Alea jacta est./賽は投げられた。②
同年4月9日金曜日、午後3時。
帝国を東西に結ぶ大陸横断鉄道に、16の少女アンゼリカ・フランセルも揺られていた。
由緒正しき名門・フランセル伯爵家に生まれた一人娘であるところの彼女は、その名にふさわしく一等客車の広々とした個室を宛がわれ、特に何をするでもなく、3日間の長き旅路に身を委ねていた。
見飽きた風景が延々と続く中で、彼女はおもむろに、車窓脇に配されたソファ上の一冊の本を手にする。
——『万国法典』。革製のカバーに金色の刺しゅうでそう銘打たれているこの本は、持参した書籍の中でも、ひときわ厚みのあるものだった。法学というジャンルの学問が萌芽したこの時代において、世界各国の学説の異同を取りまとめ、普遍的解釈を示した唯一の書籍。これを執筆したのは、2か月前に亡くなったアンゼリカの父、フランセル伯爵であった。
彼女は、千頁超にも及ぶ羊皮紙一枚一枚に、わざわざ手書きされた黒インクの帝国文字を指でなぞっては物思いに耽る。今更、この中身について読む必要はない。幼少期からの英才教育の賜物で、一字一句違うことなく諳んじることができるほどに、隅々まで理解しつくしているのだから。だがそれでも、父から授かったお守りと思って、何遍も何遍もそれを繰り返す。
コンコン。
10分は経っただろうか。漫然と文章を咀嚼しているうちに、個室のドアをノックする音が聞こえた。
「はいっ」
はっと我に返ったアンゼリカは、本を閉じてドアの方に振り向く。ノックの主は、どうやら車掌のようであった。
「お客様、あと30分ほどで終点のラブルンスクに到着いたします。……失礼ですが、大分お荷物が多いように御見受けしましたので、お早目のご支度をお願いします」
気づけば、列車の進行方向の遠く彼方に、うっすらと背の高いレンガ造りの建物群が見えていた。まだまだかかるだろうと悠長に構えていたが、そうも言ってはいられないらしい。
「わかりました。すぐに支度いたします」
アンゼリカは聞きなじみのある車掌の声にそう答えると、ゆっくりと立ち上がって客車の片隅まで歩いて行く。そこには、彼女の胴回りよりも若干大振りな旅行鞄が置かれているのだ。
鞄を床に広げ、この3日間で散らかした諸々の私物を収納する。さすがに6帖はあろうかという客室なだけあって、忘れ物がないか確認するのは骨が折れる。書籍、衣服、そして貴重品類。10分ほど部屋のあちこちを歩き回って、ようやく片づけもひと段落。そこで彼女は、鞄の中で衣服に押しつぶされた状態の、古めかしいひも付きのパスケースの存在に気が付いた。
荷造りしていたときには目にしていなかった身に覚えのない小物に興味が湧き、アンゼリカは休憩がてら、鞄からパスケースを取り出してソファに腰を下ろした。よく見ると、1枚の金属片が入っている。そこには、「裁判所入館証」の文字と、父の名前・役職、そして帝国の国璽が彫られていた。――間違いない。父が生前、まだ現役の裁判官として活躍していたころの名残だ。
フランセル伯爵領から1度も出たことのないアンゼリカがこの列車に揺られ、そして都会志向でもないのに帝都ラブルンスクを目指している理由は、まさにこの辺にあった。フランセル伯爵は稀代の名判事として帝都でも名前が良く知られていたが、数年前から持病によって法廷に立つことができなくなり、そしてついに後継者を遺すことなく息を引き取ってしまった。だが、帝国裁判所の人手不足は年々深刻化しており、お偉いさん方が検討に検討を重ねた結果、ついにはアンゼリカに白羽の矢が立ったという経緯である。酸いも甘いも知らない少女にはあまりに酷な人事に、彼女が困惑したのはいうまでもなかった。
しかして、裁判官は皇帝から任命される勅任官。つまり今回のラブルンスク行きは、皇帝の勅命に等しかった。当然、アンゼリカに断る術はなく、住み慣れた故郷を離れ、右も左も分からない新天地に赴かざるを得なかったのだ。
ふうっとため息をつき諦めたかのような顔つきで、彼女はパスケースに金属片カードを戻して、せっかくなのでこれを首にかける。確かに自分の意思ではないとはいえ、父の志を継ぐためと考えれば多少の使命感も生まれてくる。いずれにしろ、まずは判事見習いから始まるキャリアに箔をつけるためにも、この金属片カードは役に立つだろう。
さて、そろそろ身支度の続きに戻らなければ。そう思い立ち上がった彼女は、急にガタンと列車が揺れた衝撃で前へつんのめりそうになる。何事かと窓の外に目を遣ってみると、そこには巨大な渓谷が辺り一面に広がっていた。列車は鉄橋に差し掛かり、そのときの衝撃が車体に伝わったようであった。
予想外の絶景に思わず釘付けになってしまうアンゼリカ。その刹那——。
視界のちょうど真上から、巨大な黒い影が飛び込んできた。目の前の窓ガラスが勢いよく割れ、無数の破片がアンゼリカ目掛けて飛び散ってきた。
彼女には、驚く間もなかった。何せその黒い影は、窓を突き破ってきたかと思えば、客室に飛び込み、勢いそのまま彼女の真正面まで迫ってきたからだ。
1mと間もない至近距離に来て、ようやく彼女は影の姿を視認した。眩しいくらいの陽の光が差し込み、逆光で朧気ではあるものの。灰色のボロ布のようなものに身を包み、体格はアンゼリカとほとんど変わらない、小柄で低身長、そして何より——フードに覆われていても、逆光でも、その瞳だけははっきりと脳裏に刻まれた。眼前の闖入者の瞳の色は、これまで彼女が見たどの帝国臣民のものよりも、綺麗な澄んだ青色であった。
アンゼリカは、不覚にもその瞳に見入ってしまい、相手がどこからか取り出したナイフ状の物体を、勢いよく彼女の首筋めがけて振るう一撃に、何の対処もできなかった。ただ「きゃっ」と小さく悲鳴を上げるだけで、彼女の首と胴体は、客室内に血しぶきをまき散らしながら、完全に切り離されてしまった。数秒後、彼女の首と胴体は、それぞれ鈍い音を立てて、揺れる客室の床に落下した。
突如現れた客室の支配者は、フードを脱ぐと、慣れた手つきでアンゼリカの胴体から、着ているものを全てはぎ取り始めた。血に染まった水色のアフタヌーンドレスも、おしゃれな履物も、そして肌着や下着も全て。脱がせ終わると、今度は屍のほうに目を移し、その器用な早業で、肉体に刃を通し始めた。
列車は鉄橋の2/3を既に渡り、時間に余裕はなかった。この渓谷を通り過ぎてしまう前に、片をつける必要がある。慣れた手つきで、頭部と18に切り刻まれた肉片とを抱え、割れた窓ガラス目掛けて1つ1つ放り投げる。円盤投げの要領で——その姿は、さながら古代祭典競技の正規選手のようであった。アンゼリカの死体を残すところなく川面に投げ込むと、汽車の走行音に埋もれながら、かすかにポシャンと音が聞こえる気がした。
遺棄を終えると、次いでこの者も纏っているものを順々に床に放りだし、全裸になる。そして、あられもない姿をさらしながら、部屋をけだるげに徘徊すると、亡きアンゼリカの旅行鞄を見つけた。主を2回もなくした鞄は、まだ下車準備の途中だったため無防備な状態で開かれていた。膝を曲げ、中身を漁る。つい先ほどまで人殺しに手を染めていたとは思えないほど、丁寧な所作であった。衣服や書籍を1つ1つ確認し、やがて『万国法典』を見つけると、気になったのか取り出して頁をペラペラと捲りだした。
——やはり、事前の調査は正しかったようだ。
それならば、彼女はアレも持っているはず。そう思って、鞄を隅々まで調べるが、目当てのものは見つからない。おかしい、あの父親が、娘にこれを託さないはずがないのに。
もしや。殺人犯は振り返って犯行現場を眺めると、案の定ソファのそばにそれらしき小物が転がっているのが見えた。幾分か小走りになって、駆け寄りそれを拾い上げると、わずかに厚みのあるパスケースだった。逆さにすると、1枚の金属片が飛び出してくる。そうそう、これだ。
皮肉なもので、彼女が死ぬ間際に手にしていた遺品こそが、今後の偽装工作の最大の鍵となるのだ。にやりとほくそ笑む不審者。彼女の闘いはここから始まるのだ。
(続)