厄災の地鳴り2
染みひとつないハンカチで、彼は注射器の先端を丁寧に拭き取った。
僕の敵愾心など眼中になく、如何にも学者然として、シリンジをケースに収める。
「なに、ただの麻酔だ。お前と差し向って話ができそうだと思ったからな」
構えた短剣の切っ先が微かに揺れる。
「僕と?」
「ラカンの件を詳しく聞きたいと思っていた。例のブラックスワン、その真贋のほどを」
僕の表情を一瞥して、ゼルはそのまま言葉をつづけた。
「そのくらいは知っているとも。学者の端くれだが、インケラーシャなんてインチキ、利用できるに越したことはない。まして余人の欲望を象るなど、その粋と言っていいさ」
「知ったように語らないでください。その異常性の発露で、どれだけの犠牲が出たか」
「どれだけ出たというんだ?」
間髪入れずに、ゼルは覗き込むようにこちらを伺う。
煽り立てるような口調、だがその実、心裏にあるのは探求心に思える。熱情に狂わされた、歪んだ趣向。
「数の問題じゃない。あなたは人命を数値にする。だからそんな白けた顔でいられるんだ」
「なら、トキ。お前は何を尺度にラカンを測る。喪った人命の多寡に、差異はないと?」
奥歯が軋む。
込み上げる黒煙を、喉奥で押しとどめる。
「何が聞きたいんです」
僕の言葉に、ゼルは従容として宙を見つめた。
「お前の願いだ。なぜ隕石など落とした?」
「……それは僕の願いとは違う。ブラックスワンが願いの過程に組み込んだ事象に過ぎない」
ゼルは眉根を顰めた。
「では、街が砂糖に埋もれたのは、一体なんの過程だった?」
「……」
「海が燃えるのは? 防砂林に道が生まれるのは? ブラックスワンに引き起こされた数々の事象のどこに『過程』が存在した? トキ、最後のお前の願いだけだ。お前の願いだけ、『過程』などという蛇足が絡みついている」
思わず逡巡する。彼の言い分は、正しかった。
ブラックスワンの顕現とともに、それまでの全ての願いは叶っていたのに。
海を燃やすのに理由は要らなかった。林を拓くのにも原因は必要なかった。なのになぜ、「空を晴らす」ためには隕石が降る必要があったのか。
「僕が、その原因だと?」
「どうかな」
僕の思考の模糊とした様を認め、ゼルは再び白けたように指先に目を落とした。
「お前が原因じゃない方が、余程わかりやすい。誰かが、そうあれかしと願った。その願いに応えて、ブラックスワンは街一つを消し飛ばす程の質量を天から招き入れた。そう、丁度奇しくも、魔王の頭上に」
そこまで言うと、ゼルは腕の中で気を失った二人の少女に目をやる。
「皮肉なものだ。超常の遺物、インケラーシャなどと謳われても……結局は人形か」
「……ゼルさん、その二人を近くに置く理由はなんです」
どことなく淀んだ、青く生ぬるい空気が足元を縫っていく。
「私の目的など、城を出た時から、とうに定まっている」
昏倒した二人を乗せたまま、馬が一歩ずつ歩き出す。
痕跡を辿って、その先。告解の滝へ。
「トゥーヴェン=ジユ。ただ一つ、それだけだ」




