あの少女の追憶2
その日を境に、お母さんはゆっくりと、ゆっくりと、凋んでいくようでした。
お父さんのお友達が持ってきた小さな箱を大切に抱えたまま、お母さんは私が話しかけない限り、ずっとベッドに横たわったままでした。
痛そうで、苦しそう。
なにより、消えてしまいそうな脆さを、私はお母さんから初めて感じ取りました。
「……ご飯だよ、お母さん」
喉が震えたのかどうか。その振動が、口の端から消えていくように感じる。
お母さんは、ゆっくり顔を上げて私に微笑む。
私の言葉は届いている。
でも、私の想いは届かない。
音は届くのに。
この心は届かない。
お母さんと、最後にお喋りしたのはいつだろう。
お母さん、私、もうすぐ十歳になるよ。
帰ってこないお父さんのこと、もう知ってるよ。
今でも、お父さんのこと、忘れてないよ。
今でも、お父さんのこと、大好きだよ。
でも、同じくらいお母さんが好き。傍にいてくれる、お母さんが好き。
お父さんがいなくても大丈夫だよ。
お母さんがずっとベッドから動けなくたって、私が守るからね。
レナは、お父さんとお母さんのレナだから。
カクロテーゼ。お医者さんが来て、お母さんにそう言った。
「それは、治るの?」
しんと静まり返った寝室に、澄んだ声が通る。
お医者さんは黙りこくって、言葉を濁した。
「そう」
お母さんの声は、変わらず静かだった。
まるでゼンマイのおもちゃが壊れて、もう修理できないのだと告げられたみたいに。
「ごめんね、レナ」
お母さんは、もう二度と治らなくなった自分の身体じゃなくて、傍らに立った私に向かって呟いた。
何も言えなかった。
お母さんが最後に私に話しかけてくれたのは、二年前のことだった。
たまに見舞いに来るエリックさんや、診察に訪れるお医者さんとは、二言三言話すのに。
私は、私自身を憎んでいた。
なぜなら、お母さんが私を憎んでいたから。
私を疎んで、一言も言葉をかけようとしなかったから。
私は、お母さんを苦しめる私がきらい。
でも、お母さんを守るには私が必要だった。
板挟みの鬱屈な心に、鏡に釘差すように痛烈な寸鉄が穿たれた。
「どうして謝るの?」
二年前とは違う声色。
二年前とは違う、動揺して震える咽頭。
「お母さんは悪くない。何にも悪くないのに」
嗚咽が混じる。
線引きし、触れずに置いた宝物が、時間と共に錆びついて、崩れ落ちていく。
私の命は、あなたに生きてもらうためにあるのに。
「レナは優しいね」
あの日以来、一度も見せなかった涙が、お母さんの頬を伝って流れ落ちる。
訳が分からなくなって、私はただ傍に駆け寄った。
握った手が温かい。でも、その手は前よりずっと細くて、骨ばっていた。
「ずっと、こんなお母さんでごめんね。でも……」
言い淀んで、お母さんは私の手を額に当てた。
「あなたに、見捨ててほしかった」
震える唇で、お母さんはそう言った。
「こんなお母さんに愛想尽かして、自分の人生を歩いてほしかった。だって……お母さんはもう、治らないんだもの」
「……治らないから何よ!」
気づくと、叫んでいた。
絶叫していた。
込み上げる毒気を吐き散らかすように、私は思いつく限りの言葉を吐き出した。
「いまさら何よ! 二年も無視して、放っておいて! 私がなんて声かけても、全部知らない振りして! ふざけないでよ……馬鹿にしないでよ!」
堰を切ったように溢れ出す。届かなかった想いが、見せられなかった涙が。
「自分だけ辛いと思ってたの? 私は好き勝手に生きられると思ってたの? いなくなったお父さんのことも、どんどん弱っていくお母さんのことも、全部忘れて楽しく生きられると思ってたの? 私がそんなに馬鹿だと思ってたんだ!? そんなわけないじゃん、そんなこと、出来るわけない、こんなの……!」
握りしめたお母さんの手が、残りの時間を教えてくれる。
きっともうすぐ、私は独りになるんだろう。
もう無駄なんだ。どうしたって助からない。
顔を上げてお母さんを見る。
お母さんが、私を見返してくる。
せめてあなたが目を開けているうちに。
今まで溜め込んだ悪態を全部吐き出してやると、私はそう決めた。
息を吸い込んで整える。
言いたいことを全部整理して、纏めて、たった一言、薬莢に込めて言い放つ。
そのつもりだったのに。
「治らなくたって、私のお母さんでいてよ……」
悪辣な思考の奔流から、一滴零れた雫のように。
私の口端から漏れ出た言葉は、たったそれだけだった。
私は、生まれたばかりの赤子のように、お母さんの腕の中で泣きじゃくった。
もうじき消えてしまうその人の中で、私は人生で最後の涙を流すと決めたのだ。




