既知の「虫」
「あそこに美味いラーメン屋があるんだ」
傍に同乗している女の体をした仲間にふと呟いた。
「そう…」
女は顔を前方に向けたまま素っ気なく応答した感じだった。
(もうあそこでラーメンを食べることはできないのだろうか。)
低所得者層の住む街を通る乗用車の中で思いを巡らせた。
「まあ、食べようとすれば食べに行けるけど、危険よね」
続けて応答する声が聞こえた。
「一応サーバは騙せているから。でも本当に騙せてるのかしら」
確かにそう思う節はある。一応は疑似脳によってデータの更新がされたように見せかけているが私も技術者のはしくれとして一つ疑問があった。かつて公安にいた時に資料で見たことがあるが、ハッシュを生成するアルゴリズムは非公開のものだ。チップに組み込んであるのであればアルゴリズムが変更されることはないだろうが、もしアルゴリズムが変更されたとしたら、こちら側が騙そうとしているを知っていて、あえて騙されているふりをしているのではないか。人を騙そうとするとき、嘘をつくとき、というのは細心の注意が必要だ。騙す内容の精査にも注意を払わなければならないが、相手があえて騙されているふりをしている可能性もある。疑心暗鬼だけで自分自身が潰れそうになる。
「その種の問題を考えると気分が悪くなり吐き気がする」
吐き捨てるように同乗者に返答した。
「できることはやってるんだ…前に進むしかない…それに既に起きたことを言っても過去に戻れる訳でもないし…」
自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「でも土台がちゃんとしてないと不安ではあるよね」
永延と不安を抱えたまま生活できるやつなんているのだろうか。いたとしたら、そいつは物凄い論理学者か、ただの生活破綻者だろう。
「そろそろ入るぞ」
運転手が議論をさせないかのように話に割って入ってきた。低所得者層の街を出ると都市の中心部へとつながる。今回街へ潜入する理由は、私を組織のボスに会わせるためだそうだ。どんなやつなのか聞いてみたところ、あまり詳しくは言わなかったが、ボスは元々は「社会正当化理論」の創始グループの中の一人で今この国で国民を支配している「社会正当化システム」のシステム構築メンバーの一人でもあったそうだ。なんでそのような上級な人物が抵抗組織のボスをやっているのか。彼らも詳しくは知らないとのことだ。
古いビルの前で車が止まった。ここにボスがいるらしい。車の扉を開けると同時に雨が降り始めた。車に同乗していた他の者も車から出て周囲を警戒しながら私をビルの中へ入るよう促してきた。緑の重厚な両開きのドアを開ける。扉の重さはこれから背負うであろう様々な事象の重さを現しているかのようだ。扉を開けると廊下へとつながっていた。廊下の左側に沿ってベンチが設置されている。ベンチの前では一人の初老の男の体の人が新聞を読んでいる。顔は新聞紙で隠れて詳しく見れないが特に問題なさそうだ。なので廊下を歩いていき初老の男性の前にある右への曲がり角へ到達する。
「そこにエレベータがあるから」
仲間の声が後ろから聞こえた。仲間がここへと来るのを待つ。仲間の女性が歩きながら初老の男性へと注意を向ける。初老の男性は頷き何かに応えたようだ。
「さ、乗って。ボスのいる階まで行くわ」
エレベータが降りてくるまでの間に沈黙が流れる。
(ボスとは一体どんなやつなのだろう。それもあるが後ろにいる初老の男性も気になる。)
そう思考をめぐらせている内にエレベータが到着した。古びた扉が重い腰を上げるようにその扉を開ける。私が先に入り、後から仲間の女性と運転手が続けて入った。
扉が閉まりエレベータがその年老いた体に鞭を打つようにして上階へと上昇し始めた。
「さっきの男は誰だったのだろうっていう感じの顔ね」
まあ確かに気になりはする。仲間に相槌をうった。
「彼はボスの護衛役といったところね。一応は」
(一応は?)
そう思っていると続けて仲間が話した。
「ボスには護衛役は必要ないのだけど、社会的立場上。」
沈黙が続いたのでフロアの番号を表す表示盤を眺めていると急にエレベータが停止しエレベータ内が消灯した。
「このエレベータも古いからね」
仲間の女性が呟く。
「非常灯も点かないのかしら」
悪態をつく声が聞こえた。
(何かがおかしい...これはエレベータが古いからじゃない...!)
こんな古いエレベータでも、国内であれば、どこにいたとしてもスキャンされている。それはすなわち...
「はやくここから脱出しないと!」
私が叫ぶと仲間の二人は最初はびっくりした様子だったが、すぐに状況を理解したようだ。
エレベータ内の周囲を確認する。どこか脱出できるところはないだろうか。昔、何かの映画で天井から脱出するシーンを思い出した。
(やってみるしかない)
そう思い天井を確認すると運転手が私の意図を把握し、その高い背丈を活かし天井板を開けた。
「さきに行け!」
その体格を活かし私が天井に登れるように手を貸してくれた。普段からコンピュータに向かっていて動かしていない体が悲鳴をあげそうになるのを感じる。やっとの思いで天井へと到達する。外を確認すると手の届くところにフロアへの扉が確認できた。ここからフロアに出ることができそうだ。
「私にも手を貸して!」
エレベータ内に視線を戻し手を伸ばす。細い体ではあったが思いのほか軽く女性を引き上げることができた。続いて運転手も自力でエレベータ内から脱出する。
「フロアに出れそうだな」
運転手が確認する。体格にみあった怪力が扉を力ずくで引き開ける。薄暗いがわずかな光が縦に差し込んでくる。完全に扉が開くと、エレベータからの脱出と同じ順番でフロアへ脱出する。
「どこへ行けばいい?」
なまった体を何とか動かし息切れをしながら仲間へと確認する。
「とりあえずはボスの所へ!」
「先導してくれ」
「もちろん!」
フロアの奥の銀色のドアを開け階段のある空間へと出る。仲間が上を見上げる。
「上に行くのか...勘弁してくれ」
止まる暇もなく上階へと階段を登っていく。何階登るのだろうかと思ったが一つ上の階でフロアへと入ることができた。フロアはさっきの階と同じく薄暗い明かりのみが全体を照らしている。女性が先へと進んでいき、あるドアの前で止まった。やっとのことで追いつく。運転手の方は階段の所で下を警戒していて、ここには一緒に来ないようだ。
「ここよ、ここにボスがいるわ」
ドアノブに手をかけドアを開ける。
(ボスに会うのか。どんなやつだろう)
緊急事態なのに、データベースを更新する際にも発症した持前の不安症が体を駆け巡った。