一時的な解脱
ここに来て随分と日が過ぎ、だいぶ環境に慣れてきた。
始めは異常者の仲間入りという事に抵抗感が拭えなかったが彼らの言う「事実」というものをおおよそ理解し同意してきた。理解した、というより現に「社会からの抑圧」の実務者だった私は「既に知っていた」というのが正確だろう。常識データの更新および配信という業務に携わっていたのだから。皮肉なことに「抑圧する者」から「抵抗する者」になるとは思いもしなかった。
彼らのいう「社会正当化理論」はこの抑圧の事実に根拠を置いている。
「人々はチップによる脳への「直接的抑圧」に服従し慣れきってしまい社会に対して疑問視しない(実際は「できない」が正しいのだが…)どころか今ある社会が正当であると思っている。不満を抱えているのにも関わらず社会システムに問題があるとは思わず自分に問題があると虚偽意識を持っている。」
彼らはそう主張する。
主張が正しいかどうであれ、今の自分の置かれている立場を理解し自分のできることに集中することに決めた。
そう頭の中で振り返っている内に技術者がやって来た。
これから「疑似脳」の埋め込みを行うと聞かされた。人工的に作った脳である疑似脳とチップをバイパスすることで、あたかもデータが更新されたかのようにデータベースを騙すことができるそうだ。
「データベースから更新データを受信するとチップを介して更新処理が行われるが、その時に各人が持つPA(パーソナル・アドレス、個人アドレス)と更新結果とのハッシュがサーバに返信される。このハッシュによって更新が正常に行われたかサーバ側で確認される。そのため、チップ自体を取り除くと更新エラーとなりサーバー側で保存されているPAによって誰のデータが更新されなかったかが把握されてしまう。」
技術者曰く疑似脳を埋め込むことで、これ以上、常識が書き込まれることはなくなり私はサーバの影響を受けなくなるとのことだ。このことについて技術者は詳しく語っていたが私にはあまり理解できなかった。
「チップ自体は大脳基底核のドーパミンを操作している。大脳基底核は理論的には強化学習を行っており、強化学習でいうところの報酬を操作することでチップが埋め込まれている人間は書き込まれたデータの意図に沿った行動を行うようになる。」
「不味い料理に調味料を振りかけるというより、不味い料理自体を美味しいと感じるように味覚を変えている。」
技術者はそう比喩していた。
思考の抑圧についていくつか疑問に思うことがあった。
(自分の思考が抑圧されている状況下で、はたして自分自身の思考が抑圧されていることに自分で気づけるのだろうか?)
洗脳されている思考は、はたして自分自身で洗脳されていることに気づけるのか?
もう一つの疑問も浮かぶ。
(仮に自分の思考の抑圧が何かしらの外的要因によって解けて別の状態になった時、はたして、その別の状態は何も抑圧のない状態なのだろうか?)
洗脳が他人によって解けたとして、はたしてそれは本当に洗脳が解けた状態なのだろうか?また別の「洗脳」になっている余地があるのではないか?
疑似脳が埋め込まれたとして、それが本当に機能しているのかということを自分の思考の中だけでは確認する術は無いと思う。
これらの種の疑問を技術者に問うたところ専門的な説明を受けたが何が何やら分からなかった。
もう少し技術者は語っていた。
「サーバは恒常的に位置確認のためにピンをチップに送っている。そのためチップを取り除いてしまうと最後に確認された位置に公安の部隊が駆けつける。」
じゃあ、この場所も公安に把握されているのでは?と思うかもしれないが、どういうわけか、この問題に関しては大丈夫とのことだ。
思い返してみると、ここに来てからすぐに脳の活動のスキャンを受けた。技術者曰く「正常コード」の測定のためだそうだ。
街へ潜入するにはスキャンを掻い潜る必要がある。警官の持っているハンディスキャナや街のあちこちに設置されているスキャナ、それにエレベーターの隠しスキャナ。これらの網をかいくぐるには疑似脳を埋め込むしかない。
スキャナの原理について技術者はこう語っていた。
「スキャナはあるランダムなコードをチップに送信し、脳の活動状態を表すコードとそのランダムなコードとのハッシュをチップから返信を受けることによって、対象の脳が「正常」であるかどうかを確認する。各人の正常コードについてはチップ埋め込み時に測定・採取されているのでスキャナがサーバに正常コードを問い合わせる。」
そうこうしているうちにバイパス手術の準備が始まった。「正常者」だった頃には何度も「死んでいた」が「異常者」になっても再び「死ぬ」ことになるとは思ってもみなかった。