第九話 【救いの手】
これはまだ私が八歳の時。
家では一匹の黒猫を飼っていた、名はリリー。母が子猫の頃から大事に育てていた猫で、母以外には懐かなかったが、毛並みが綺麗な凛々しいメス猫だった。
ある日、私が小等部から帰ってくると、バタバタっと暴れるような音がした。その日は雨で、風が強かったため、最初は外の音かと思ったが、すぐにリリーが叫び出す。
「リリー!」
着替えも何もせず、食堂の扉を開けると、普段は近寄ってこないリリーが、逃げるように私にしがみついた。抱き抱えると手に血がつき驚く。
「あれ、ローザ帰ってきたの?」
「ロジエ? 何をやっていますの?」
リリーを抱く腕に力を込める。
ロジエは私とは双子の兄だ。社交性があまりなく、学園にも行ったり、行かなかったりしている。私と見た目は似ているが、性格は似ていないと思う。そんなロジエの手には、血の付いたナイフが握られていた。
「何って、見ての通りだよ」
見ての通り……? この男は何を考えているのか。
「リリーを傷付けて、何がしたいんですの?」
「これは試練だよ、愛しいからこそさ」
「わけわからないこと言わないでくださいまし」
ロジエを睨んだ時、ニャーと力ない鳴き声がしてハッとする。まずはリリーを病院へ連れていかなくては。
私は屋敷を飛び出す。雨なんて気にせずに走っていたが、八歳の子供では道も分からず、そもそもお金だって持ってなかった。ただ、リリーが死んでしまうと一心不乱に走っており、大通りの噴水の前で立ち止まる。リリーが息をしてない気がしたからだ。
「リリー?」
人がいることも忘れ、血を流すリリーに呼びかける。死なないで、そう叫ぼうとした時一台の馬車が目の前に止まった。
馬車の扉には、火を口から吐く龍が描かれている。恐らく馬車の持ち主の紋章だ。
「あなた、こんな雨の中傘もささずにどうしたの?」
馬車の扉が開く、中からは、人形のような女性が出てくる。強風に煽られた長いエメラルドグリーンの髪は柔らかく舞い、瞳には光がなく冷たい色を宿しているが、その様が更に作り物のように魅せる。私と同じく、魔術学園小等部の制服を着ていたが、面識はない。こんな綺麗な人を見たら忘れないだろう。
「その猫」
「あ、そうだ! リリーが怪我をしていて!」
女性につい魅入ってしまい、リリーが危ないことを忘れていたのを思い出す。
人と話している場合ではない。動物病院に行かねば。女性に場所を訪ねようと口を開く、それと同時にリリーが顔を上げ、にゃーと鳴く。
「酷い血、病院に行きたいのね、私には道がわからないから少し待ってね、御者の方なら……」
女性が後ろを振り返る。私は目を見張った。リリーが金色の光に包まれ、消えるとすっかり傷が治ったからだ。それは魔法であった、魔術師でない私でも理解できる。治癒魔法、元気になったリリーが暴れようとするので、慌てて抱き直す。
「動物病院はこの通りにあるって……あれ、猫、大丈夫そうね?」
「お姉さんのお陰ですわ!」
この場にいるのは、私と女性だ。女性が魔法を使ったのだと判断したが、本人は首を傾げる。
そんなことお構い無しに、私は何度も頭を下げ、女性は困ったような笑顔をするだけだったが、良かったわね、と優しく言ってくれた。その声にはあまり覇気はなかったけれど。
「あの」
「何?」
馬車に乗ろうとする女性を呼び止める。せめて名前を聞こうと考えたからだ、明日学校で会えば仲良くなれるかもしれない。
「お名前……」
「聞かない方がいいわ」
「え」
「覚えていても無意味よ、多分もう会わないから」
その声は冷たく、突き放すようであった。理由はわからないが、人と距離を取りたがっているように感じられる。
「な、ならせめて、何かください!」
「……へ?」
「わたくしにとって、貴女は恩人、名を教えて下さらないなら、貴女と出会ったという証が欲しいのです」
雨の中、人形のような女性に出会ったなど、夢みたいで、本当の夢になってしまうのが怖かった。
私のわがままに、女性はカバンの中を探り、一本の万年筆を取り出す。白い万年筆には、細やかに薔薇の花が金色の線で描かれている。
「これでどう?」
「た、高そうですけれど……」
「値段は知らないわ。姉様が入学祝いにって、私が使っても壊れないよう、私の魔力が込められているのだけれど、魔具だからって壊れない保証はないから使ってなかったの」
その説明だけで高級品だということがわかる。個人用の万年筆、ましてや魔具となれば、数百万はくだらない。
「そんな高いものは頂けませんわ……」
「いいのよ、他にないし、どうせ私はもう使わないわ、一生ね」
「それはどういう……」
女性は質問には答えず、私にもリリーにも触れないようそっと、手の上に万年筆を落とす。そして、手早く馬車に乗り込むと、御者の方に出発するよう告げた。
馬車が見えなくなるまで、私はその場で立っていた。いつの間にか雨は止み、手に残された万年筆をぎゅっと握り、屋敷に帰ると使用人達が焦ったように私を出迎え、リリーが私の腕から逃れる。ロジエはいつも通りで、リリーが警戒して威嚇しても素知らぬ顔である。
その日から、屋敷の周りで小動物の死体が度々発見されたが、私はロジエの仕業だとは言えなかった。証拠がないからだ、リリーの件だって、私がリリーを抱いて飛び出したとしか伝えられてなかった。魔法によりすっかり元気になったので、なぜ飛び出したのかを説明することもできなかった。
相変わらずロジエは学園に行ったり、行かなかったりしていたが、家を空ける事が多くなった。ちゃんと夜には帰っているので、誰も何も言わないが、帰ってきた瞬間にすれ違うと、濃い鉄の匂いがすることがあり、私は顔をしかめるしかない。周りはなぜかそれに気づかないから。
「そんな生活をしていた高等部卒業後、ロジエは忽然と姿を消しましたわ」
その場の全員が黙る。色々聞きたいことはあるが、ロジエという男がどんな人物かは大体理解できた。
その殺戮衝動が試練だと言う言葉は気になる、しかしローザに聞いてもわからないだろう。
「まずは手短な疑問を解消しましょうか、メリ」
カルデラがニッコリと私を見る。私は顔に手を当て考える……が、覚えはない。万年筆は覚えている、姉様があれこれ考えてくれたのだ。魔力を込めろと言われて困ったのも覚えている。
その万年筆をどうしたのかは覚えていない。
「女神様、思い出す時は、その日あったことを順序を踏まえて言うといいらしいですよ」
「順序……」
ローザの話を察するに、私が地下に入ったあの日のはずだ。あの時ラーダ先生を傷付けたから、無理矢理にでも地下に入るんだろうなって思っていた。その覚悟はあった、決定打は婚約破棄だが。
「うーん……」
「やっぱり覚えてないのですわね……」
悲しそうな表情をされてしまう。ごめんねローザ、その日は色々あったのよ。
ローザは、いつも使っている手帳をを取り出す。そしてそこから一本の万年筆を取りだした。
「これが頂いたものですわ、今でも大切にしていますのよ」
机の上に置かれたそれは、確かに記憶の中にあるものだ。カルデラが許可を取り、それを手にする。
「微かにですが、メリの魔力が読み取れますね」
「うん、記憶の中にその万年筆はあるのよ、あるんだけど」
それを見て思い出せるものではない。きっと、雨の中少女が血を流した猫を抱いていたから咄嗟に止めてもらったのだろう。私ではどうしようもないと知りながら、放置もできなかったわけである。罪滅ぼしのつもりだったのかもしれない。怪我した者を救うことで、自分の中の暗さを少しでも軽くしたかった、そんな所だろうと推測する。
関わった人を覚えているわけではない、いや、覚えている方が少ない。務めて忘れようとしていた、どうせ危険人物なのだからと。だから、覚えていても無意味と突き放したのだ、私は忘れてしまうから。
「ごめんなさいねローザ、覚えてなくて」
「いえ、仕方ありませんわ、あの後本当に会わなかったのですもの」
「でしょうね、クレイ様に拒絶されなくたって、地下に入ってたでしょうから」
魔術師が魔術を使って罪のない者を傷付けたのだ、それも当たりどころが悪ければ死に至る怪我である。地下に入る理由としては充分であった。
改めて思い出すと、よく危険人物認定を取り下げてもらえたなと思う。マギア王には感謝しないと。そんな風に考えて、周りが凍り付いているのを感じ取る。ん、どうかしたかな。
「女神様、地下にいた事がおありで……?」
「え、はい、十年間」
プレスティ、ルストが目を丸くする。私は二人に言ってない事を思い出す。ミラフにも言ってないが、彼は独自に知っているので驚きはしないだろう。他は説明済みだ、でも他の方々も真顔だな。
「メリ、拒絶されたというのは?」
「……え?」
その場に静かな声が響く。私はカルデラを見たが、真顔である、怖いくらいに。
しまった。私は地下にいたことは言っているが、なぜ地下に入ったのかは言っていないのだ。地下に入った時点で全ての人間関係は絶たれる。クレイが婚約者だったというのすら言った覚えはないが、カルデラならば察しが付いていただろう、しかし、自然に破棄されたと思っているはずである。
「そう言えばヴァニイの報告に、婚約破棄されたってのがありましたね」
「クレイ本人は、メリさんから婚約破棄されたみたいなこと言ってたが、あいつ嘘が混じってたからな」
「嘘しか言ってないんじゃないか?」
「まじで……?」
ミラフが青ざめた表情をする。二人の間にどんな会話があったのかはわからないが、カリナが変な誤解をしてたのを思い出す。
その誤解を、私が詳細を話してしまった、リテア様、セヘル、ローザも思い出したようで、全員が私を見た。
「えーっと、詳細は省いていい?」
「ダメですわ」
「話しなさいメリ」
「場合によっては、処罰、すべきかと」
だから大袈裟なんだって。クレイに至っては凄く昔なのよ、まだ十二歳の頃なのよ。そりゃ、ミラフに嘘ついたのはダメだと思うけど。会話聞くの怖いから、聞きたくないかな。
「……俺も気になるな」
「ミラフ様まで!」
「あいつの話がどこまでが嘘で、どこまでが真実か、気になるもんでな」
いつになく、ニッコリと笑うミラフに私の顔は引き攣る。これ、本当に喋らなきゃダメかな。
結局、あの日どんなやり取りがあったのか話すことになり、詳細を話す。衝撃が強くてちゃんと全て覚えていた。我ながら未練がましいとは思うが、忘れたくても忘れられない記憶ってあるものよね。話終えると、カルデラは私を抱き上げ、膝の上に乗せ、強く抱き締められる。ミラフはため息を吐く。
「あいつ、少し痛い目見た方がいいんじゃないか?」
「ミラフ、それは貴様もだからな」
「それは……すまなかった」
カルデラ、ミラフのこと許したわけではなかったのね。彼に直接されたことは、ナイフを突きつけられたくらいなのだけど。
しばらく、クレイに対してどんな処罰しようかなんて話がなされ、私が全てを止めたので、処罰は撤回された、カルデラは不満そうだったが、やめてあげてほしい。
ロジエについては、今は情報がないので、ヴァニィや、改めて調べると言ったローザの情報待ちとなった。こうして、今日は各自部屋へ戻る。
部屋のベッドに横になると余程疲れていたのか、すぐに眠りに落ちる。夢の中で、何か懐かしいものを見た気がするが、起きたら全て忘れていた。
実は話してなかった婚約破棄騒動。
今作は一応婚約破棄物を書こう! という趣旨で書き始めていたのですが、そもそも婚約破棄された挙句に地下に入って監禁状態の時点で、普通の婚約破棄物ではなかったのでは? と今更ながからに思います。




