3 花になった妃
静寂の音に包まれているそこは、さっき二冊の日記を通して見た映像と同じだった。
今は温もりを抱いた陽射しが、芽や花の蕾を起こし始めた季節。だが此処は、身震いする程空気が冷えており、小粒の雪がしんしんと降っていた。
木々に囲まれた丸く広い池からは、白い煙が立ち昇り、霧となって辺りを包んでいる。
まさしく氷の鏡と言った表現が相応しい、凍った水面の中心。そこに座り込む、小さな人影が見えた。
目を凝らす自分を誘う様に、その周りだけ、さあっと霧が晴れていく。
亜麻色の髪が流れる、華奢な背中。
それは探し求めていた王妃……空気の様に当たり前で退屈で、傍に居ないと途端に苦しくなる。かけがえのない、たった一人の妻だった。
「……王妃!!」
叫ぶも背中は微動だにしない。
王は迷わず水面に足を踏み入れる。頭の中はただ、妻を失うやもしれぬ恐怖に占められていた為、何の躊躇いもなかった。
必死で進んでいる内に気付いたのは、氷だというのに全く滑らないこと。土と同じ感覚だと確信した両足は、速度を上げ繰り出した。
もうあと少しという所で、突如何かに阻まれ、身体が動かなくなる。
「王妃……王妃!」
こんなに至近距離で呼び掛けても、やはり微動だにしない。それでも声を張り続けていると、突如重たいものが肩へのし掛かり、あまりの苦しさに立っていられなくなる。ふらりと膝を突くも、もっとしゃがめ、もっと伏せろと言う風に、頭や背中までも押さえ付けられた。
顔が凍った水面の上ギリギリで止まった時、視界にあるものが映り、王は息を呑む。
『王冠を着けた美しい女性が中に現れて、にこりと優しく微笑んでくれた』
日記通りの息吹が──氷の向こうに、確かに在る。
目線だけ動かし、恐る恐る妻の顔を見上げれば、それを覗き込み優しく微笑み返していた。
氷を隔てた上と下から、同時に手が伸びる。二人の妃は、その呼吸までピタリと重なり、本当に鏡の様だ。
結婚指輪の光る薬指が、同時に氷に触れた時……
そこから、ピシピシと細かい亀裂が生じ、凍った水面に広がっていった。
駄目だ……離れろ……
叫ぼうとするも声が出ない。息を吸えば、鼻のすぐ下から昇る冷気に焼かれ、気管に痛みさえ走る。
亀裂は鈍い音と共に狂暴さを増し、今にも妻を引きずり込もうとしていた。
駄目だ……駄目だ……伝えたいことが沢山ある……
失うものか……あんなに温かく優しい妻を、こんなに冷たく哀しい場所で……
失って……たまるか!!
「……シャ…………サーシャ」
……咳込めば血の味がする。喉が壊れても、これが最後の言葉になってもかまわない。
「……サーシャ!!」
──風が吹いた。
亜麻色の髪を、空へ柔らかく舞い上げる。
華奢な肩はピクリと揺れ、ゆっくり……ゆっくりとこちらへ振り向いた。
「サーシャ……」
その声はもう、酷く掠れてほとんど聞こえない。だが、妻はそれに反応し、目を大きく見開いた。
「陛下……」
何故此処に? とでも言いたげな、あどけない顔。
人の気も知らないで……どんなに会いたかったか……どんなに探したか……
込み上げる愛しさに、王の肩は震え出した。
夫婦の間に流れた、どこか温かな空気も束の間。何かが割れる嫌な音が耳をつんざく。水面から、白く生気のない手が飛び出し、妻の腕をガシッと掴んだ。
温かい……足も、背中も、腕の中も。
顔は少しくすぐったいが。ひらり、ふわりと……触れては遠退くものは、一体何だ?
あまりの心地好さに瞼を開けると、優しい光が瞳を撫でた。ひらり……ふわり…………花びら? そうか……これは桜の花びらだ。
腕の温もりがもぞもぞと動き、ハッと覗き込む。そこには、髪や身体に花びらを沢山纏った妻の姿があった。
「……サーシャ!」
声が出る。痛みもない。
「サーシャ、大丈夫か? サーシャ!」
血色の良いピンク色の頬に手を当てれば、薄茶の円らな目がそっと開き、自分を見つめた。
「陛下…………おかえりなさいませ」
まだ夢の中に居るのか、ぼんやりした表情で微笑む妻。
もう王の中には……ただ、溢れんばかりの愛しさしかない。
「サーシャ、サーシャ……愛している……愛している。愛しているんだ……サーシャ」
寝転がったまま自分を掻き抱く夫に、ああ……死んでしまったのかと、王妃は考えていた。
死後の世界とはこんなにも美しいのか……暖かい陽射しと花が降り、香りまで芳しい。愛する人に抱かれ、更には愛していると、あり得ないことまで囁かれている。
身体がふわっと浮き上がり、夫の膝に抱かれていることに気付いた。逞しい胸板や腕のその感触までがやけにリアルで、本当にあの世なのかと疑問を持ち始めた。
勇気を出し、自分も広い背に腕を伸ばせば、一層力を込めてそれに応えてくれる。
陛下が……泣いている?
自分の肩に顔をうずめ、震わせる背中。撫でてみれば、余計に震えながら、こくり、こくりと頷いた。
もう、此処が何処でもいい……
愛しくて幸せで堪らない。
周りを見渡せば、自分達を取り囲む桜の木だけが満開に咲いており、風もないのに花びらの雨を降らせている。
地面は積もった花びらで、柔らかい絨毯となっていた。
王妃は直感的に思う。
此処は、あの池だと。あの池があった場所だと。
夫の髪に舞い降りたひとひらを、何気なく指で掬い、手の平に包み込んだ。
「陛下!王妃様!」
「ご無事でいらっしゃいましたか!?」
息を切らせて飛んでくる兵達。彼らの必死の形相に、自分はあの世ではなく、まだこの世に居るのだと……そう悟った。
宮殿へ戻ると、直ぐ様医師の診察を受けさせられた王妃。冷たい氷の上に座っていたというのに、母子共に何の問題もなかった。それどころか、長い悪阻で痩せ細っていた身体は、ふっくらと肉を取り戻し栄養状態も良い。僅か数時間で起きた身体の変化に、侍女達は狐につままれた様な顔をしていた。
──あの時、一体何が起こったのか。
王は必死で思い出そうと、頭を捻る。
割れた水面へ引き込まれそうになった妻の、もう片方の腕を掴んで抱き寄せた……気がする。
そうして気付いたら、あの花の中で、妻と二人倒れていたのだ。
使用人達を下がらせると、王はベッドへ腰掛ける妻の元へ向かう。
さっきは混乱していて想いのままを口走ってしまったが、いざこうして二人きりで向き合うと、どうしたら良いのか分からない。王は布団の上にそろそろと手を滑らせ、淑やかに重ねられた小さな手を握る。
じんと伝わる温もりに、自然と王の口が開いた。
「そなたの日記……そなたの心を……私は勝手に見てしまった。すまない」
日記……
ああ、そういえばあの部屋で書いて、置きっぱなしだったわ。……卑屈で弱い私の内面に、呆れてしまわれただろうか。
そろそろと夫を窺えば、深く頭を垂れ震えている。王の威厳など微塵もないその姿は、まるで許しを請う幼い子供に見えた。
「陛下……! どうぞ、私にその様なことをなさらないで下さい。どうか、お顔をお上げ下さい」
王妃の懇願にも激しく首を振り、王はそのままの姿勢で、何とか言葉を紡ぎ出した。
「そなたが感じていた通り……結婚した当初の私は、グレースの場所に居るそなたに困惑していた。いや、憎んでいたと言った方が近いかもしれない」
分かってはいたものの、本人の口から聞かされるのは覚悟が要る。王妃は唇をキュッと噛み締め、耳を傾けた。
「だが、そなたを憎んでいた訳ではない。グレースを守れなかった、自分自身への憎しみをそなたへぶつけていただけだ。何も見ず、聞こうとせず……自分の心を守る為、身勝手な殻に閉じこもり、安全な場所からそなたを傷付けていた。最低な夫だ……私は」
思いもよらない夫の謝罪に、王妃は「いいえ、いいえ」と首を振ることしか出来ない。
しばらく沈黙が続いた後、王はおもむろに顔を上げ、戸惑う薄茶の瞳を見つめた。
「そなたの存在は、遠くなったグレースに比べ、あまりにも近くて……私の傍に居て当たり前のものだと……いつしかそんな風に思ってしまっていた。そなたの出迎えがないと寂しかったこと。私の為に丁寧に茶葉を蒸らしてくれる、優しい横顔を見たかったこと。月に二日だけでなく……本当はもっとそなたに触れたいと思いながらも、今更言い出せなかったこと」
まだ……泣いては駄目よ……
私の勘違いかもしれないのだから……
王妃は込み上げるものを逃す為、ごくりと飲み込んだ。
「何故気が付かなかったのだろう……そなたをこんなにも愛していたのに」
……勘違いじゃない? さっき、花の中で囁いてくれたことは、全部本当だったの? 信じられない……だって……だって陛下は……
王妃は自分の手を王からスルリと抜き、逆に王の手を握った。それを、まだ膨らみのない平らな腹に持っていき、冷静に触れさせる。
「陛下は……私との御子を喜んで下さらないと……」
こんなことを口に出したら、腹の子に聴こえてしまうかもしれない。辛いが、王妃はどうしても訊かずにはいられなかった。
「……違う!!」
突如叫んだ王に、ビクリと身体を震わせる。
「違う……! 違うんだよ……そうじゃないんだ……」
驚かせただろうかと、妻の腹を優しく撫でながら、王は話を続ける。
「こんなに細い腹で、命を育むことが出来るのだろうかと。そなたと子供、二人分の命を、この細い身体に背負わせなければならないのかと。子供が出来た喜びよりも、そなたを失うかもしれない恐怖の方が勝り、あんな風に答えてしまったんだ。……不安にさせてしまいすまなかった」
王妃は下を向き、ひたすらに首を振り続ける。
「そなたが吐く度に、痩せていく度に、怖くて怖くて仕方なかった。悪阻が治まったと聞いて安心していたが……本当はまだ、無理をさせていたんだな。そんなことにも気付かず、君を何週間も一人にしてしまった」
ごつごつとした大きな王の手に、ポタリと熱い雫が落ちる。妻の頬を見て微笑むと、王はもう片方の手を伸ばし、それを優しく拭った。
「身重のそなたを不安にさせて……挙げ句にこんなに泣かせて。夫としても父親としても失格だと、腹の子に叱られてしまうな。生まれたら、抱かせてもらえぬかもしれん」
困り顔の夫に、王妃はしゃくり上げながらも、クスリと笑った。
妻が落ち着いてきた頃を見計らい、王はずっと気になっていたことを尋ねてみた。
「日記の中で、そなたはグレースのことを“美しい”許嫁と。グレースに会ったことがあるのか?」
少しの間の後、王妃は静かに答える。
「……はい。陛下もご一緒の時に、一度だけお会いしたことがあります」
自分の記憶の中では、妻と初めて会ったのは、結婚式のひと月前だ。無論、その時にはグレースは此処に居ない。では一体いつのことだろう?
「九年前、西方のアヴリラン国の夜会でお会いしました。……覚えていらっしゃいませんか? ソースを顔に被り、泣きそうになっていた見知らぬ子供に、優しくして下さったことを」
九年前……アヴリラン国…………まさか!
あの夜の記憶が電光の様に走り、信じられぬといった表情で妻を見つめた。
「アヴリラン国の皇帝陛下ご即位の式典に参列される為、各国の王族方が集まっていらっしゃった時のことです。私は昔から読むことが好きで……アヴリラン国には珍しい本が沢山あるので、無理を言って父に一緒に連れて行ってもらいました。
私はまだ12歳でしたので、当然式典にも夜会にも出られず、大人しく部屋で待っているよう言われました。でも、どうしても各国の王族方を、この目で見てみたくて。ご存知の通り、我が故国はあまり外交が盛んではないので……この機会を逃したら、もう一生見られないと思ってしまったのです。
下働きの子のエプロンを借り、夜会に潜り込むことに成功した私は、柱の陰から王族方を眺めていました。華やかな場に興奮してしまい、もっと近くでと前へ進んだ時、お肉にソースをかけようとされている方とぶつかり、顔に盛大に被ってしまいました」
そこまで聞いて、王は確信する。やはり妻はあの時の少女だったと。
「叱咤されそうになっていた私の元へ、陛下と許嫁様がいらっしゃり、執り成して下さいました。その後、許嫁様はご自身の綺麗なハンカチで、私の顔を拭いて下さったのです。ドレスが汚れるのも厭わずに……」
ああ……そうだ……確かにそうだった……
かつて愛した女性と、愛する妻。二人を想う王の頬には、涙が伝っていた。
「私は小柄ですので、歳よりももっと幼い子供に見えたのでしょう。陛下はその後、お皿に甘いお菓子を山盛り載せて、隅のソファーで食べさせて下さいました。
……初めてお話しした異国の王子様が、あんなにお優しく素敵な方だったのです。恋してしまうのも当然でございましょう?
あれから帰国しても、ずっと陛下のことが忘れられませんでした。せめてまた、何処かでお会い出来ればと……
16歳になった時、陛下があの事件で許嫁様を手放されたことを知った私は、父に頼み込んで結婚の許しを得ました。愛して頂くことは無理でも……お傍に居たい、陛下の支えになりたいと。幼く浅はかな考えで……本当に申し訳ありませんでした」
罪悪感と慕情の入り交じった複雑な感情を浮かべる妻を、王は思わず抱き締めた。
他国と姻戚関係を結ぶことを嫌うメルネ国王が、娘の想いを尊重し、泣く泣く手放したのだ。しかも、内乱が起きてまだ数年足らずの国に嫁がせるなど……父親として、どんな想いだったのだろう。
まだ見ぬ腹の子と重ね、胸が痛くなる。
王は少し身体を離し、真剣な顔で妻へ尋ねた。
「……サーシャ。今の私は、そなたを誰よりも愛している。だが、グレースのことを忘れることは一生出来ないだろう。共に過ごした日々を懐かしんだり、罪悪感に眠れぬ夜もあるかもしれない。それでも、私の傍に居てくれるか? ……そのようなことは、都合が良すぎるだろうか?」
王妃は満面の笑みで、夫の問いに答えた。
「私の初恋は、グレース様を愛されていた、眩しい陛下でした。グレース様との想い出も、苦しみも全て忘れてしまわれたら、私の恋した陛下ではなくなってしまいます。私を望んで下さるのでしたら……どうかそのまま、そのままの陛下の、お傍に居させて下さいませ」
五年の時を経て真の夫婦となった二人は、どちからからともなく引き寄せられる。
不器用で、ぎこちなく……とびきり甘い唇を重ねた。
◇
その後、王宮の歴史を調べた所、十代前の正妃が、池に身を投げたとの記録が残っていた。元々心臓が悪く、雪の降る凍った池に落ちた為、即死状態だったとも。
祟りを怖れた当時の王族らが、鎮魂の為に池を埋め立て、何年もかけて桜の木を植えたと言う。
何故正妃は、サーシャを連れて行かなかったのだろう。
何故冷たい雪ではなく、温かい花を降らせてくれたのだろう。どんなに考えても分からなかった。
そしてあの水に濡れた日記は、部屋中どんなに探しても、もう二度と見つからなかった。
若葉が咲き、少し汗ばむ季節になった頃。腹部の膨らみ始めた妻の手をしっかりと取り、久しぶりにあの部屋を訪れた。窓を開け放てば、明るく心地好い風が吹き抜けホッとする。
サーシャは夫へ、妃達が遺した品を一つ一つ見せていった。
「このドレスは、ウエストのサイズを何度も絞っているんです。きっと頑張って痩せて、振り向いてもらおうとしたのでしょう。こっちの詩集はね、楽しいことだけが書いてあるけれど、それが何故か無性に哀しくて。この櫛も……この絵も。みんな、みんな、此処で精一杯生きようとした証だわ」
ほろりと涙を溢す妻を、夫は抱き締めた。
日記が置かれていたあのテーブルに向かい合うと、サーシャはいつも通り、丁寧に茶葉を蒸らし、カップへ注いでいく。ふわりと立ち昇る芳醇な香りと共に、部屋中のあちこちから、香水の様な独特の香りが漂い始めた。だが、あのツンとくる嫌な感じはない。色とりどりの花の様な、甘く優しい香りだった。
これが妃達の……此処で暮らした女達の、本来の香りなのかもしれないと王は思う。
「サーシャ、これからも時々、此処でこうして茶を飲もう。沢山話をして、沢山笑おう」
「はい。ユージーン様は、お皿に山盛りのお菓子をご用意下さいね」
少し頬を膨らませる悪戯っぽい微笑みは、最近見つけたばかりの、妻の愛らしい表情だ。
香り達は二人の間を存分にくすぐると、やがて一つになり、窓から澄んだ青空へと昇っていった。
ありがとうございました。