勿忘草の胎動1
宝樹アノマリスが、その壁のような幹を震わせる。その様相は、最早地震といって差し支えない。黒契爪が二個体、そこにエイゾラの乱入ときた。大気が弾かれたように震え、全身がビリビリと麻痺したような感覚に包まれる。
少年の内から、龍の気配を感じた。それも、私が遭遇したことのある伝説の龍の息遣いを。『苔生した龍』は、幻王と共に白夜血戦で果てたのではなかったか。まさか、虚数領域に隠棲でもしていたか。
ぐにゃりと歪んだ視界が、次第にはっきりと晴れていく。脳震盪か、魔力に当てられた影響か、こめかみに激しい鈍痛が襲い掛かる。頭の内側から釘を打ち込まれたみたいだ。
「皮肉なものだな、エイゾラ。お前に救われるとは」
あの精霊にとって、もっとも目の敵にしているのが私だろう。私の目論見と、エイゾラの存在意義は全くの正反対。その私を結果的に助けることになるほど、アンバールに対して魔獣は脅威を感じていた。
立ち上がるが、身体が言うことを聞かない。ともすれば、片膝を着きそうになる。目立った怪我はないし、筋肉の過労もない。だが、先程全身を洪水のように満たした膨大な魔力に、神経が酔っているらしい。
数十メートル先に、エイゾラの巨体が見える。砕け散った大角、全身から流れ出る鮮血。いくら土地の加護を受けていようと、もう永くは生きられまい。牙の端から漏れ出る荒々しい吐息が、冷涼な寒気に触れて真っ白に染まっていく。哀れな。ほとんど魔力も残っていない。
エイゾラの前方、十数メートルほど離れた花園の中に、少年の身体が転がっていた。一時的に意識を失っているのだろうか、眠ったように目を閉じたまま、しかし魔力の流出は完全には止まっていない。いつまた先程のように暴走しだすか分からない。しかし気がかりなのはそこではない。彼は……。
「お前は一体なんだ、トキ」
人間ではないのか。魔王に見初められ、幽世に隠棲したシオンを師と仰ぎ、あまつさえアンバールに契約を持ち掛けられるような「ただの人間」がいるものか? そんな偶然が、果たしてあるものか?
「トキ! トキ!」
少年の名前を呼ぶ幼い子どもの声が聞こえる。シヴに、見たところ手傷を負った様子はない。とはいえ、先の魔力放出量を鑑みれば、すぐさま戦闘態勢に入れるほどの余裕も無いと見える。不愉快だ、まさか黒契爪を二個体相手にすることになるとは。この「運命」に中指を立てたくなる。
「だが。今しかない」
口の端から血が滴っていた。鉄を舐めたような味がダイレクトに脳まで伝わってくる。構わず進む。見れば、腕に小枝の先端がいくつも刺さっていた。この期に及んで痛みなど、些末な事象であった。構わず進む。無様に、上体をよろめかせながら、足を引き摺って、それでも足を止めない。構わず進む。
そして私はたどり着いた。やっとここまで来た。二人のもとへ。




