厄災の地鳴り6
即座に展開したアラニエが、僕を取り囲む。だがそれに何の意味があろうか、天井から崩れ落ちる石塊には、魔力が編み込まれているわけではない。ただ力学的に落下してくるだけの石くれには、僕のアラニエは全くの無力であった。
咄嗟に腰から引き抜いた短剣で、拳ほどの瓦礫を払いのける。ガリっと嫌な音がして、肘に重厚な重みがのしかかる。ラカンでの一件が無ければ、こんなに冷静にはいられなかっただろう。
「外に出ろ。じきに圧死することになるぞ」
「待て、ゼル! 何を……」
「お前にはひとまず、獣の相手を任せるとしよう」
崩れ落ちる洞窟の先で、薄明りに曇った扉の奥へと、ゼルとレナ、そして彼にぐったりと倒れ掛かったハナが消えていく。彼女自身に異変は感じなかった。であれば先の奇行は、ゼルが何かの細工を仕込んでいたとしか考えられない。
「クソッ」
悪態をつきながら、告解の滝へと引き返す。暗がりを抜けて、建付けの悪い扉を開け放つ。錆びついた蝶番が耳を裂くような悲鳴を上げて弾け飛んだ。重い扉ががらんがらんと音を響かせながら転がる。
肩で息をしながら、霧にむせぶ滝に目を凝らす。
あの洞窟の先に繋がるのは、一体どこだ? 真っ直ぐに洞窟の先を見据えるなら、その先にあるのは、宝樹アノマリス、その根元……。
「なんだ」
思考を切り裂いて、それがやってくる。
魔力の嵐。
剛毅なる咆哮。
その鮮烈な魔力流に、立ち込めた霧が吹き荒れる。
「―――――――――――――――!!!」
ゼプキル全体が蠢くさなかにあっても、まるでその振動が揺り籠であったかと錯覚するほどの地鳴り。
腹の底から震えあがるような大咆哮に、無意識のうちにアラニエを身構える。
「エイ……ゾラ」
十メートルを超えようかという獅子のような体躯。漆黒の鋭棘に覆われた背甲。牙は重く、長く、鈍い輝きを身に纏う。正面に湾曲した二本の角、右のそれの根元には亀裂が入っている。かつて失われた剣が、再び鍛え直されていた。
「獣の相手ね……」
言うが早いか、エイゾラの魔力が爆発的に満ちていく。大地を抉る轟音、一息で僕の眼前にその四肢が迫る。
身を捩りながら、振り抜かれた前足にアラニエを叩きつける。重厚な手ごたえに、奥歯の端から息が漏れる。
一撃の重さに目が白黒する。だが吹き飛ばされながらも、そいつから目は離さない。シヴと対峙した時とは違う。エイゾラは魔力の塊だ。アラニエが通用しないわけじゃない。圧倒的な膂力の差には瞠目せざるを得ないが、いなすだけなら。
「こんなところで足止めされるわけには……」
だが、事は一刻を争う。
思考が再び巡る。
構え直した祓魔のインケラーシャの切っ先に目を凝らすと、不思議と精神が研ぎ澄まされるのを感じる。
ゼルが向かった先が、宝樹アノマリスだとして、彼の目的はなんだ。
ゼルの言動を思い返す。
レナとハナ。彼女らを連れ去ったのには理由がある。
王宮を離れたあと、わざわざこのゼプキルに来たのはアノマリスのためだろう。目的はまさしくこの豊富な植生に違いない。それをむざむざ害するようなことはあるだろうか。
しかし、彼の眼は。張り詰めた彼の横顔は、何を決意した貌であったのか。
小剣を目の高さに構えたまま、僕は大きく一つ息をつく。
僕は魔王の眼。魔王なら、彼をどう視る。
「――――!!」
再び怒号を上げてエイゾラが嘶く。
呼応して暴風が吹きすさび、僕は顔を顰める。獣の後ろ脚に真紅の魔力が収束していく。
「まずい……!」
瞬間的に飛びのくが、その魔力量の差は圧倒的だ。
瞬きの間に、眼前へと巨体が迫った。
アラニエの脚が僕を包もうと繭玉を作り始める。
だが遅い。
獣は濁流の魔力を前足へと流し込んだ。閃光に目が灼かれる。一閃したその爪に、僕の反応は追い付かない。
殺される。
視界を埋め尽くす漆黒の豪爪が、不自然なほどゆっくりと迫ってくる。
この感覚はなんだ。
死を間際にして、恐怖に脳が麻痺したのだろうか。
透き通った真空の中に、景色が静止していく。
伸ばした手の先に、ただ一つ輝きを放つもの。右手の先に揺らめく、漆黒の指輪。
『こんなところで、くたばるつもりか』
「誰だ、お前は」
脳を反響し駆け巡るその声に、思わず声を上げる。アラニエが幾重にも連なり、一本の綱となって迸る。僕の鼻面の先で、エイゾラの爪とアラニエの束が交錯した。
横面を引っ叩かれたみたいだ。だが、僕の首は飛んでいなかった。
「死んでたまるか。くたばってたまるか、こんなところで」
決死の覚悟で獣の豪風を押しとどめる。
食いしばった歯が、ガリガリと軋む。
瞬間、エイゾラの姿が掻き消えた。
状況を飲み込めない僕の周囲を、堅牢な樹木の幹が取り囲んでいく。極彩色の魔力の気配、足元に突き立った、数本の矢尻。
「ストースさん……!」
言うが早いか、反り立つ大樹の防壁をぶち抜いて、小さな流星が舞い込んだ。はためくぼろ布は、さながら箒星の尾のようだ。
重力を無視し、中空をくるりと回転すると、彼女の両脚に莫大な魔力が注ぎ込まれる。まるで、星がそこに生まれたかのように。
「ヴーティオ、ゆぬ」
横槍というには巨大すぎる一撃が、エイゾラの脇腹を抉る。シヴの華奢な右足が、突き破らんとする勢いで巨獣の堅牢な棘鎧を粉砕した。エイゾラが嵐に吹き飛ばされた瓦礫のごとく、三十メートル先まで転がる。
憎々しげに唸り声を上げるエイゾラの眼前に、二つの人影が立ちふさがる。
長身のエルフは手首を回しながら、眉根を顰めて矢を手に取った。
「魔獣というより、土着の精霊のようですね。心が痛む限りです」
「……こころ、あるの?」
「もちろんありますよ……え、私のことですよね? ありますよね?」
軽やかに着地したシヴが、しゃがんだまま僕の方を振り返る。
「だいじょうぶ。シヴ、がんばる。ゆぬ」
「ありがとう、シヴ、ストースさん」
「元凶はゼル、ということでしょうか。状況は落ち着いてから聞くとしましょう」
目を細めてストースが呟いた。
「舐められたものです」
その目は冷たい輝きを反射すると、水面のような静寂に包まれる。
「薬師一人と、獣一匹。特危管三人を相手取って……まさか勝つ気でいるんでしょうかね」




