話をする。ビーフシチューは最後のひとすくいまで温かだった。
手に残った油を最後に洗い流して、タオルで水気をしっかりふき取る。
ソファーに座り途中から僕も映画を見始める。君はTシャツとハーフパンツに着替えカーディガンを羽織り、ソファーに深く体を沈めてすでにまどろんでいる様子だった。
「寝たら?映画もうほとんど見てないでしょ。」
「いや、見てるし、私くらいになると音だけで映画観れるから。」と頑なに動こうとしない。エンドロールまできっちりとみることが彼女の流儀だと前に言っていたことがある。それでもやはり眠気には勝てなかったようで、映画が終盤に差し掛かったころには彼女の消え入るように儚い寝息が聞こえた。
「よっしゃー、ノルマ達成。ほら起きて、もう終わったよ。」いつの間にか立場が逆転し君に手を引かれて寝室まで連れられている。僕が壁側で、彼女が床側。いつからかうまれた暗黙の了解。僕はベッドに身を預け、壁側に体を寄せた。それに続いて僕の隣に横たわる。
「面白かったね。」ほとんど定型文の薄っぺらい感想を真っ暗の天井に浮かべて僕の手を握った。
その夜はひどく寒かった。
その日は電話の呼び出し音に目が覚めた。起こさないように彼女の体を乗り越え、廊下で電話に出た。
「清水先生ですか。至急確認したいことがあります。上田さんとの関係性についてです。」
抑揚の一切を失った声。
彼女の寝顔が気になった。何一つ文句のつけるところのない色白で可憐な顔。その横で彼女のスマホは点灯を繰り返していた。
「わかりました。駅前の喫茶店でもいいですか?」
「そうしていただけると助かります。」
帰ってくると、すすり泣く声が聞こえた。
ぼくの書いた置手紙を握りしめて、ただひたすら隠れるように泣いていた。肩は震え、嗚咽が漏れる。それでもその小さな体に押し戻そうと、必死に口を手で塞いでいた。
「ごめん。」いつかこうなることは予想していた。だけどどうしたらいいかわからない。ソファーに腰かけて一時間ほどすると、泣き声は聞こえなくなっていた。
夕方ごろにようやく寝室に入ると、君は僕が部屋に入ることに強く抵抗した。
「入ってこないで。」切りそろえられた爪がなぞるままに僕の肌には赤く血が浮かびあがり、汗が流れ込むとひときわ鋭く痛みが走った。
君はしゃがれた声で必死に何か訴えるがまるで意味をつくれない。怒りか、悲しみか。理性を覆いつくされて暴れまわり泣きじゃくる姿は昔の僕にそっくりだった。彼女の横に座り、ゆっくりと相槌を打つ。少し落ち着くまで待って風にあたろうと誘う。
窓を開けてベランダに出ると、君の髪が風に揺れ、甘いオイルと汗のにおいがした。その日はからりとした夜風がまっすぐに吹いていてとても心地よかった。
「私、先生とのことは後悔してない。今もし仮に、先生と出会ったあの日に戻ったとしても同じ選択をすると思う。だけど、みんなからありもしないこと、口にしたくないほどひどい言葉を言われるのは耐えられない。」
「わかってる。」
「私たちは誰からも認められないのけ者たち。」
「たかひろくん、選択肢は二つに一つだよ。この世界に染まるか、抜け出すか。」
「君が死ぬのは嫌だ。でも、もし君がそう望むなら。」
下道へ下りたのは16時を回った頃だった。日はかなり傾き、空こそまだその青さを失っていないけれど、中学生が家路を急いでいるところをみると確実に一日が終わろうとしていた。車列から脇道へとそれ、うって変わって未舗装の山道を進む。飛び出した背の高い野草をバンパーで撫で伏せ、カーナビを頼りにかつて道だった道を探し出す。
ついに目的地に着いた。ところどころに深緑の苔や芽を蓄えた人工物が散らばり、人のいたころを忘れ、本来の自然に帰ろうとしている。もともとキャンプ場として賑わっていたが、運営会社の倒産によって長年放置され人の管理から外れた場所にわざわざ地元民さえ近づこうとはしない。
少し開けた場所に停車し後部座席に乗せておいた練炭を持って車外に出る。標高が高く日中も木々に遮られて陽の光が差し込まないのだろう、冷えた空気が重く地表を漂っていた。地面に練炭を並べ、擦ったマッチを中心に置く。吹き上がるように火花が飛び出し、同心円状に燃え上がる。
車内に戻ると君は後部座席に移動してリボンとボタンを外して座っていた。その横に僕も座り、一枚、また一枚と服を脱がせ、彼女の下腹部に手を伸ばすと君はゆっくりとうごめく。それから何度も君と交わった。絶頂を迎えるたびに睡眠薬を一粒飲み、どうしようもないほど君を求めて、つぶれてしまうほど強く抱いた。世界の誰よりも、誰からも君を独占する、その実感に震えた。
「頭ぼーっとするね。」そう言って君は笑みを浮かべる。小刻みに揺れる唇にキスをし、ジャケットを羽織って外に出る。突き刺すような寒さに耐え、火のついた練炭を車に運び入れる。
「愛してるよ。」
「私も大好きだよ。」
「巻き込んでごめんね。」
手のひらに残りの睡眠薬をすべて出してそのうちの三分の二くらいを数回に分けて飲み込む。そのあとおぼつかない体を引き寄せて腕を回し、首を支えて残りの錠剤を君に飲み込ませ、口からこぼれたいくつかもシートから拾い上げて口に押し込む。ルームライトで薄くオレンジがかった横顔はこの上なく美しく、夢を見るように穏やかだった。それだけを見て僕も瞼を閉じた。握った手はあの映画を見た夜のように温かかった。
お読みいただきありがとうございます。