事件・中
その夜の篠原は、なかなか眠れなかった。そう長くは空いてはいない自分の前の居場所に戻るのと、櫻子とバディとして組む緊張と、でだ。
朝になり特別心理犯罪課の部屋に着くと、いつも通り自分が一番だった。櫻子に貰った真新しい鍵でドアを開けると、何時でも珈琲を淹れる事が出来る様に準備をしておいた。
「おはよう」
次に部屋に入ってきたのは、珍しく笹部だった。眠そうに、椅子に座っている篠原に声をかけた。
「おはようございます」
「おはよう、二人とも」
二人が挨拶していると、そこに櫻子も姿を現した。
「おはようございます」
篠原と笹部は、部屋に入ってきた櫻子に挨拶をした。今日の櫻子は、白いブラウスにブラウンのタイトスカート姿だ。櫻子は体のラインをはっきり強調する服を好んでいるようで、時折篠原は目のやり場に困る。
「珈琲を飲んでから向かいましょうか、篠原君。それから、昨日のお初天神ビルの事件の検死やら何かしらの情報が今日届くと思うから、笹部君はそれを受け取っておいてね」
二人に今日の指示をして、櫻子は椅子に座る。
「了解しました、ボス」
笹部はそう返事をして、早速パソコンを開いて画面に向かう。篠原は言われた通り珈琲の準備をしだした――ようやく、刑事らしい仕事が始まった。
「え? 電車で行くんですか?」
珈琲を飲み終わり曽根崎警察署の玄関を出た篠原は、駅に行こうといった櫻子を意外そうに見つめた。
「ええ。こっちに来て久し振りに、私がいた頃と名称が変わった電車に、乗りたいの」
篠原の言葉こそ意外と言わんばかりに、櫻子は首を傾げた。確かに大阪の地下鉄が東京と同じ『メトロ』と改名されたのは、最近だ。
「でも……ヒール、大丈夫ですか?」
篠原が心配していたのは、櫻子の足元だ。女性のファッションなど良く分からないが、櫻子のヒールは警察署にいるどの女性よりも結構高いだろう。言い方を変えれば、歩く仕事に向いていない。曽根崎署がある梅田から大阪メトロ心斎橋方面の電車に乗り、長堀橋まで向かう。降りてから徒歩で大阪南警察署に向かうとなると、結構歩く事になる。ヒールでは足が痛くならないのかと、篠原は内心首を傾げた。
「大丈夫よ。山登りしろと言われれば断るけど」
櫻子はブランドバックを肩に掛け、まだ止めようとしている篠原を置いて駅に向かって歩き出した。それに気がついた篠原は、慌てて櫻子に続いて歩き出す。
「町並みは、あんまり変わってなかったのね」
降りる予定だった手前の駅である心斎橋で降りた櫻子は、『ミナミ』で有名な戎橋商店街を歩きながら辺りを見渡す。平日の昼間前だというのに、老若男女様々なであふれている。外国人観光客も、ずいぶんと増えた。しかしずっと大阪で過ごす篠原には、もう見慣れた風景だ。
『ひっかけ橋』と異名のある戎橋まで来ると、櫻子は道頓堀交番へ足を向ける。それに気が付いた篠原が慌てる。
「一条課長、南署に向かうんじゃないんですか?」
「被害者の亀井さんは、この辺で客引きしてたんでしょ? 話を聞いてみたいわ」
篠原は、以前まで道頓堀交番の制服警官だった。それがこの春に昇進で刑事になった。同僚に今の自分を見せつける様で、内心少し困ってしまった。
「あれ? 篠原か?」
交番の前に来ると、中から誰かが出てきて篠原に手を振った。篠原はドキリとして肩を竦めてそちらに視線を向けた。
「ヤスさん!」
その人物は篠原よりずっと年上で、道頓堀交番勤務が長い安井だった。優しくてよく自分を面倒見てくれた人物に安心して、篠原は思わず笑みを浮かべた。
「一条課長、この道頓堀交番で勤務経験が長い安井さんです」
二人のやり取りを眺めていた櫻子に、篠原は安井を紹介する。櫻子は頷いて、安井に右手を差し出した。
「初めまして、曽根崎警察署の特別心理犯罪課の一条櫻子です。篠原君にはお世話になっています」
「こんな別嬪さんと組んでるなんて、篠原は幸せもんやなぁ。安井浩二です」
「ヤスさん、何してるんですか?」
安井は四十代後半の風貌で、人のよさそうな顔に笑顔を浮かべて櫻子の手を握り返した。そこに、交番からもう一人男が顔を覗かせた。
「森口君、君と交代でここから曽根崎署に異動になった篠原君と、同じ部署の一条さんや」
森口と呼ばれた男はまだ若そうで、二人にぺこりと頭を下げた。制服姿がぎこちなく、どうやら初めての交番勤務になった様だ。
「で? 顔見せに来たんは、何か用事があるんやろ?」
安井は、再び篠原に視線を移した。
「突然お伺いして申し訳ありません、亀井まどかさんの事について少しお話を伺いたくて」
横から櫻子が口を開くと、安井と森口の顔が強張った。
「外で話すんもアレやし……どうぞ中へ」
安井は、二人を交番の中へ招いた。にぎわっていた町の喧騒が、少し落ち着いたような感じがした。