2 哀しい日記
『今日、無事に式を終え、私は晴れてこの国の王妃に……あの方の妻となった。
だけど、本当に私で良かったのだろうか。私が陛下のお隣を歩いても良いのだろうか。
指輪を嵌めて下さった陛下のお顔は、表情が全くなくて、まるで泣いているみたいだった。
もしお隣に立つのが、私ではなくあの美しい許嫁様だったなら……陛下はどんなに幸福で、どんなに満ち足りたお顔をされていたのだろう。
何も望んではならない。弱音も吐いてはならない。
私はもう、一国の王妃なのだから。一刻も早く陛下をお支え出来る様、強く賢くならなくては。
今日から “サーシャ” は、この日記の上だけ。誰にも見せてはならない。』
……結婚式を挙げた日か。
“美しい”許嫁様? 王妃はグレースのことを知っていたのか?
幾ら政略結婚だったとはいえ、遠い異国から嫁いでくれた少女に対し、夫としても王としてもあるまじき態度だった。花嫁が一番幸福でなければいけない結婚式で、こんな思いをさせていたとは……
情けなさに疼く胸。
深く空気を吸い、整えながら、少し先を捲る。
『どうしよう……何をやっても空回り。前向きに接しようと思えば思う程、ご不快な思いをさせてしまった。
本来なら許嫁様が居た場所で、私なんかが無神経に笑っていたら、お気を悪くされるのも当然なのに。何でこんなことに気付かなかったのだろう。
出来るだけ笑わず……息を潜めて……最近はそう努めていたけれど……ついに寝室も分けられてしまった。
仕方がない。こんな魅力のない幼い身体では、夜伽も上手く出来ないのだから。
でも……紅茶だけは、私が淹れたものを飲んで下さる。今日は二杯も。もっと美味しく淹れて差し上げられる様に、もっともっと勉強したい。
こんなことでも価値があると認めてもらえるなら、私はもう少し、陛下の妻で居られるだろうか。』
こんな風に考えていたのか……
まだ16歳の少女が、異国の仕来りに慣れるだけでも大変なのに、王妃として精一杯尽くしてくれていた。
故国や両親を想い、涙した日もあっただろう。それでも自分の為に、毎日笑ってくれていたんじゃないか。
そんな彼女に……自分の辛さを当てつけ、突き放し、何も見ようとしていなかった……
最初の方はまめに書かれていた日記も、捲る度に、一週間……一ヶ月……数ヶ月と日付の間隔が空いていく。
『今日で嫁いで一年だというのに、まだ御子を授からない。医師にちゃんと日も選んでもらっているのに。
どう見ても母親にはなれそうもない、薄く情けない身体。もしそうなら、陛下に何とお詫びをしたら良いの? 御子の為に耐えて、苦しみながら抱いて下さっているというのに……
ごめんなさい……ごめんなさい……』
込み上げる激痛に手を震わせながら捲ると、一気にその一年後へと飛んでいた。
『また一年が過ぎてしまったけれど、やはり御子は授からない。昔みたいに側室制度があったなら、どんなに良かったか……
陛下や国民の期待に応えられないことが、女としても王妃としても、堪らなく辛い。
きっとこれは、神様が下された罰ね。
許嫁様を失われた陛下のお立場に付け込んで、無理に政略結婚に持ち込んでしまった私への……』
政略結婚……王妃が……無理に?
一体どういうことだろう。
一年に一度、子供が出来ないことへの苦しみと詫びが綴られた数ページを捲ると、久しぶりに日記らしい出来事が記されていた。
日付は……まだ新しい。半年前か?
『今日、古い宮殿で素敵なお部屋を見つけた。昔のお妃様達が遺された、書物やお道具に溢れたお部屋。
こんなお部屋に閉じ込めておくのが可哀想なくらい、彼女達の息吹を感じる。まるでまだ、この世に生きていらっしゃるみたいに』
生きている……
その言葉を読んだ途端、あの香りが強くなり、背筋がゾクリとする。それでも読むことを止められず、次へと指を動かした。
『今日出会った、濡れた跡のある一冊の書物。それは何代も前の、ご正妃様の日記だった。御子を授からない苦しみと、ご側室が懐妊された時の複雑な心境が書かれていた。
私は自分が恥ずかしい。昔みたいに側室制度があれば良かったなどと……
もし本当にそうなったら、苦しくて苦しくて、きっと耐えられない。
愛する男性が、他の女性を抱くなんて。御子が出来て、もう少しも振り向いてもらえないなんて。
ひと月に二日、私と素肌を重ねて下さる。
ほぼ毎日、私の淹れる紅茶を飲んで下さる。
そんな幸せすら失ってしまったら、私は此処で生きてはいけない……』
気付けば王の頬には、熱いものが流れていた。
あの冷たい夜伽の時間を……あの紅茶を淹れるだけのささやかな時間を……幸せだと。
夫らしいことを何一つしてやらなかった自分に、彼女は愛を贈り続けてくれていたのだ。
落ちた涙はじわじわと紙を濡らし、哀しい文字を滲ませる。痛い程の力で目元を拭うと、隣のページに視線を移した。
『あれは夢だったのかしら……とても、とても不思議な出来事。
ご正妃様の日記を見ていたら、眩しい光に包まれて、いつの間にか見知らぬ池の前に立っていたなんて。
木立の向こうの宮殿は、とても近くに見えた。でも……此処の庭にあんな池があったかしら? 嫁いで以来、時間をもて余しては隅々まで散歩していたけれど、記憶の中にあるどの池とも違う。
もう一つ不思議なのは、まだ落葉が舞い始めたばかりなのに、その池には雪が沢山降っていて、水面がカチカチに凍っていたこと。
鏡みたいだと覗いていたら、王冠を着けた美しい女性が中に現れて、にこりと優しく微笑んでくれた。
私、すぐに分かったわ……この女性が、あの日記を書いたご正妃様だって。』
香りはみるみる強さを増す。背後から迫り来るそれに全身が凍り付くも、王は夢中で文字を追い続けた。
まるで何かに取り憑かれたかの様に……
『彼女が私へ手を伸ばす。私も彼女へ手を伸ばす。だけど、私達を隔てる固い氷は、どうしても割れない。
彼女が泣く。私も泣く。
冷たくて、寒くて、哀しくて……気付いたら、この部屋に戻っていた。』
“戻っていた”
にわかには信じがたい話だろう。だが妻の語るその文字は、王の中に、自身の映像としてすんなり入り込んでいたのだ。
時を経て巡り逢った二人の妃。哀しみが呼応し、互いを求め合ったのだとしたら……
あの日、廊下で繋いだ妻の手は、異様に冷たく凍えていた。もっとちゃんと向き合っていたなら、亜麻色の髪に残る雪の雫に気付けていたかもしれない。
『ご正妃様に会いたくて、何度もあの部屋で日記を開いてみる。何度も私を呼んで下さるけど、やっぱり池は凍っていて、どんなに伸ばしても手は届かない。』
また少し日付が空き、ほんの数ヶ月前に辿り着いた。
『私の中に、命が宿った。
結婚してから五年間、ずっとずっと夢見ていた、陛下の御子。
だけど……陛下は苦しげなお顔で、私と目も合わせて下さらない。
勇気を出して訊いてみたら……“分からない”と。
陛下は、お腹の御子を、喜んで下さらなかった。』
王の顔は一気に青ざめる。
違う……違うんだ、あれは……
『陛下が可哀想。愛する方と添い遂げられなかった陛下が可哀想。
陛下は誠実だ。残酷なまでに誠実な方だ。
分かっていたのに。愛してもいない女との御子なんて、喜べる訳がないのに。
どうしてあんなことを訊いてしまったのだろう。
もう、自分の愚かさに消えてしまいたい。』
違う、違うと必死で首を振り続けるも、それは妻には届かない。
収まりかけていた涙がまた溢れ、嗚咽を漏らしながら捲った先には──
とうとう、今日の日付が現れてしまった。
『悪阻で更に痩せてしまった。こんな身体で無事に御子を産めるのだろうかと、毎晩魘され眠れない。
自分は死んでも構わない。けれど陛下にお約束した通り、御子だけは無事に産んで差し上げたい。
その思いで、必死に食べ物を運んでいたけれど……
目を背け続けていたことが、何の前触れもなく私を支配しては嘲笑う。
お前は本当に御子を産んでも良いのかと。
いっそ無事に産まれずに御子と死んでしまった方が、陛下は幸せになれるのではと。』
何を…………
『陛下のお顔は、私を見る度に苦しげに歪む。私だけじゃない。時には御子が宿るこの腹部にまで向けられる。
私が死んで、新しい方をお妃に迎えたなら、私では叶わなかった新しい愛が芽生えるかもしれないのに。
私が御子を産んだら、その希望すらも陛下から奪ってしまうのではないだろうか。』
目は霞み、手は震え、文字が歪む。
王は床に崩れ落ちるも、体重をかけた拳で、必死に紙を押さえながら読み進めた。
『私は母親失格だ。
この子を愛しているのに、この子と一緒に消えてしまいたいだなんて。
でも会いたい……ご正妃様に触れたい……
こんなに苦しいなら、いっそ氷の向こうへ連れて行って欲しい。』
縋る思いで捲るも、そこで日記は終わっていた。
いつの間にか、肩越しから強烈な香りに覗かれていたことに気付き、凄まじい恐怖が全身を襲う。
つっと伸びた冷たい何かに手を取られ、もう一冊の古い紺色の書物へと導かれた。
元々開いていたそのページは、濡れてふやけたのか、所々文字が消えている。それでも王の中に、また誰かの映像として、一文字残らず入り込んだ。
『一日中、御子の泣き声が聞こえる。どんなに部屋を離れても、窓を打ち付ける程の大雨が降っても、憎らしいあの泣き声は、私の耳から離れない。
陛下と第二側室……御子を授かり、真の家族となった三人。
私は他人だ。正妃なんて名ばかりの他人だ。外から輪を眺めては、醜い嫉妬の念を送り続けている。
陛下はそんな私に気付いている。ただの女に成り下がった、哀れな私に……
だからもう、私を見てもくれない。
ほんの……爪の先、髪の一本ですら、もう私に触れてはくれない。
こんなに苦しいなら、いっそ何も感じない世界へ行きたい。
……そうだ、巨大な鏡に似た、あの氷の池を歩いてみよう。惨めな自分を遺さぬ様に、この日記を抱いて。
これは賭けだ。氷が割れれば、私はシャーベットの池に沈み、楽になれる。
もしも割れずに歩ききってしまったら……その時は正妃として、形ばかりの妃として、生きた屍になろう。』
震える手で紙を撫でれば、ゴワゴワした哀しい感触が、この正妃の最期を物語っていた。
“さみしいの……つめたくて、くらくて、ひとりぼっちで。せっかくこおりがわれたのに、ちっともらくになれないの”
耳元に囁かれる、生気のない細い声。
“ねえ……いらないならちょうだい。あなたのおきさきさまとあかちゃん……いらないなら、わたしにちょうだい”
その言葉に、一切の恐怖は王から掻き消える。
激しい怒りにカッと双眸を開き、背後を振り向いた。
強烈な光が眼球を貫き、思わず瞼を閉じる。その裏には、この世の者ではない、黒く禍々しい女の残像が浮かび上がった。
こいつが……こいつが王妃を……!
捕らえようと手を伸ばすも、虚しく宙を泳ぐ。
目が潰れる覚悟で、瞼を開けた瞬間──
そこに広がる光景に、王は絶句した。