THE STAY HOME BETRAYED――夢破れてコロナあり
お久しぶりです。久々にログインしたら、コロナと当時の大学受験について、2021年に変わった直後に書いていたものが残っていました。年齢バレしますが折角なんで投稿しておきます。思ったより長かったので編集もせず、当時の心境がモロにぶつけられていたものがそのままなのでお目汚しするかもしれません。
2020年は、誠に最悪な年であった。全てが夢であった、とても現実的だが実は長い夢を見ていた、そう信じていたい程だった。むしろ2020年は本当に存在していたのだろうか。
日本社会のみならず、数多くの国に住む人々もまた、苦渋の一年を過ごしたことだろう。厳しいロックダウンを乗り越えた人もいれば、ただウイルスが広がるのを何もできずに眺めた人もいるだろう。この混乱の中にあっても相変わらず夜空に星々は煌めいていたが、その星の数ほどの人が、それぞれの職を、余裕を、楽しみを、生き甲斐を、希望を、チャンスを、機会を、夢を、未来を、奪われたことだろう。大規模な自然災害で住まいを追われたり近しい人を亡くしたりした人がそうであるように、この年に起きた様々な出来事で、多くの人が当たり前のありがたみを痛感したことだろう。
そう。この年はこれなくして語れない。新型コロナウイルス感染症、COVID-19、SARS-CoV-2――様々な呼び方があるが、以下では単にコロナと呼称する。
また個人的にも人生の中で「最も最悪な」一年であったことは言うまでもない。この苦渋の一年を、屈辱の一年を、停滞の一年を、無の一年を、記録に残しておこうと思う。いつか自分が前を向いたとき、機会を獲得したとき、成長したとき、成功したとき。これを見返して、決して忘れないように。
私という個人から見た2020年。それをほぼ時系列に沿って書き残しておきます。社会一般的なことも私事も、様々な要因が複雑に絡み合い、しかし真綿で締め殺すかのようにじっくりと、苦しめられた一年でした。これを書いているうちも完全には復調しておらず、時折この文章からも逃避したくなっているため、投稿までかなり時間がかかっていると思います。書き始めたのは2020年末です。尚、これを書き終えるに至るまでに、誹謗の嵐に晒されたことで多少オブラートに包んでいる場合もありますので、実際よりは幾分かマイルドに仕上がっていると思います。辛い世の中になったものよ……
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2019年の大晦日と言えば横浜の有名企業のトップの逃亡が話題を呼んでいたが、コロナウイルスの報道もこの日が初めてであるという調べがある。また年明け早々にソレイマニ司令官の殺害が報じられ、波乱の幕開けとなった。そう、日本中どこでも家族が集まって正月を過ごせた最後の年末年始……その裏では残虐な屑ウイルス共が、着々とその勢力を広げるために暗躍していた。
その中で一月を通して、武漢で見つかった原因不明の肺炎の報道が増えた。けれども一月は、まさにほんの序章に過ぎなかった。武漢市で広まるウイルス、それはやがて武漢市と関わりのある中国全体に広まり、そして中国と関わりのある世界へと羽ばたき始めた。世界中の人はまだ、この先に訪れる、どうしようもない未来は想像ができなかっただろう。中国で何千人もの新規感染者が報道され、新種の恐怖がようやく日本に接触し始めた頃、某国連の保健組織様は「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」には該当しないと仰っていた。
騒々しい年明けとなった2020年であったが、それでも私はニュースにばかり目を向けてはいられなかった。
令和二年一月十八日。凍えるような寒空の元、私はセンター試験に向かった。それは未来を掴むための第一関門であり、とても重要な通過点であった。学校の先生や塾の先生が見送ってくださる中、私はいつもとは違う緊迫感を漂わせた友達の許へ向かった。
翌年からかわる共通テストを意識してか、一風変わった問題もいくつかの科目で散見されたが、さしたる問題にはならなかった。数学の片方は少し時間が足りなかったが。
失敗をしないように、とにかく何度も科目欄や受験番号、解答のマークなどのチェックを行った。途中、失敗したと溢していた友達とも引き摺らないように励まし合いながら、本番の二日間を過ごした。
大河ドラマはコロナにより撮影が遅れたため2021年になっても放送は続いているけれども、そもそも出演者の逮捕により、放送開始が一度繰り下げられていた。その初回がセンター二日目であり、帰宅した後の、自分へのご褒美でもあった。
二月は、まさに二次試験のためだけに存在していた月であった。月の初めに滑り止めの私立を受験し、中頃に難関私立を受け、そして運命の二月二十五日、二十六日は大本命大学の受験であった。このために三年間、色々と我慢して勉強してきていた。
実はセンター一週間前まで担任や親とあーでもないこーでもないと出願大学を決めかねていたのだが、このスケジュールは、結果的には良かったと思っている。まず滑り止め私立で入試の感覚を掴み、難関私立でそれが活かされた。そして大本命大学での試験の緊張も少しは和らいだ。センター利用でもいくつかの大学を出願していたのだが、それについては割愛する。
まず一つ目の大学であるが、実はセンター利用も出していた。それはさておき、まあまず落ちることはないだろうとリラックスして受験できたのは良かった。この頃はまだコロナが然程深刻ではなく、終ったあとに大学近くのお店で買ったスイーツを店の横で立ち食いした。これもまた自分へのご褒美である。将来への意気込みもそうだが、こうやって時折モチベーションを上げていた。
二つ目の大学だが、広大なキャンパスの中を多くの受験生が歩いていくのはなかなか圧巻の光景であった。銅像の前で写真を撮るくらいの心の余裕はあった。確かに難しくはあったが、帰り道は朗らかに帰った。
一つ目の大学と二つ目の大学はいずれも都内にあり、同じホテルの同じ部屋に宿泊した。受験生プランをやっており、同一フロア内は受験生しかおらず、専用の自習室があり、フロントでマスクがもらえるという、至れり尽くせりのプランであった。ホテルの方、ありがとう。どちらの試験も前日はいつもより少しいいものを食べてモチベーションを上げていた。実はこれによって少し高くておいしいものの良さを知ってしまったことは、後の金銭管理上よろしくなかったのかもしれない。あとカプレーゼおいしい。イタリアン最高。
さて私立受験の話が終わったところで、母校の話をしたいと思う。
私が通っていた高校が自称進(自称進学校)なのか進学校なのかはグレーゾーンだと思っている。少なくとも環境としては、私から見るといいものであった。私の学科は普通科に加えてさらにいくつかの活動がある少々特殊な、高校イチオシの学科であった。そこを選んだ私の判断は間違ってはいなかったと現時点では思っている。私の学科は二クラスだった上によく一緒に行事や授業があったため、隣のクラスの人間もほぼ知っていた。自然観察実習や企業訪問など、見識や経験を広めることができた。また、これは学科を限定していないのだが、海外研修や科学系の大会に参加させていただき、本当に唯一無二の体験を積み重ねることができたし、自分でも自信を持てる技能も身に着けることができた。
本当に良い高校だったと思っているが、ブラックな面も多々あった。最近地元にいる友達から聞いたのは、大雪の中で休校にせずに帰宅できなかった生徒がそこそこいたということだ。なんだか卒業してから体質が悪化している気がする……
閑話休題。そろそろ受験の話に戻るが、最後の一か月は志望大学ごとに授業をしてくれて、本当に良い練習になった。私は理系の中では国語ができる方だと自負しているが、同大志望の国語の解答を見ると圧倒的な言語力の差を垣間見ることができた。これでも日本トップレベルの国語力ではないか……世界は広し。
同じ大学を受けるメンバーで授業を受けたことは、いい刺激になったと思う。まあ大体は元から知り合いだったけどね。
同じ大学を受ける友達の三分の一くらいは塾の同じクラスに通っていた経験があった。この塾も良かったと思う。主に国語英語数学(大学生の今ではこの科目名さえ懐かしい)をとっていて、それぞれ味のある先生の、興味を持たせながら少しづつ身に着けることが出来る授業で、割と楽しいクラスであった。いい意味で変人が集まっていたのかもしれない。あと、夏季、冬季、春季講習以外の塾費を免除してくれてたのは、家計的にも家庭内での立場的にも、本当に感謝に堪えない。
塾で思い出深いのは一年生の英語かなあ……花火大会の日に花火が見えそうな教室に行ってみんなで見える見えない言っていたのが青春の一ページであった……
さて、そうした中でとうとう迎えたのが、国立大学前期試験であった。私立では一日前に現地に入ったが、この時は二日前に入った。前日には本番と同じ時間にホテルから大学まで同じルートを歩き、途中どこで昼食を買うのかなどを確認して歩いた。キャンパスの中に入り、試験会場の建物の前までいったところで確認を終え、少し周辺を見ながら帰り、勉強した。夕食はデパートにある和食店でおいしい食事をいただいた。このデパートのエレベーターがレトロで面白かった。
尚、この頃にはコロナがある程度広まっており、地元に万が一持って帰ることがないよう、食事の後などに一日に何度もマスクを変え、とにかく感染対策を徹底していた。また、私立受験の際にホテルでもらったマスク六枚を本番用と自ら定め、私立二校で一つずつ、このときに二日に午前と午後で二つずつ使えて丁度よかった。受験の中で、いつもと同じものというのは大事で、マスクも自分にあったものを選びましょう。
このときの試験ばかりは本当に緊張した。最初の科目が国語だったのだが、本当に絶好調であった。本当に手応えがあったし、家族や担任にも喜びのメールを送った。実際に後々送られてきた試験結果では、国語は本当に優秀な成績だった。
国語の成績というものは本当に分からないもので、私の見解では採点者によって大きく変わるものだと思っている。私も小中高とそれを経験してきており、私はどちらかというと自分で考えて書く派であったため、模範解答に固執する先生との相性は最悪であった。むしろ文中にこう書いてあるし模範解答よりこっちの方がよくないかと常日頃から不満に思っていた。そのため、日本でも有数の人間がつけたであろう採点で超高得点を叩き出せたことは、恐らく一生の誇りとなるだろう。
今思えば、あの本当に全能感に満ち溢れた国語の試験が、私の人生の極大値であったのかもしれない。それに気付くのはかなり後になってから。
英語では、全体的に少しずつ振るわなかった。英語のリスニングは、ただでさえ本来聞き取りにくい音源であるのに、音響の都合で音が多重に聞こえて本当に聞き取れなかった。今までの訓練は一体……
数学は普通であった。もう少し取れたら楽だったね。
理科は完全に失敗した。私は物理の方が得意で、物理に重点を置く方針をとっていたのだがたまたま物理の問題との相性が悪く、想定以上に時間がかかって化学に十分回せなかった。最大の失敗といえば正しくここであろう。
さて、試験終了直後は、本当に受かるかどうかの瀬戸際に立っている感覚で、途轍もなく緊張していたし、天に縋るような気持ちになっていた。
なにはともあれ、試験は全日程が終了し、私は当時院生であった兄の許に泊まり、翌日帰宅した。帰宅前に寄った美術館でマダムとお話した記憶はあるが、詳しいことはもう覚えていない。確か展示内容は狩野派だったはず。日本史が好きで選択していたので丁度よかった。
いつのまにか時は流れ、もう今日は卒業の日――
人はいつか旅立つものだけど、卒業式には在校生は来なかった。コロナのせいで。ここから本格的にコロナの害が始まった。在校生に直接お別れを告げることなく、友達や先生に感謝を告げ、そして私は、高校を去った。
仲の良かった友達と自撮りをし、お世話になった先生とも自撮りをした。コロナのせいか、お別れ会はなかったため親の迎えで帰るのだが、卒業式の興奮の余韻が残ったままの、誰もいなくなった最後の教室は、いつもと違った寂しさと趣に満ちていた。寂しさと背中合わせの、一人きりの旅立ちになった。
さて、高校受験が終わった後は遊んだり買い物をしたりと徹底的に憂さ晴らしをしたのだが……それは今回はできなかった。まあ仕方ないよね。長かった受験という懲役生活が終わるんだから!!!
一応前期が落ちた場合に備えて後期の大学の赤本を解くわけだが、これには身が入らなかった。受けるかどうかも分からない上、一度2月26日が終わった時点で完全に気が抜けてるわけだから。
それで合格発表もまた、コロナの影響により掲示はなくなった。掲示板の前で記念写真、なんてこともなくなったわけだ。
なんだかんだグダグダしつつも、時は変わらず流れ、その日は無慈悲にも訪れた。
三月十日のことである。
その日は午前から落ち着けるわけもなく、結果の公開時刻まで延々とブラウザを更新したり、YouTubeで適当な動画を見たりして、時が来るのを待った。
さていよいよ公開の時間になった。更新。まだ出ない。更新。まだ出ない。更新。出た!
受験票を片手に、自らの番号を探す。
ただ異常なほどの緊張だけが心臓から伝わってくる。
段々と番号が近付き、マウスホイールを下に回す。
そこに自分の番号は……………………
――――――――なかった。
そうか。私は認められなかったのか。大学から、その価値がある人間として。
無論胸に深々と傷を負ったが、妙にストンとそう理解できた。
所詮自分はその程度の人間であったのか。
――私はこの日以来自分を信用できなくなったし、自分自身に価値を見いだせなくなったし、これ以降は人生を暗転させる出来事は起きなかった。
これからは未だに終わりの見えない、長い長い、一生戻れない、人生の急な下り坂を少しずつ下りていく。負の財産を大量に獲得しながら。
まず母親から電話がかかってきた。ちょうど仕事は昼休みの頃だろう。この時に何を話したかは全く覚えていない。後の話では、本当に暗い声であったという。辛いときも待ち受ける大学生活を想像してほとんどの場合を明るく振舞っていた私は、ついにその心の拠り所を失いつつあった。
続けて塾の英語の先生からLINEが来た。
「大丈夫ー?げんきー?」
返す言葉は特に浮かばなかった。
「だったらすごいですね」
それは率直な気持ちだった。
慰めの言葉が何言か続いた後、話題はどう身を振るのかという話になった。一応私大はすべて合格していた。入学金を払ってもらってる負い目と、受験で深く沈んだ気持ちを持ちこたえさせていた新生活への希望なしではもう一年は乗り切れないという判断から、気持ちはどこかに入ることに傾いていた。
まあここで一つの無限大に広がる夢が潰えたのだが、ここから先はある意味投げやり気味ではあった。締切が迫っていた難しい方の私立の入学金を振り込むことになり、翌々日の後期試験に向けて翌日に出発することとなった。
後日親が私の当日に呟いたコメントについて言及していたのを見つけた。
「regretっていい響きだよね」
「2トーンくらい低い声だった。きっと悔いてるんだ。涙が止まらない。」
翌朝早く、私は新幹線に乗った。まずは試験を受けて、それから考えようという話になった。例のごとく試験会場までの経路を確認したが、さして勉強する気にはなれなかった。本当に投げやりである。不合格なら不合格でそれでいい。煮るなり焼くなり好きにしやがれ、と。
夕食は、宿泊したホテルで食べた。部屋も今までより良い部屋だったし、この夕食もいいものであった。彼女なりに励まそうとしてくれていたのかもしれない。レストランから見えた海と、蒼く輝く観覧車を見ながら、沈んだ気持ちで贅沢な食事をいただいた。平常心であればもっと楽しめたことであろう……
前日だろうがネットサーフィンはしたし、なんなら後期試験当日の朝もしていた。ネットの荒波の中で慰めを見つけようとしたが、その低確率を引き当てることはできなかった。
気持ちは何も変わらないまま試験会場に到着し、まず数学を解いた。もう後期主席を狙えるかと思うくらい快調だった。しかし理科はそこまでではなかった。どうやらお受験の理科はできない理系という、よくわからない存在であるのかもしれないと思っていた。
試験が終われば地元に帰り、高校の担任と面談することになった。私立か、受かったら後期か、もう1年か。答えなど出ない迷いをそれから1週間ほど続けた。後期合格発表の数日前に決めたのは、良く言えば後期の結果を天命と捉えて天命に従うということ。悪く言ってしまえば判断の放り投げである。
結果としては合格で、後期の国立に通うことになった。
大学を決めたからには、その大学でやれることをやる、挑戦して新たな人生を、価値を、見つけようと思っていた。大学ではそれが当然できるものだと思っていた。
ところが話はそれで終わらなかったのであった。
( ;∀;) ( ;∀;) ( ;∀;)
三月二十一日、大学の合格が発表された。翌日、アパートを探しに新幹線に乗って大学の近くまで来た。もうほとんど物件が残っていないらしく、二つの内から一つ選んだ。大学には少し遠いが駅にはそこそこ近く、結果としては今年度には便利であった。
三月二十五日。LINEやメールの記録、Twitterやファイスブックの投稿、大学のサイトやニュース記事などを参考にしてこれを書いているが、この日に自粛要請という文字をLINEで初めて見た。
三月二十六日。授業開始日の変更が大学から伝えられた。この時点では授業形式について特段の通達もなかったため、「通常」の授業の予定であったのであろう。ただ、入居日や引っ越し業者の確保は変わらないため、予定通りに引っ越しをすることになった。
三月二十七日。関東に住んでいた家族の住居から必要な荷物を選別するために早朝の新幹線で向かった。必要な作業を済ませたあとはそのアパートで就寝した。
三月二十八日。残りの家族も合流し、荷物の搬出を行った。その後は受け取りのために今の大学に近いホテルに宿泊した。そのホテルの入った商業施設はどうやら二十八日の土曜日と二十九日の日曜日は休業したという記録がある。この情報を聞いた私は、まさかホテルも!?と動揺していたようである。
三月二十九日。この日は入居するアパートに入り、荷解きをした。期待の「新生活」が「始まった」日であった。
三月三十日。速報で志村けんさんが亡くなったことが報じられ、日本中に激震が走った。後日談だが、これは大学関係者にも大いに影響を与え、後の判断にかなり尾を引いたようである。LINEで新入生オリエンテーション中止の可能性があるという噂を人伝に聞いた。同日、翌々日に迫っていたオリエンテーションと英語のクラス分けテストの中止が決定した。
三月三十一日。引っ越しがひと段落したため、受験が終わったら買おうと予てより考えていたゲーム機を買いに家電量販店に行った。そこで初めて品薄となっていることを知った。コロナによる部品輸入の停滞、人気ソフトの発売もそうだが、何よりも悪の転売ヤーによる買い占めが大きく影響していた。地元のお店にもないらしく、インターネットでは定価よりも何万円も高い値段で売られていた。夕方には初めての料理に挑戦した。LINEで家族に写真を送ると、何も教えていないし今まで経験ないのに、と驚いていた。インターネットは本当に偉大ですね。
四月一日。通学路の確認と生協での手続きのため、大学に向かった。まさかこれがそんなに貴重なことになるとは……
四月二日。四日から大学構内の入構規制を行うことになった。
四月三日。アパートの前には桜の花びらが落ちていた。桜散る。
四月四日。東京で感染者が120人を超えたらしい。親に帰って来いと言われた。
四月五日。実家に帰った。
四月六日。帰省した学生は二週間あまり出掛けないでという市の発表が出た。
四月七日。緊急事態宣言が発出された。もしかしたら日本社会が最大限緊張していたのはこの頃であったのかもしれない。
四月八日。春学期の授業を遠隔で行うことが通達された。
四月十日。品切れが続いていたマスクが久々に入荷されていた。たまたま親がコロナ前にマスクを多めに購入していたため、例年よりは備蓄があったのが不幸中の幸いだった。ただ、この後は少量、高価、粗悪のうち二つ以上満たされたマスクしかなかった。以前から使っていたマスクを買えるようになるには冬を待たなければならなかった。
四月十六日。マスク、体温計、ウェットティッシュ、ビニール手袋、ハンドソープが全て売り切れていて、中性洗剤が急速に減っていた。社会が、流通が、パニックを起こしていた。我が家では固形石鹼を買うことになった。
四月五日以降、散髪やアパートの維持以外、田舎の最寄り駅にさえ行かなかった。半年ほどいた地元にいたうちの数回の外出の最初は、七月十七日だった。このとき街を歩く人々の感染症に対する態度に失望したことを、今でも明確に覚えている。マスクをせずにしゃべる人々が、そこそこ多くいた。報道だけ見ていてコロナが収まらない理由を疑問に思っていたが、このときは腑に落ちた。
四月に慌てて帰ったために放置されたゴミの処理など、維持のために本当にどこにも寄らずに何度かアパートに行ったことがあった。四月に地元に帰ったときにはほとんど出歩く人はいなかった。ところが宣言の解除後から、夏休みに前期行われるはずだった実験が行われるためにアパートに戻るまで、時を経るごとに人は増えていた。私は社会規範を守っているのにこういう奴らがいるから一向に収束しないのだと憤慨した。
めっちゃ突然かもしれませんが、ここまでです。流石に今はここまで落ち込んでいないので、続きを書くことは当時の自分に失礼だと思いまして、加筆しておりません。
それまで悔しい経験はあれど挫折とまではいかなかった私にとって、最大の挫折というべきがこの大学受験でした。そこから立ち上がろうとする所での新入生交流会の中止とサークルの活動禁止。皆さん辛かった時期でしょうが、私と同じ学年だった人はよりダメージが大きかったというのは今でも思っています。まあ文頭の誹謗というのはその意見表明に対してSNSで徹底的に人格否定されたというお話ですね。正直今に至るまでの人間関係に致命的なダメージを与えたと考えています。これを執筆した後にサークル活動が解禁されましたが、厳しく制限された上、同期は先輩や後輩に比べて顕著に少なかったです。たまたまそれまでで最大の挫折とコロナによる新規環境構築の禁止が重なったことで受けた影響は大きく、多少は立て直しましたが、お恥ずかしながら未だに過去を(これ執筆以降投稿までの四年も含めて)乗り越えたとは言えませんが、これを持って供養とします。
ナポレオンの続きを書きたいなという気持ちはあるんですけど、長くなってしまった前座をどう収束させるか分からなくてエタってしまっている節があります。なにか良い案がある方は感想なで教えて頂けると助かります。ただの消費者ではなく、小さくとも何かを生み出す人くらいにはなりたい。