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髪油の効能

 ノアはあくびをしながら厨房へと歩いていた。

 裏戸を開けると、すでにココが椅子に座って珈琲を飲んでいるところだった。

 昨夜、丁寧に髪油(ヘアオイル)を塗ってやったかいあって、ココの髪には天使の輪ができていた。同じ髪型でもやっぱり少し手入れしただけで見違えるようだ。

 ノアは満足気にほくそ笑むと、自分もカップに珈琲を注いだ。椅子に座って珈琲をすすりながら、再びココの髪を眺める。


(良い仕事したら、やっぱ誰かに見て欲しくなるよなあ)


 今ならマリー・ビッツをこっそり覗いていたココの気持ちも分かる気がする。


(早くミランダか、学生でも来ねえかな)


 と、うきうきしながら待っていると、思いがけない上客がやってきた。


「やあやあ、ごきげんよう。諸君」


 早朝の厨房へやってきたのは、ルスランだった。相変わらず目も眩むほどに美しい男である。そんな男が厨房へ入ってくるなリさっと表情を引き締めたのを、ノアは見逃さなかった。

 ルスランはココの後頭部を見つめながらつぶやく。


「なんだか君の髪、いつもと違う気がする……」


 その言葉を聞いたノアは調理台の影で、よし、と小さく拳を握った。一方、ココはというと、表情を変えることなくカップに口をつけたまま答える。


「気のせいじゃないですか」


 その様子に、ノアはふっと微笑んだ。


(ココのやつ照れてるのか?)


 普段料理を褒めるともっとわかりやすく照れるくせに、何を澄ました顔をしているのだろう。

 ルスランも同じことを思っているのか、にやにやしながらココの顔を覗き込む。


「気のせいじゃないな。すごく艶があって、綺麗だよ」


 言われたココは、顔面を覆うほどの角度でカップを傾けていた。もう絶対に中身は入っていまい。


「何で顔を隠してしまうんだ? せっかくだから前からもちゃんと見せて」


 隣で聞いているこちらが蕩けてしまいそうな甘い声で囁きながら、ルスランはそっと、カップを持っているココの手を下げる。と。

 ココは、歯のない婆さんのような顔をして、じろっと目の前の美顔を睨んでいた。


「にゃふ! にゃふにゃふ!」


 厨房の裏でババロアが鳴いている。


(あ、いっけね)


 こんなときに限って、餌をやるのを忘れていた。

 もう少し、ココが褒め殺しされるのを見ていたかったが、ババロアを待たせるのも可哀そうだ。

 ノアは厨房の裏戸を開けて外へ出た。

 

 ◆ ◆ ◆


 ババロアの鳴き声が聞こえたかと思うと、ノアが出て行ってしまった。

 ココもババロアが気にならないわけではなかったが、今はそれより、ルスランに聞いておきたいことがある。


「学長からアンナのこと、何か聞けました?」


 戸棚からカップを取って来たルスランは、珈琲をカップに注ぎながら応える。


「彼女は少し前に、大学を退学させられていたらしい」

「え? 退学?」


 ルスランは珈琲を一口飲んで、続ける。


「彼女は、大学で盗みを働いたんだよ。それが露見して、強制退学になっていたんだ」

「盗みって、何でまた。そんなことしたんでしょう」


 彼女の身なりからして、生活に困っているようには見えなかった。ということは、金品が目当てではない盗み――。 


「どうもこの件も『占い師サルヴィエ』が絡んでいるようだ。アンナは、占い師に(そそのか)されて盗みをは働いた、と主張しているらしい」


 占い師サルヴィエ。マリー・ビッツや他の女学生たちに、占いと称して、はた迷惑な行動をとらせていた謎の人物。アンナもまた奴の術中にはまっていた一人だったらしい。

 

「それでアンナは、いったい何を盗んだんですか?」


 その問いかけに、ルスランの顔が(かげ)る。


「彼女が盗んだのは、ドミトル教授の万年筆だ」


 なるほど。ココは以前、ルスランがこぼした愚痴を思い出した。

 ルスランとの共同研究に実が入らなくなるくらい、ドミトル教授の機嫌を損ねた万年筆の紛失。それは彼がどこかへ置き忘れたわけでも、落としたわけでもなく、アンナ・ルイーズが盗んでいたのだ。


「教授も昨日はじめて、盗難にあっていたことを知らされたらしくてね。ひどくお怒りだったよ。それに付き合って俺は、夜まで教授の愚痴を聞かされる羽目になったわけだ……」


 ココは、ドミトル教授につかまったルスランを思い浮かべて、彼に同情した。


「まあでも、万年筆は返って来たんでしょう? ならとりあえず良かったじゃないですか」


 とルスランを慰めたつもりだったが、なぜか彼の表情はさらに翳る。


「……もしかして。万年筆はまだ返ってきてない、とか?」


 恐る恐る聞いたココに、ルスランは溜息で応えた。


「アンナは盗んだ万年筆を、サルヴィエに渡してしまったらしいんだよ。他の学生たちも皆、盗んだものはサルヴィエに差し出していた。まるで免罪符か何かみたいだよなあ」

「え、ちょっと待ってください。盗みを働いたのは、アンナだけじゃないんですか?」


 ルスランは渋い顔で頷く。


「アンナ・ルイーズ以外にも、盗みや、他の学生への嫌がらせをしていた者が何人かいたそうだ。アンナ同様、全員退学処分になっている」

「じゃあその学生たちも全員、『占い師サルヴィエ』に(そそのか)されてやったってことですか?」

「学生側の主張としてはそうみたいだな。奴に洗脳されて、悪事を働いてしまったと言っているらしい。ただ占い師を捕まえてみないことには、真相は分からないけれどね」


 確かに占い師本人に尋問してみなければ、本当に奴が学生たちを洗脳し指嗾(しそう)していたか立証するのは難しいだろう。

 となると彼女たちは、自ら進んで悪事を働いた犯罪者として、この先の人生を生きていかなければならなくなる。まだ二十歳前後のだというのに、人生を棒に振ることになってしまうかもしれないのだ。

 ただ、もしそうであったとしても、サルヴィエのような怪しい占い師に関わった彼女たちが悪いのであって、自業自得。であるかもしれない。


(だけど)


 マリーも、占い師サルヴィエに嵌った学生の一人だった。

 彼女の場合はどうだったろうか。

 彼女がサルヴィエに出会ったのは、婚約破棄され傷ついていたときだった。その頃の彼女にとって、目の前に現れたサルヴィエは、救世主のように見えていただろう。自分の悩みを聞いて、導いてくれる存在。それがたとえ他人から見ればどれほど怪しげな者でも、心の隙を突かれてしまえば、人は簡単に縋ってしまうものだ。


 ならば他の女学生や、アンナも同じだったのではないか。マリーと同じように、悩みを抱えていて、何かに縋りたくて、でもどこにも頼れる者はなく。辿り着いた先が、不幸にも占い師サルヴィエだった。そしてサルヴィエは、寄る辺なき海で溺れる彼女たちの、弱った心に付け込んで、弄んでいたのだ。

 

「アンナがドミトル教授の万年筆を盗んだのって、いつ頃ですか? ドクターや私のところへ来る前ですか?」

「ん? ああ、そうだな。ドミトル教授から聞いた話では、君にアンナを紹介した日より前だけど……」


 アンナが厨房へやってきたとき、彼女の様子は尋常ではなかった。おそらくネズミのことはただのきっかけでしかなかったのだろう。ちょうどコップに注いだ水が一杯になって溢れるように、盗みをしたことで心を充溢(じゅういつ)していた罪悪感情が、あのときネズミのことを契機に溢れだした。そう考えれば、ネズミくらいのことであれほど怯えていたのも納得できる。

 ただ、あのときは、そこまでアンナが悩んでいるとは気づかなかった。もっと突っ込んで話を聞いていたら、何か変わっていたのだろうか。

 せめて、自分で命を終わらせようなど――。


 とそのとき、いきなりルスランの手が伸びてきて、両手で頭をつかまれる。そのまま頭をわしゃわしゃあっ、とされた。

 おかげでせっかく整っていた髪は、みごとにボサボサ。さっきは散々艶がどうのと宣っていたくせに一体何なんだ、という意を込めてココが見上げると、ルスランは静かに言葉を紡いだ。


「アンナのことは、君のせいじゃないよ」


 ココは自分を見降ろす、凪いだ海のような瞳を見つめ、そして。すっと目を伏せた。


「別に、自分のせいだなんて思ってませんよ。ただ……」

「ただ?」

「私も、占い師サルヴィエに会ってみたいなあって」


 口を尖らせながら言ってみる。


「君も占いに興味あったのか」

「いえ占いは苦手ですけど、サルヴィエが一体何者なのかは気になります。ここの学生なんでしょうか。それとも外の人間とか?」

「さあ、どうだろうな。今のところ警吏も、奴の正体は全く掴めてないみたいだからな」


 ルスランはカップの中身を飲み干すと、立ち上がって流しへ向かった。カップを洗いながら、背中越しに話しかけてくる。


「そういや収穫祭(ハロウィーン)のことなんだけど、君も出し物を考えてくれないか。予算は別途割り当てる」

「構いませんが、帝都の収穫祭(ハロウィーン)ってどんな感じなんですか?」

「君の故郷とそう変わらないんじゃないかな。南瓜(かぼちゃ)のランタンを飾ったり、(かがり)火を焚いたり」

「南瓜でランタン作るんですか。うちは(カブ)で作ってましたよ」


 そっちが伝統的なやり方だな、と言いながらルスランは洗いあがったカップを拭いて棚に戻し、裏口へ向かう。裏戸を押し開けたルスランは、しかし、出て行かない。戸の取っ手に手をかけたまま、振り返る。


収穫祭(ハロウィーン)の日は、髪を下ろしてるところが見たいな」


 そう言ったルスランは、女夢魔(サキュバス)も昏倒するであろう笑みを置き土産にして、出て行った。

 

 ぱたん、と裏戸が閉まる。

 ココは自分の髪をつまんで、ふんふんふんっと匂いをかいだ。


「あの髪油(ヘアオイル)、媚薬でも入ってたのかな」



◆ ◆ ◆



 ペトラ・ペペは監査局長官室に呼び出されていた。


「ペぺ次官、ドクター・ユトの調査はどうなっていますか?」

「鋭意調査中ですが、まだ決定的な情報は掴めておりません。しかし現在、調査対象をドクター本人から、彼の雇った料理人に変えて調査を進めております。あの料理人からならうまく切り崩せるかと……」

「そうですか。料理人に照準を絞ったのは良い判断ですね。良い報告を待っていますよ」


 そういう長官の顔は微笑んでいたが、目は全く笑っていなかった。

 長官はそろそろ、しびれを切らしているのだ。いつまでも有益な情報を持って帰ってこないようでは、自分のクビが飛ぶ日も近い。


(でも)


 大丈夫。もうすぐ収穫祭がある。

 ペトラは変装道具を集めに走った。

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