嫉妬・上
昼前に、櫻子の電話が鳴った。櫻子がスマホを取り出すと、「失礼」と言葉を残して彼女は部屋から出た。
『櫻子さん、こんな時間にごめん』
櫻子が通話を押すと、聞き慣れ始めたホストの流星の謝罪の言葉が聞こえてきた。
「大丈夫よ、そろそろお昼の時間だし」
細い左手首に絡まる様な繊細なデザインのブランド物の腕時計で時間を確認した櫻子は、廊下の壁に凭れる様にして安心させるように返事をした。
流星はいつの間にか、こんなに『何気ない普通の日常会話』が出来る友人と呼べる存在になっていた。そのことに、櫻子の心は少し明るくなっていた。流星といる時は、強くあり続けなくても構わない――そんな安心感が、彼をより特別に感じていた。
『そっか、良かった――それなら、お昼一緒に食べない?』
こんな時間に流星が櫻子を誘うのは、珍しかった。会話は敬語がなくなり始め、流星が出勤する前に軽く会って何度か食事をした。流星が櫻子に、もう店に来なくていいよと言ったからだ。友人以上、恋人未満のような関係で櫻子はくすぐったく感じている。
「ええ、構わないわ。どこで待ち合わせる?」
『今、難波駅にいるんだ。そっちに行こうか?』
「それなら、私がミナミに行くわ。そうね――戎橋で会いましょ」
キタのホストクラブ『Majesty』の店長を任せられている流星だが、住んでいるマンションはミナミにあると聞いた。それに、やはり派手な見た目の流星とキタで会っているのを誰かに見られるのは、今の事件上あまり好ましく思われないだろう。
電話を切った櫻子は、「少し出かけるわね」と笹部と篠原に声をかけて大阪メトロの御堂筋線に乗り込んで、難波へと向かった。
「珍しいですね、一条課長が一人で出かけるなんて」
櫻子が部屋を出た後、篠原は不思議そうに彼女の姿を隠したような部屋のドアを眺めた。笹部は、パソコンのディスプレイから視線をチラリとそのドアへ向けた。
「――恋の季節、だったらどうする?」
「え?」
笹部は、僅かに唇の端を上げて小さく笑った。そんな笑い方をする彼を、篠原は初めて見た。
「一条課長、好きな人が出来たんですか?」
チクリ、と胸が痛む感覚を覚えながらも、篠原は続けて笹部に続けて尋ねた。笹部は肩を竦めると机の引き出しを開けて栄養補助食品を取り出した。
「ボスも、恋してもおかしくない歳だってだけ。ボスの私生活は、僕には分からないよ」
「そうですよね……あ、笹部さん紅茶入れましょうか?」
笹部が紅茶を好きな事は、以前教えて貰った。その言葉に笹部は頷いて、栄養補助食品を取り出した引き出しの奥から紅茶の缶を取り出す。
そこへ、部屋のドアがノックされた。
「はい」
篠原が慌ててドアに向かい開けると、そこには竜崎が立っていた。
「良かったら、お昼一緒にどうかって思ったんだけど……笹部さんもどうですか?」
「僕は、これ食べるんで。二人で、ゆっくりしてきていいよ。出かけるより、留守番が好きだから」
篠原が返事をする前に笹部はそう断ると、栄養補助食品の箱を軽く振った。
「すみません、笹部さんの紅茶淹れてからでもいいですか? ぜひ、ご一緒させてください」
篠原は人懐っこい笑みを浮かべると、紅茶を淹れるまで待って貰うように自分の机の椅子を引いた。
「分かったよ。だけど、笹部さんそれだけで大丈夫?」
「課長がいる時は、皆で揃って昼に行くことが多いんです。今日は課長出かけてるんで、笹部さん引きこもる気みたいで」
笑いながら、篠原は笹部の為にお湯を90度まで沸かしている。紅茶に向いている温度も、笹部から教えて貰っていた。
「ふぅん、そうなんだ」
篠原の椅子に座った竜崎は、相変わらずぼんやりとディスプレイを見ている笹部を不思議そうに見つめていた。
篠原は丁寧に笹部の為に紅茶を淹れると、彼の机に良い香りのするカップを置いた。
「じゃあ、竜崎さん行きましょうか。どこに行きます?」
篠原が脇に置いていたジャケットの上着を取り着ると、財布を確認して竜崎に声をかけた。
「まだ決めてないんだ、歩きながら探そうか――じゃあ、笹部さん篠原君お借りしますね」
竜崎がそう声をかけて立ち上がると、笹部は箱を開ける手を止めて二人を見送った。
ドアを閉めようとする竜崎の視線の端で、笹部は熱いカップに口を付けていた。




