厄災の地鳴り5
瀑布の帳が、澄み切った水音を響かせる。反り立った岩壁の向こうからとめどなく流れ落ちる飛沫の一粒一粒に、薄曇りに遮られたささやかな陽光が虹を架けていた。
幽玄に侵された光景だった。
見渡す限りの草原かと思われた道のりの先に、突如として雲霧が立ち込めた。眼前には知らぬ間に、存在しなかったはずの断崖が広がっていた。
漆黒の岩壁の頂上は噴霧に消え、鼠色の壁面がうっすらと揺らいでいる。
「痕跡は?」
「いまさら……随分前から消えてますよ。そんなこと分かってて前を歩いてたんでしょう」
僕の言葉には返事もせず、ゼルは二人の少女を胸の中に留めたまま馬の脚を進めた。
足並みはいたって平然としていて、迷う素振りも無い。
『告解の滝』。この薬園に観光客が来るなら、こんな場所にも人の群れはできよう。しかし現実は程遠く、現地住民や原生群島の無辜の民から搾取し続ける無法の土地。
虎穴の先にさやけく月光が差し込もうとも、それを見物に行く者好きは食い散らかされて棄てられる。
「何が目的です」
「なんのことだ」
「僕をここへ連れて来た目的があるんでしょう」
ゼルは背を向けたまま、こちらへ視線だけを向けた。
「ふん……トキ。お前にはこの街がどう見える」
「ゼプキルが? なぜ僕にそんなことを……」
言いかけて、はたと口をつぐむ。
彼は知っているのだ。僕が何者であるのか。
「『王の眼』、なのだろう。ならばお前が視たものは、魔王の視たものに等しいはずだ」
馬はコツコツと蹄を鳴らしながら、滑りがちな岩場を進んでいく。流水の飛沫が弾けるその脇に、目を凝らすと小さな扉が認められた。錠の掛けられたその扉が、ガチャリと仰々しい音を立てて開け放たれる。
「ここは……あなたの、ラボラトリー?」
「そんな大それたものじゃない。ただの玩具置き場だが」
暗がりに蠟燭の明かりが灯る。ゼルの魔力に呼応するように、ラボの奥までが、ぼんやりと仄かな光に照らし出される。
「一体、ここで、何を」
眼を剥いた。
実のところ、明かりが灯されるより先に、この一室の輪郭は掴めていた。壁中を血管のように這い回る魔力線が鈍く輝きを放っている。おぞましいほどの気色、一つの生き物の内側に入り込んだような奇妙な感覚。
「何を、しようとしているんだ」
「私がするのではない。大地が、それを望んでいるだけだ」
「バカな。独りでにこんなことになるもんか。これは、この色は……っ!」
憤りに近い溜飲がせり上がる。喉元につっかえた熱が苦しい。
「お前が、このタイミングで送り込まれた。あの気味の悪い魔王のことだ、偶然とは思わん。だが、お前にはどう見える。美しいか、それとも悲しいか、醜いか、恐ろしいか」
僕が言葉を返すより先に、ゼルは振り向いて続けた。
「それは、本当にゼプキル(ここ)だけか?」
乱した長髪の奥で、凛と涼しげな視線が僕を射貫く。
ゼプキルまでの旅路がよぎる。豊かな帝国。豊穣の薄桃色に染まる国、どんな病にも薬があり、魔術があり、その研究がある。黄道を越えた日、熱砂の道を行き、苛烈を極めた道程の先に、ゼプキル市に辿り着いた。薬と呼べるようなものは全て麻薬だった。痛み止めであり、睡眠剤であり、同時に幻覚剤だった。
「どうしてこうなる? お前にはどう視える?」
「ゼル、あなたは……根底から、体制を破壊しようとでも?」
小さく息をつくのが聞こえる。
僕は身構えながら眼を凝らした。攻撃的な魔力の流れではない。半ば嘆息気味で、しかし半ばは獣のような気配。
「ハナ、時間だ」
「……っ」
ゆらりと、意識を失ったまま、人形のようにハナが立ち上がる。クリーム色の柔らかな髪が揺れる。瞬間、彼女の上着のポケットから、何かが閃くのが見えた。
「よせッ!!」
駆け出す間も無かった。
ハナは握りしめたポケットナイフを、自分の左の掌に貫通させた。
「ぁあああっぁぁぁああぁぁぁ!!」
意識が有るのか否か。
しかし生々しいその絶叫、耐えがたい痛みが金切り声を上げていた。
零れ落ちる涙がぽたりと床に落ち、苦痛に表情が歪む。
「何のつもりだ!」
抗議の悲鳴を上げた僕を見据えて、ゼルは冷淡に続ける。
「それはお前が視ろ。生かすか殺すか、お前が決めろ。私を、否定してみせろ」
その言が終わるや否や、地鳴りが周囲に響き渡った。身体の奥底を震わせるような重いその振動は、このマクトベラシュカ全体に鼓動のように伝播したのだと分かった。
ハナの手の甲から、鮮血が迸る。
彼女の悲鳴に促されるように、地響きが反響していく。
二の句を継げぬ僕を睨んだまま、ゼルは獣の目でどこか遠くを見ている気がした。
宝樹が、獣が、大地が。
胎動を始める。




