厄災の地鳴り7
獣は、霧の晴れた滝の源泉を見上げる。降り注ぐ水柱が陽光に煌めき踊っていた。
エイゾラは低い唸り声と共に、前脚を力ませる。赤黒く渦巻いた魔力がエイゾラの全身を塗りつぶし、圧倒的な存在感を放ち始めた。
僕は汗ばんだ手に短剣を握り直す。だが、獣の眼が向けられた先は、僕ではなかった。
一歩前に踏み出す小さなシルエット。擦り切れた包帯が風に吹かれ、長い銀の髪に魔力が満ち満ちている。エイゾラの威圧感など上の空と言った様子で、その小さな体躯から猛烈な魔力の奔流が溢れ出す。
なるほど、睨み合うのは一人と一匹かと思っていたが、そうではないようだ。
この場で睨み合うのは、ただ、獣が二匹あるのみ。
僕は不意に、右手の指輪を確かめる。魔王から預かった、漆黒の指輪。
「困ったら指輪」
彼女はそう言っていた。言葉の真意は見えないけれど。
この指輪がどうということはないはず。だが、僕の命を繋いだのは間違いなくこれだ。
「それと……なにを覚えていればいいんだっけ」
記憶の片隅を掠めた誰かが、髪の先だけを撫でていった。
蹴り上げられた草木が根元から抉り出されて宙を舞う。
飛び込むエイゾラの豪爪が、空を切り裂いて甲高い破裂音を響かせた。
「ゆぬ」
撃鉄が起こされる。
シヴの右手が、エイゾラの暴力的な魔力と交錯した。
告解の滝に立ち込めていた濃霧が、雫ひとつ残さず吹き飛ばされる。
続けて二撃。彼女の左腕、そして反転した回し蹴り。刺々しく突き立ったエイゾラの尾と激突し、互いが互いを睨みつける。
「閃光」
刹那の静寂を切り裂いたのは、僕の背後から放たれた一射だった。
光彩を放つその鏃は、大地と草葉を巻き上げて一直線に突き進む。かろうじて反応したエイゾラが身を捩るが、狂いないその閃光は、容赦なく獣の肩口を貫通して血飛沫を上げた。
「―――!!」
苦悶の声を上げ、エイゾラが数歩、たたらを踏んで後ずさる。
振り向くと、指先からなおも光の漏れるストースが、エイゾラに厳しい目を向けていた。
「避けますか。頭部に直撃する軌道だったのですが……」
彼の足元から光の粒が舞い上がる。うっすらと緑に色づいたそれらは、踊るようにふわふわと彼の周りを取り囲む。
「ふむ……大地の加護があるようです」
「加護?」
「トキ君には見えるでしょう。私はいま『森』と情報を共有しています。エルフはこれを森の加護と呼びますが、あの魔獣が私の矢を避けたのも同じ原理のようです。あれは、このマクトベラシュカという土地を味方につけている」
この土地そのものと会話をしているようなものだろうか。
目を向け、眼を凝らす。
確かに、大地から湧き出る膨大な魔力があの魔獣に纏わりついているように見える。
「でも、あれは……」
違和感がある。
「何か気になることが?」
「ストースさんの森の加護と、エイゾラの大地の加護は、同種のもの、なんですよね」
「ほとんど似た性質のものです。いかんせん私には森の魔力しか判別できませんので、比較というのは難しいですが。きっとユズリハとヒメユズリハくらい似たものですね」
「……全然何言ってるか分かんないです」
エルフなら通じる喩えなのだろうか。
だが、それにしても。
「あの魔獣に向って大地から滲み出る魔力は、ストースさんの森の魔力とは似ても似つかないものです。もっと毒々しくて、濁流みたいな……」
「なるほど、ウツギとフサフジウツギくらい違いますね」
「いや知らないですけどね」
あれが大地の魔力だとすれば、ストースの言う森の加護とは見た目に違いがありすぎる。なら、あの魔力はエイゾラのものか? おそらく、それも違う。
「シヴ、ストースさん、今のうちにエイゾラを振り切って移動します」
「おっと流石は王の眼、簡単に言いますね」
「どこいく?」
茶々を入れるストースさんを横目に、シヴが戻ってくる。
エイゾラの足元から、なおもせり上がる魔力。
土地のものではない。
禍々しいそれから感じるのは、そう、脈動だ。
一体どれだけの「いのち」を吸い上げた産物だろう。
ゼルは洞穴の奥に消えた。
トゥーヴェン=ジユ。意味は確か……再誕の樹? いや確か、何か……。
思考を振り払い、僕はその巨木を眇め見る。
巨大なその樹影は頂点が雲に霞むほどだ。
「行こう。元凶はきっと、アノマリスだ」




