Alea jacta est./賽は投げられた。①
大陸暦1880年3月31日水曜日、午前2時。
陽の光が一切差し込まない、薄暗く狭い地下室。天井から吊るされた白熱電球が、部屋の中央に配されたボロ机を弱弱しく照らしていた。
この机を取り囲むのは、藍緑色の軍服に身を包んだ4人の軍人だった。いずれも、階級役職ともに軍中枢のまさにエリートであって、とてもではないが、こんな埃にまみれた劣悪な環境で汗を流すような立場の人間ではない。しかし、彼らはいたって真剣で、自らの疲労と冷遇とを気にも留めていなかった。
何せ、事は国家の存亡にかかわる。一個人の労働環境を優先するには、あまりに困難な状況にあった。
「彼我の戦力配置、整いました。それでは始めます」
机上に広げられた大きな地勢図――帝国を含む世界大陸の全てが一望できるこの地図の上に、そう言って赤青2種類の駒を配置するのは、軍省本部兵器局銃砲課のキリル・カスバロフ大尉。齢は25、細身長身で短髪、そして優しい顔つき。士官学校を首席で卒業し、何事にも如才ない彼は、トップクラスに優秀な若手士官であったが、この度自ら志願してこの部屋に出向していた。
他の3人が物々しい顔で頷くと、彼は早速、配置した赤駒を左手で動かし、右手でポケットから懐中時計を取り出して時間を測り始める。
「……某日午前3時57分、払暁とともに敵戦力が越境行動を開始。我が国西南の平原地帯に流れ込みます。敵戦力の行軍速度と後方の補給能力に鑑みれば、午前7時30分には地方都市アルツ手前30キロの地点に到達しているでしょう」
極めて冷静なキリルの分析と、その淡々とした口調に、一同固唾をのんでその動向を注視していた。
彼は、なおも勢いを崩さず、視線を赤駒から別のところに移す。地勢図に二重丸で示された地点をとんとんと人差し指で叩き、続けた。
「同時刻、敵戦力を察知したアルツの辺境警備部隊から軍省本部に敵国侵攻の第一報が入ります。軍省本部の臨時即応会議でお偉方に我らの防衛計画が採択させて、各部隊に軍事行動命令が下るまでに、短く見積もっても3時間ほど……あまり悠長にはしていられません。本来ならば会議の後に皇帝官房を通じて陛下への上奏手続が必要とはなりますが、裏から手を回し、会議と並行しての上奏としましょう」
ここで、彼は赤駒に視線を戻し、駒をすべて一点に集中させた。
「午前10時30分、すでにアルツは占領されています。敵はこの占領軍務に一千ほどの兵員を割き、残りは同地に留まることなく、午後0時30分には北上を開始するでしょう」
まずはアルツの失陥。やむを得ないとはいえ、キリルの隣にいた女性士官は深いため息を吐いた。警戒や対策を十分に行っていれば防げる犠牲だろうに、上層部の怠慢や敵への過小評価がこのような事態を招くのだ。
彼女は、二重丸の傍に配されていたいくつかの青駒をかき集め、それを多少ずらして長方形のマークの上に置いた。
「我が軍も、この頃には帝都ラブルンスクの鉄道停車場で兵員の輸送を開始しています。兵数3万として、送り出すのに2時間程見ていただけたらよいかと」
軍省本部軍務局兵事課から出向のイレーナ・モロトフ少佐は、さすがに兵員の扱いを熟知していて、腕組みをしながら真面目な面持ちでそう告げた。威厳を感じさせる凛とした顔つき、多少乱れてはいるが綺麗な金色のロングヘアを靡かせ、自信に満ちた声色の彼女の言は、十分信用に足りるものであった。
「この鉄道、一本はアルツに向かうまでの一般の貨物路線、すなわち敵の進軍経路につながる路線ですが、もう一本別の路線がある…そうですね?セドウィン中佐」
モロトフは、地勢図から顔を上げ、正面の上官に目を遣る。すると、話を振られたセドウィンという男は、おもむろに煙管とマッチとを取り出し、点火して一服入れ始める。数十秒ほど沈黙の時間が流れたが、やがて口を開き、煙とともに言葉を吐き出す。
「昨晩、ようやく運輸省次官との折衝が実を結び、秘密裏に新たな軍用路線敷設を開始することが決定しました……。秘匿呼称は鉄道連隊演習線。表向きは鉄道連隊が演習のために使用する路線だが……実態は本計画に用いるれっきとした兵員輸送用路線だ」
彼のけだるげな渋い声が、部屋の空気を引き締める。軍省本部兵站局鉄道課から出向のナラル・セドウィン中佐は、軍省本部入りしてから20年間ずっと兵站畑を歩んでいた人間として、運輸省にも顔が利く存在だった。セドウィンは、持ち前の顎髭をいじりつつ、地勢図の緑で描かれた一帯を指さす。
「鉄道連隊演習線も、貨物路線と同様行き先はアルツ。だが、貨物路線と異なるのは、ここ、この森林地帯をあえて遠回りして突き抜けたところ。オーダーどおり、貨物線路の2倍の時間をかけて、アルツ南方2キロの坑道につながる手はずとなってる」
これが計画の核心であった。すなわち、貨物路線に乗って敵戦力の北上を阻止する一軍と、演習線に乗って手勢わずかな占領兵を排除し、アルマを取り返す一軍。この2つの軍が協力して敵を南北から挟み撃ちにする作戦。それこそが、この4人が2年がかりで編み出した国土防衛計画なのである。
「貨物路線の軍が接敵するのは、午後8時頃、ラブルンスクの南西250キロ、アルマの北東75キロの地点と考えられます。接敵後、戦闘開始。他方演習線の軍は翌日の午前6時にアルツに到着、同地を占領する、と」
キリルは、言葉どおりに赤青の駒を移動させ、実演する。
「同地を占領後、北方に転進。午前10時には、敵軍の後背を突くことができますが……接敵から『14時間』、その間貨物路線の軍は持ちますか?」
モロトフのほうを見ると、彼女は多少険しい表情をしつつも、
「敵もおそらく我が国と同等の3万人は動員してくる……。2万の兵を振り分けてもらえるなら、半日以上持ちこたえられる公算大ってところね。演習線が実現するか分からなかったころの『丸一日』に比べれば、大分マシになったんじゃないかしら」
と答えた。
すなわち、本計画は現実性を帯びているのだ。
「大佐……これならやれそうですよ」
それまで落ち着き払っていたキリルが、珍しく興奮していた。無理もない。何度も試行錯誤を繰り返し、ようやく完成したのだから。
すると、「大佐」と呼ばれる人物、すなわちここまで黙して机上の演習を見守ってきたこの部屋の最高責任者が、口を開いた。
「ご苦労、ここまでよくやってくれました」
上長の望外の労いの言葉に、セドウィンですら若干の安堵をみせる。肩まで届く白髪に、顔には深々としわが刻まれ、銀色の片眼鏡をかけた初老の将官は、後ろ手に腕を組んで背筋を正した。
「知っての通り、先の戦争から9年余りが過ぎようとしている。あの大戦……あの勝利は、確かに我が国の存立に欠かせないものであったが、しかしまごうことなく諸刃の剣でした。上層部は、亡国の危機から間一髪で脱した奇跡に有頂天になり、講和会議後には王国を過度に軽視しだした。国境警備をあからさまに手薄にするよう、部隊配置の転換を主張する参謀もいたほどです」
軍省本部軍務局兵事課の元課長、フリストフォル・ヴァイマン大佐は、苦々しい顔でそう振り返った。辛く苦しい『戦争』を二度と経験したくないという消極派の趨勢の中で、「慢心するなかれ、王国は必ず復讐の刃を向けてくる」と積極を貫き、ついには2年前、「そんなに敵を恐れるなら、部屋に籠って戦略を練っていればいい」と言わんばかりにこの部屋に飛ばされた過去がよぎる。この部屋、軍省本部外局国土防衛計画研究班——秘匿呼称・軍省本部主計課別班とは、つまり少数派の窓際族が、見えないところに追いやられる島流し先なのであった。
「そんな大勢にも流されず、自らの意思をもって私の理念に賛同し、出世の道を断ってまでこの計画に参画してくれた君たちのおかげで、今日、ついに結実に至りました」
3人とも、ヴァイマンの顔を見つめる。疲れてはいるが、しかし達成感に満ち溢れていた。この2年間、祖国の防衛のために必死に奔走してきた彼らは、まごうことなき軍人の目をしていた。
「もっとも、計画はあくまで計画、机上の空論に過ぎません。次は実行に移す段階……つまりは、鉄道連隊演習線の完成を見届けつつ、有事の際に速やかに本計画を上程できるよう、軍省本部内に根回しをすることが鍵となります。……私の不得意分野にはなるのですが」
ヴァイマンの自虐に、右腕モロトフは思わず苦笑する。この中でもっとも付き合いの長い彼女は、いかにヴァイマンが世渡り下手かということを身に染みて知っているのだ。
「私は兵事課にはまだ顔が利くので、大佐の代わりに説明に回りますよ」
「俺は、政府筋ならなんとか説得できそうだな」
「僕も若手連中には声をかけておきます」
各々が協力の姿勢を示したところで、大佐は「皆さん、よろしく頼みます」と頭を下げる。そして、最後にこう締めくくるのであった。
「……ただし、敵国の工作員にはくれぐれも気をつけるように。本計画は最重要軍事機密として、紙媒体には一切の記録を残していません。つまり、ここにいる4人の記憶こそが唯一の記録ということです。来る日まで誰一人欠けることのないよう、細心の注意を払って事にあたってください」
(続)