宝樹の獣2
「邪魔、しないでください」
だが、その一瞬の間隙に、エイゾラですら躊躇して疾駆を留めた。マリアの背中から、真紅の翼が生え伸びる。瞬きの間に、その羽ばたきは周囲の花々を焼き尽くす。熱波と冷気が入り混じったアノマリスの麓に、陽炎のような歪曲が浮かぶ。
「何を……するつもりだ?」
追いすがるエイゾラをよそに、朱い翼が豪風を熾す。
マリアは一直線に、宝樹アノマリスへと突進していった。
「馬鹿な! 本当にそんなことを!!」
「――――!!」
エイゾラの咆哮が、一帯に木霊する。だが、マリアは止まらない。流星のように空を裂き、その翼が目指す先へと尾を引いていく。彼女の全身に赤熱した魔力が胎動し、その様はまるで、燃ゆる心臓が飛翔するようだった。
「消えて……ください」
構えられた右腕に、朔宵のシリウスにも見紛う魔力塊が収束していく。風と魔力を巻き込み、肥大化し、大渦がうねりを上げる。まるで嵐を巻き付けたようなその腕が、アノマリスの幹に正面から衝突した。
鼓膜を撃ち抜かんとする、鋼鉄が砕け散るような爆音に歯を食いしばる。音圧だけで、意識が持っていかれそうだ。そして、瞳に映り込んだ景色に思わず瞠目した。
宝樹と名高き巨木、その大樹は見たところ山と変わらない。天空へと腕を伸ばす、山であり壁といってもいい。僕はもちろん、マリアであろうと、エイゾラであろうと、アノマリスの前ではほとんど豆粒同然だ。
「嘘だろ……?」
宝樹の幹に、深々と、鮮烈極まる裂傷が沈み込んでいた。小指の先ほどの蟻の一匹が、取るに足らないはずの顎のひと噛みが、致命的な鉈を宝樹に振り下ろしていた。
「……どうだ、見てみろ」
視界の端に、灰のように頽れ、斃れたエルフが見える。
「見たか、魔王。見てくれたか、幻王」
長い髪が落ちかかって見えないはずの瞳が、微かに妖しく光を湛えている。
「私の、そして私たちの勝ちだ」
「――――ッ!!」
マリアが着地した瞬間、満身創痍のエイゾラが襲い掛かる。最後の牙を突き立て、その片翼を食いちぎる。同時に一閃された前足が、彼女の背中を切り裂いた。
「ぁああっ!」
マリアは悲鳴を上げながら膝を付く。だが、それだけだった。引きちぎられた翼を捨て去り、爪が食い込んだ背中の血肉をかなぐり捨て、彼女は爛々と光る眼球をエイゾラに向けた。
「お前は大きくなりすぎた」
振り抜かれた爪。それは獣の爪ではなかった。
「還るべき時機を失った、かわいそうな獣」
真紅の少女の指先に象られた、不死鳥のように燃え上がる鉤爪が、エイゾラの前足を斬り飛ばした。音もなく、うめき声もなく、その精霊は転がった。倒れ伏し、限界をとうに超えた身体を放り投げた。
だが、それでも。
どんな姿になれ果てようとも、意識だけは残っていた。
その意思が、その遺志が、僕を呼んでいた。




