1 愛されない王妃
※ややホラー要素を含みますので、苦手な方はご注意下さい。
「……王妃は?」
公務を終え宮殿へ戻るが、今日も出迎えの中に王妃の姿はない。
ピリッと不機嫌な空気を纏った王に、使用人達の間に緊張感が走る。そんな中、恐る恐る口を開いたのは王妃の侍女。
「王妃様でしたら図書室にいらっしゃると思われます。お一人で読書をされたいとのことでしたので……」
「……またか」
一層顔をしかめた王は、コートも脱がず図書室へ向かった。
重厚な図書室の扉。だがそれには鍵が掛かっており、誰かが居る気配はない。だとすれば……
「あっちか」
全く面倒な……
渡り廊下で繋がる、今はほとんど使われていない古い宮殿。此処はかつて側室制度が用いられていた頃、後宮として使用していた宮殿だ。
王の足は自然と北の突き当たりにある一室へと向かう。簡単に開いた扉から、やはり王妃はこの中に居るのだと確信した。
この部屋は、昔の王族が使用していた道具や書物が収められている、いわば倉庫に近い場所だ。歴史的価値がある物や高価な物はほとんどなく、歴代の妃達の嫁入り道具やドレス、趣味で描かれた絵画などの美術品、手紙や日記など捨てるに捨てられない物が保管されていた。
侍女の話によれば、最近王妃はこの部屋でそれらの品に触れることを好み、よく入り浸っているのだと言う。
室内に足を踏み入れると、何とも言えないにおいがムッと鼻をつく。定期的に掃除もされており、埃もほとんどないのに。例えるなら……枯れ葉、もしくは干からびた土。そんなにおいだろうか。
見渡すも、人の気配も物音もない。
「王妃」
呼び掛けてみるも返事はなく、王は首を傾げながら部屋を後にする。すると……
カタリ
背後から物音がし、振り返れば王妃が一冊の書物を抱いて立っていた。
「王妃! 何故返事をしなかったのだ」
「申し訳ありません。書物を読んでいる内に、いつの間にかうたた寝をしてしまった様です」
「……だらしがない。王妃とあろう者が、そんな姿を誰かに見られたらどうする」
「申し訳ありません。以後気をつけます」
王は、王妃の腕にある一冊の書物を見つめる。その古びた紺色の表紙は、水に濡れて乾いた様な皺が出来ていた。
「何を読んでいた」
「……お妃様方が書かれた、詩集や物語にございます」
「気に入ったのなら、わざわざこんな所へ来ずとも、部屋で読めば良いだろう。私が持ち出しを許可する」
「いえ」
王妃は顔を上げ、キッパリと言う。
「こちらで読むのが好きなのです。……お妃様方の息吹を、より近くに感じられると言いますか」
穏やかな顔で表紙の皺を撫でる彼女に、王はふんと鼻を鳴らす。
「まあ良いだろう。それよりも……私に何か言うことはないのか」
コート姿の王を見ると、王妃は慌てて書物を置き、丁寧に礼をした。
「お帰りなさいませ。国王陛下」
「……喉が渇いた。すぐに茶の用意を」
「畏まりました」
さっさと部屋を出る王に続く王妃。チラリと書物を振り返りながら、扉を閉めた。
しんと冷えた廊下は、コートの中にまで冷気を通し、ぶるっと身震いする。
そういえば、王妃はどんな格好をしていただろうか。
振り返ると、その姿は遥か後ろにあった。いつもはこうして歩く時、自分の数歩後ろを遅れることなく付いて来るのに。
立ち止まり少し待ってみるも、王妃に急ぐ様子はない。今にも止まりそうな足取りだというのに、はあはあと肩を上下させながら、漸く傍へやって来た。
「……遅い」
「申し訳ありません」
「……それだけで寒くないのか」
「……え?」
指差されたショールに、王妃は意味を理解し答えた。
「はい。私は北国の生まれですから」
「……ならいい」
王は再び王妃に背を向けると歩き出す。衣擦れの音が遠いことに気付き速度を落としてみるも、まだ距離は縮まらない。更に更にと落としていく内に、やっと後ろに気配を感じた。
また離れたら面倒だ……
それだけの気持ちで、ショールに隠れていた王妃の手を探り当て握る。
柔らかく……氷の様に冷たい。他には何の感情も抱かない筈のその手を、王はその時何故か無性に温めたくなり、ぐっと力を込めた。
ティーポットの中で、茶葉がふわりと開く。甘味が最大限に引き出されたタイミングで、王妃は布を外しカップへ注ぐ。
「どうぞ。お召し上がり下さいませ」
差し出されたそれに口を付ければ、温もりがじんと全身を駆け巡る。
やはり王妃の淹れる茶が一番心地好い。
面倒だが、呼びに行って正解だったと王は思っていた。
「あの……陛下」
結婚し五年経った今では、向こうから話しかけられることなど滅多になかった為に、王は一瞬驚く。
「……何だ」
「お茶の味は問題ありませんでしたでしょうか? 渋味が強すぎるとか、酸味を感じるとか」
「いや……」
王は首を傾げながらもう一口飲むが、特にいつもと変わりはない。
そんな王の様子に、王妃はカップに何度も口を付けては、顔を曇らせる。
一体どうしたというのだろう。
やがて静かにカップを置くと、ハンカチで口を押さえた。
「どうした」
「少し……今日は紅茶が口に合わない様です。お見苦しい所をお見せしてしまい、申し訳ありません」
先程の薄暗い宮殿では気付かなかったが、こうして明るい部屋でまじまじと見ると、王妃の顔が普段よりも白いことに気付く。
足も遅かったし、風邪でも引いているのかもしれない。面倒なことになる前に、早めに医師に診せるか。
それにしても……
つくづく地味な顔だと、王は思う。亜麻色の髪に浮く、小さく丸い輪郭の中のパーツは、大きな歪みはないものの、どれ一つとして目を引くものがない。特に薄茶の円らな瞳は、従順な犬を思わせる程退屈だった。そして身体は、小枝の様に細く存在感がない。
もし、グレースが傍に居たならば……この女が自分の妻になることなどあり得なかっただろう。
──幼い時から、許嫁として傍で育ったグレース。
先王が崩御した混乱に乗じて、彼女の父ブラッドリー公爵が、自分の従兄弟を王座に就けようと、謀反を企てるまでは。
詰めが甘く、失敗に終わった愚かな謀反。自分は王として、ブラッドリー公爵へ毅然と死刑を下した。本来ならば、見せしめの為、家族も同じように処分すべきだ。
解ってはいたが……どうしてもグレースに手をかけることは出来なかった。初めて自分に愛を教えてくれた女性の命を、どうして奪うことなど出来ようか。
奴隷へ身分を落とし、辺境の地へ送る。これが大臣達の反対を押し切り、自分が下せた処分の限界だった。
グレースを失った自分へ、宰相が王妃にと薦めたのが、北の小国、メルネ国の第一王女であるこの女だ。
国土は小さいものの、メルネ国は独自の文化と豊富な資源で栄えた国であり、近隣諸国は喉から手が出る程同盟を結びたがっていた。
今までメルネ国は、他国の王室と姻戚関係を結ぶことを好まなかったが、何故か向こうから王女を嫁がせたいとの申し出があったと言う。
石炭等の資源の援助も約束されており、無事に姻戚関係を結べれば、我が国の利益になることは間違いない。
──いわゆる政略結婚だった。
こうして一人、遠い異国へ嫁いで来た王妃。まだ16歳という若さもあったのだろうが、当時はよく喋りよく笑っていたと思う。
王でなければ……政略結婚などしなくて済むのだったら……一生グレースを想い、静かに余生を送りたかった。
本来はグレースの場所であった隣に、この女が居る。納得して迎えたとはいえ、その現実に心が引き裂かれそうになっていた。
このままでは自分は、何の罪もない王妃を憎み、あまつさえ酷く罵り手すら上げてしまうかもしれない。自分が恐ろしくなり、出来るだけ王妃を避けるようになった。
最低限の挨拶に、最低限の会話。無論寝室も別だ。行為は子の出来やすい日のみとし、事が終わればさっさと自室へ引き上げる。
こうした日々を繰り返している内に、もう五年の月日が流れていた。
気付けば、21歳になった王妃からは、感情というものが見えなくなっていた。元々本が好きで、よく図書室で過ごしていたそうだが、最近ではあの古い部屋に一日中入り浸ることが増えているのだという。
……変わらないのは、この紅茶の味だけだ。
お代わりを注ぐと、もう自分に用はないと分かっている為、いつも通り礼をして部屋を出ていく王妃。
その直後だった。
悲鳴を聞きつけ飛び出した廊下で、力なく倒れる身体を抱き上げたのは……
“ ご懐妊 ”
医師の言葉に、宮殿中が沸いた。
結婚して五年目に漸く授かった待望の世継ぎ。王子であれ、王女であれ、こんなに慶ばしいことはない。
それなのに……
王妃の細い腰の辺りを見ては、何故か言いようのない恐怖に襲われる。こんな身体で10ヶ月も子を育てるというのだろうか。
そっと腹に手を置いてみれば、まだ伝わる筈もない鼓動を感じ、何かが込み上げる。ここに命がある。この細い身体に、二人分の命があると。
腹部の重みに気付いたのか……王妃の瞳がうっすらと開く。慌てて腹から手を退かすと、その瞳を覗き込んだ。
「……私」
「廊下で倒れたんだ。……妊娠している」
「妊……娠?」
「ああ、腹に子供が居る」
「子供が……」
自分の言葉をただ繰り返すばかりの王妃。華奢な手を腹に当て、しばらく何かをぼんやりと考えた後、突如ふわりと笑みを浮かべた。
……王妃はこんなに美しかっただろうか。
円らな薄茶の瞳は潤み、まるで琥珀の様に輝いている。白すぎる頬も控えめな唇も、女神と見間違う程に、何処までも清らかで優しい。
見惚れている内に視線が合い、慌てて目を逸らす自分に、王妃は言った。
「……命に代えても、必ず無事に御子を産みます」
その言葉に、先程の恐怖が再び込み上げる。喉が詰まり、何も言えない自分に、王妃は不安げに問うた。
「お喜び……頂けませんか?」
喜ぶ……
世継ぎが出来るのだ。喜ばしいに決まっている。だが……
カラカラの喉から絞り出したのは、たった一言。
「分からない」
細い腹を凝視していた自分の向こうで、王妃がこれ以上ない程哀しい表情をしていたなど、この時の自分には思いも及ばなかった。
◇◇◇
それから数ヶ月が経ち、悪阻も治まってきた頃だった。
最近王妃が好んで食しているというレモンのキャンディーと、北国の美しい風景が描かれた画集を土産に、王はメルネ国から数週間ぶりに帰宅した。
外交の為メルネ国へ訪問することを告げた時、王妃は目を伏せ、微かに身体を震わせていた。何も言わないが、本当はどれ程故国へ帰りたかったことだろう。一緒に連れて行ってやりたかったが、まだ安定期に入ったばかりの身重の身体で、長時間馬車に揺られる長旅には、どうしても許可を出せなかった。
広間に立つと何やらバタバタと騒がしい。
いつも整列して王を出迎える筈の使用人が一人も居ないことに、妙な胸騒ぎを覚えた。
目の前を通り過ぎようとした王妃の侍女が、自分に気付き慌てふためきながら礼をする。
「……何事だ」
「それが……数時間前から、王妃様のお姿が見当たらないのです」
「……何?」
問い質した所、王妃は書物を読みたいと言い、久しぶりにあの古い部屋へ侍女を連れ向かった。
廊下で待ってろと命じられた侍女が、中から全く物音がしなくなったことに不安になり、扉を開けて見た所……
室内はもぬけの殻だったと言う。
そういえば……自分も以前同じことがあったのを思い出す。
そう、あれは王妃の妊娠が判明した日。誰も居なかった筈の室内に、突如王妃が現れたのだ。あの時は自分が探し足りなかっただけかと、そう思っていた。
いや……今思えば、あまりの気味の悪さに、そう思い込もうとしていただけなのかもしれない。
立ち入り禁止を命じておけば良かったか……
王は部屋へ走りながら、ひたすら後悔していた。
息を切らし辿り着いた扉は、苦しくなる程異様な気を放っていた。恐る恐る開け中へ入れば、その気は一層重さを増し自分へのし掛かる。
あの枯れた臭気に混じり、以前は感じなかった、女物の香水に似たツンとした香りが鼻をつく。
もう兵が散々探したと言う室内を、棚の隙間からカーテンの裏まで細かく見ていく。
……やはりそこに王妃の姿はない。が、確かにこの部屋に居たのだという形跡が残されていた。
それは古びたテーブルの上に並ぶ、開きかけの二冊の書物。
一冊は、以前王妃が腕に抱いていた、水に濡れた皺のある紺色のくたびれた書物。もう一冊は、まだ新しい桜色の書物だ。
誘われるままに桜色の書物を手に取れば、王妃の優しい香りがする。
……日記?
見覚えのある愛らしい丸い字で、日付と文が綴られていた。