集合・上
大阪伊丹空港に着いた櫻子は、ロータリーでタクシーに乗り曽根崎警察署に向かった。
生活用品は先に送っていたため、手にしたブランドバッグ一つで初出勤だった。
タクシーの運転手は、ルームミラーでチラチラと櫻子を窺っている。彼女はいつも通りの黒いタイトスーツ姿で、長い足を組んで後部座席に座っていた。櫻子は運転手の視線に気づいていたが、男たちの視線には慣れている。特に気に留めることはなかった。
彼女は、タクシーから窓の外を眺めていた。大学卒業まで関西で過ごしていたので大きな違和感はない。
それでも大阪は、変わっていく。どんどん都市が大きくなり、東京にいるのと変わらないように感じる。
「お客さん着きましたよ。領収書はいりますか?」
変わらないのは、この独特な関西のイントネーションだろう。懐かしさに、櫻子は小さく笑む。
「お願いします」
タクシーは、曽根崎警察署のすぐ前に停めてくれていた。櫻子の長い足が、アスファルトを踏んだ。
大阪の主要部分は、「キタ」と「ミナミ」と呼ばれるエリアに分かれる。櫻子の異動となった曽根崎警察署は、キタのエリアだ。ミナミの喧騒は、東京の新宿に少し似ているかもしれない。
「おはようございます」
正面玄関から入った櫻子は、真っすぐに受付に足を向けた。
「本日付で着任した一条櫻子警視です。私の特別――」
「あ! 一条警視!」
櫻子の言葉を遮ったのは、受付前のベンチ椅子に座っていた青年だった。立ち上がると慌てて駆け寄ってきた。
「おはようございます! 自分は、篠原大雅巡査部長です。今日からお世話になります」
大きな体でぺこりと頭を下げる姿は、昔近所で飼っていた大型犬を思い出した。その頃の櫻子はその犬が怖くて、よく泣いたものだ。飛行機で読んでいた資料の顔写真と経歴を思い出す。高校卒業後警察官になり、直近はミナミの道頓堀交番勤務していた制服警官だ。部下を選ぶときに、櫻子が自分で彼を選んだ。
彼が自分の部下になるのが、適任だと感じた。
「おはよう、篠原君。よろしくね」
櫻子はカバンと春用のコートを左脇に抱え直して、篠原に右手を差し出した。白く美しく、淡いベージュのネイルがされた綺麗な手だった。芸能人を前にしたような感覚に戸惑いながらも、篠原は緊張したようにその手を握り返してもう一度頭を下げた。
「よろしくお願いします、すぐに部屋に案内します」
受付の女性警察官に頭を下げてから、篠原は櫻子に視線を戻した――だが、篠原はふと違和感を抱いていた。それが何か、分からない。ほんの些細な、違和感だ。 しかし答えが出ないままそっと手を離すと、彼女の前に立ち先に歩き出した。櫻子も頷いて彼の後に続く。
部屋は二階の、南向きの部屋だった。突貫で工事をしたと聞いていたが、室内に入り中を見渡すとさして問題はなさそうだった。
「何か足りないものが有れば、いつでも言ってください」
部屋の正面に置かれた『一条課長』と書かれたネームプレートのある机に座ると、櫻子は吐息を零した。椅子のクッションも丁度いい。
「珈琲でも淹れましょうか?」
篠原はすぐに座った櫻子の横に立ち、彼女からコートを受け取るとそれを丁寧にハンガーに掛けた。聞かなくても、彼女のものは高価なものだと理解していた。
「そうね――あ、私の段ボール箱は届いてる? そこに、私のカップと珈琲豆が入ってるわ」
今はまだ使われていない来客用の椅子の上に、櫻子の私物の段ボール箱が置いてあった。昨日届いていたのを、署員が預かってくれていたのだ。 勝手に触っていいのか分からず、篠原はそこに置いていた。
櫻子に許可を貰った篠原は、丁寧にガムテープを剥がす。
確かにその中から、言われた通り珈琲豆の袋と淡い菫色のカップが目に入った。落とさないように、篠原はそっと取り出す。
「用意するので、少しゆっくりしててください」
櫻子が頷いたのを確認すると、篠原は財布を手に慌てて曽根崎警察署を飛び出した。
警察署にあるのは、簡単なコーヒーメーカーだ。しかし櫻子の用意したのは、珈琲ミルから必要な『豆』だった。「駅前の大型量販店で、確かあったよな?」と思案しながら、篠原は慌ててそちらへ向かった。
朝から署員たちが「我儘で気取ったお嬢さん」と噂している櫻子の面倒を任された篠原は、最初からの彼女の我儘に小さなため息を零した。
しかし、不思議と不快ではなかった。
慌てて買ってきたミルとドリッパー、そしてドリップポット。
それらを袋から取り出して、彼女のカップも一緒に丁寧に洗った。
慣れないながらも、篠原は彼なりに丁寧に淹れた珈琲を櫻子の机に置いた。
「有難う」
笑顔を見せて珈琲を口にした彼女は、僅かに眉を寄せた。
「三十点ね」
その言葉に篠原は肩を落としたが、櫻子はちゃんと彼が淹れた珈琲を飲みほした。




