夜色の契約
「まったくなんてことをしてくれたんだ! きみってやつは、ちょっと目を離したら黒契爪を抱えて帰ってくるのかい!? 発情期のネコでももう少し分別があるものだよ!!」
アンバールの棲む『領域』から帰還して早々、ソフィは目を白黒させて僕に詰め寄った。
シヴとストースはソファにふんぞり返ってクッキーを頬張り、我関せずを決め込んでいる。
「爪が黒くなっただけじゃないか! 別に何が変わったわけでも」
「何が、変わって、ないって!?」
「痛い痛い痛い」
ソフィは僕の腹上にまたがると、マウントポジションから小さな両拳を振り下ろす。君は自分が魔王だという自覚に乏しくないだろうか。
「いいかいトキ、それは契約の証だ」
「契約……? 誰との」
「アンバールに決まっているだろう!!」
「な、なんだってぇ!?」
生きてきて初めて言ったセリフだった。
だがそれが許されるぐらい驚きの情報ではなかったか。
「で、でも、今までに爪が黒い人なんか会ったことないよ! 使い魔との契約ならヘルメスさんやストースさん、それにシヴだってしてるんでしょ?」
「きみが知らないだけで、シヴは黒契爪だよ。でも、それだって極めてレアケースだ。黒契爪というのはね、きみたち人類種が、分を弁えず幻想種と契約を結んだときに表れる契約の証なんだ。生半可な相手との契約では発現したりしないんだ!」
彼女が言うが早いか、僕はくるりと振り返ってシヴに駆け寄る。思えば彼女の拳にはいつもバンテージのような白い包帯が巻かれていて、素肌を露出しているのを見たことが無い。
「ゆぬー!」
「ちょ、暴れない暴れない」
「ゆぬ……」
シヴを抱きかかえて膝の上に載せると、うまい感じに収まりがついたらしく、妙におとなしくなった。すかさず僕は手を伸ばし、するすると左手の包帯を取り払った。
褐色の左手。その指先の爪は漆黒に染まり、室内の照明を艶やかに照り返している。
「本当じゃないか……」
目を剥く僕の隣にソフィが歩み寄る。
「詳しい説明は省くけれど、シヴの黒契爪はほとんどギフト、神の加護と言っていいいものだよ。でも、きみのそれはちがう。その黒契爪は幻王が交わした契りと等しい、正直言って狂った契約だ」
「そんな覚えはないんだけど!」
「まぁ……相手はあのアンバールだし、それでまぁ、きみだし」
「後半とても失礼な視線を感じたんだけど!?」
勝手に契約を押し付けられたということなのだろうか。怖気が走る。知らない間に不条理な契りを交わしていたらどうしよう。輸入品に税が掛けられないとか、自国で司法が機能しないとか、時代ひとつかけて撤廃しないといけない契約だったらどうしよう。
「黒契爪のメリットは、身に余るほど強力な幻想種の能力を引き出し、行使できる点だ。そしてデメリットがあるとすれば、お互いの心臓が共有されるというところ。胸に触れてみるといい……ぼくのじゃない! ばか、変態!」
「冗談だよ……」
顔を真っ赤にして怒り出すソフィを尻目に、僕は自分の胸に手を当てた。すると、僕の膝の上に乗っていたシヴも後頭部を押し当ててくる。
「本当だ、鼓動が、無い……」
「ない! ゆぬ」
確かめるように擦りつけてくるシヴの頭をさすりながらも、僕には実感が湧かなかった。
僕の体内から、心臓が無くなった?
「で、でも、それって死なないってことじゃない?」
「心臓を刺されて死ぬことがないだけ。首を掻き切られたら死ぬから」
「それに! アンバールの力を使えるってすごくない? 今の僕なら、もしかしたらソフィよりも強いかもしれないよ?」
「それがいちばんの問題だから」
「ちょ、ちょっと!?」
彼女は言うと、嫌がるシヴを強引に僕から引きはがして代わりに僕の膝の上に乗った。しかもシヴとは違って向かい合わせだ。いたたまれなくて、恥ずかしくて死んでしまう。
「なんのつもり……!」
「よく聴くの、トキ。きみの身体は普通の人間と比べても圧倒的に魔力のキャパシティが小さい。そこに原始龍の魔力なんか流し込んだらどうなるか、想像がつく?」
「……もしかして爆発する?」
「そういうこと。その左手に自分以外の魔力を感じたら、絶対に使っちゃだめ」
「肝に銘じます」
僕の言葉を聞くと、ソフィは「よし」と小さく言葉を切って、なぜか僕に平手打ちして去っていった。赤くなった頬をさすりながら立ち上がると、ストースがやれやれといった様子でこちらを見ていた。
「さて魔王様、結局、ゼプキル市までの移動は転移ですか?」
「ん。まさか神鳥やら原始龍に乗せてもらうわけにもいかないでしょ」
「まったく、最初からそのつもりなら、わざわざアンバール様の領域に飛ばすなんて」
「いや、面白いと思ったんだよ……実際、想像以上に面白かったし」
ソフィがストースに一枚の写真立てを投げかける。二本の指先で軽く放り投げたように見えたが、おかしな魔力を纏って直進した。そいつは想像だにしない速度でストースの手の中に飛び込むと、バキッと音を立てて写真枠が飛散した。
「なんの写真で……んぉおクレフィアス嬢! あ゛ぁお美しい!!」
「うるさい、汚い」
「そこまで仰らなくても」
「あと見るべきところはクレフィアスじゃない。もう一人の不健康不良男児」
「ほぅ、こちらも懐かしい顔ですね」
僕とシヴが、ストースの横から写真を覗き込む。写真の中央には玉座があり、今よりもさらに数段幼く、愛らしいソフィの姿があった。フォーマルな写真のようで、すました表情で座っている彼女がまた愛らしい。
「まおう、かわいい」
「はいはいどーも」
「魔王、可愛い」
「うるさいばか」
対応の差で風邪をひきそうだ。
見るとその両隣には保護者よろしく男性と女性が一人ずつ立っていて、一人は緑の髪をポニーテール気味に結んだ美しい女性、種族は人間だろうか。もう一人はやけに頬がこけた、真夜中みたいな長い黒髪を緩くまとめたエルフの男性。目が虚ろだ。
「それが植聖のゼル。五年前に解雇してから、ずっとゼプキルにいる。アノマリスのことは、たぶんこの世で一番詳しい。まずはゼルに会って、ホロウメラデュラとウカノキの植生について調べること」
「承知しました」
「それとトキ」
ソフィは少しだけ眉根に皺を寄せると、僕の右手を取って指さした。
「この指輪は外さないで。絶対に」
黒く輝く指輪。叙勲式で君からもらったその指輪の意味を、この時の僕はまだわかっていなかった。
あまりに真剣な表情で僕を見つめるその金の瞳に気圧されて、僕は無言で頷くしかなかった。




