宝樹の獣1
その四肢は滑らかに、優美で妖艶な曲線を描く。夜の闇の中にひっそりと羽を広げた真っ白な蛾のように。その身体を包み込む純白の花弁は、まるで鱗粉だ。
『マリア』と名乗った少女は、降り立つと同時に視線を空に向けた。僕やシヴはおろか、もはやゼルすら眼中にない。彼女は右腕を肩の高さまで引き上げると、指先をすらりと伸ばして魔力を手繰る。
「まずい」
「……あぁ、まずそうだ」
反射的に身体をピクリと動かしたシヴ。それにつられてマリアの魔力流を見極める。恐ろしいことに、アレはエイゾラに近い存在だった。だが、彼女の魔力の供給元は大地ではない。
「あのままじゃ、アノマリスが枯死してしまう……!!」
「ゆぬ。三日でかれる」
シヴが警告するが早いか否か。マリアの真っ白な指先が朱色に染まり始める。その変色は爪の先から始まり、四肢を染め上げ、髪の先まで、鮮やかな吐血のような紅に染まっていく。
色を吸い上げるにつれて、染み渡った魔力が、彼女の存在そのものをぼやかしていく。百合色のハンカチに落とされた一滴の血液が、繊維の一本、その果てまで侵食していくみたいに。
噴き出す力の波が、血飛沫のように辺り一面を塗りたくる。彼女を包み込む花弁のひとひらでさえ、触れれば肌を切り裂く切っ先となるだろう。
「僕のせいでごめん、シヴ。僕らあれと、戦えるかな」
「ゆぬ。こるこるとかりちゃ、もうちょっとやすむ。1分、ほしい」
「分かった、了解」
思わずおんなじことを二度繰り返す。分かっている、半分はシヴに言ったんじゃない。
ぎゅっと眼を瞑る。瞼の裏側が暗く赤く。意識がはっきりと戻ってくる。大きく、深く、吸って、吐く。もう一度、吸って、それから、ゆっくりと吐き出す。
周囲の空気が変わる。吹き抜ける風の音色は、冷たく凍り付いた冬の湖水に亀裂が走ったようだ。心臓の音に耳を澄ませる。僕の心臓だ。アンバールと融合しかけているらしい、それでも僕の心臓だ。龍にくれてやった覚えはない。
「トキ」
「うん?」
隣で膝を付いて休むシヴが、ふわりと髪を揺らして僕を見上げる。見れば、肌は切り傷にや擦り傷にまみれている。魔力灼けのような痣が全身に浮き上がり、湯気を立てるみたいに修復されていく。
彼女は少しうつむいて言った。
「しんぱいした」
「……うん」
喉に言葉がつっかえる。記憶が曖昧だ。経緯が良く分からない。僕の意思がどこに行っていたのか、それとも、僕の意志をアンバールが増長させただけなのだろうか。
いろんな言い訳が頭をよぎる。数えきれないような語彙が、頬の内側で溺れるように淀む。泡沫になった言葉の一つ一つを、胸焼けさせながら飲み込む。
「うん。ごめんね。ごめん、シヴ……ありがとう」
脚を叩いて立ち上がる。叩いて、引っ叩いて、そうやって起き上がる。
「レナとハナ……いや、マリアを止めるよ!」
瞬間、駆け出す僕の身体を追い越すように、真っ黒なシルエットが並走した。
「エイゾラ!?」
「――――――ッ」
唸り声をあげて、大角と全身の筋肉、果ては魔力さえ失いかけた瀕死の獣が全身を震わせる。もはやそれは、魔獣というには酷く歪で、醜悪なほど愚かで。そして熱に浮かされ夢を追う、まるで旅人のようにすら見えた。
「あぁ、そうか。お前は……」
僕の言葉を待つ素振りもなく、魔獣は僕を追い越して先を行く。血飛沫を上げて、全身全霊で、駆け抜ける。四肢から迸る、火傷するほどに熱い血潮が僕の腕に、頬に、額に打ちかかる。この感覚を僕は知っている。ヘルメスだ。命を削る者の、死を恐れ、しかし死を厭わない者の、覚悟の血潮だ。
血肉が沸き立つように身体に魔力が満ち始める。こんな馬鹿な理屈があるだろうか。他人の三分の一しか無いはずの魔力が、溢れんばかりにとめどなく流れ出す。あぁ、この魔力はアンバールのものではない。僕の心臓が脈打って、流し込んだ魔力だ。嘲笑にも似た自虐が込み上げる。僕という人間は、意外と気分屋らしい。
「止めよう、エイゾラ」




